古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「射礼」記事について

2018年12月10日 | 古代史

 『書紀』には「射礼」記事があります。「射礼」とは本来「正月」の行事であったようで、「正月」を賀するために集まった多くの官人達による「矢当て競争」のことです。
 元々は「弓矢」を射る技術の向上の目的であったと思われ、また「正月」に行われるということもあって、「神」に奉納する目的もあったと考えられますが、後に「娯楽」の要素が強くなっていったと考えられています。
 『隋書俀国伝』によれば「毎至正月一日、必射戲飲酒」とあり、「射礼」が行われていたようです。ただし、これが行なわれた日付は「一日」とされていますが、後の宮廷行事としての「射礼」はおよそ「十七日」前後の日付が選ばれていたようであり「八世紀」以降は正式に「十七日」となったとされます。
 ちなみに『書紀』で「射礼」記事が出てくるのは「大化二年」記事が最初であり、以降「不連続」に現れます。しかし、この『隋書俀国伝』記事によればもっと早期から行なわれていたようにも見られ、そうであれば「七世紀前半」の「空白」が理解しにくいところです。

 『書紀』の「射礼」の記事一覧は以下の通りです。

「(大化)三年(六四七年)春正月戊子朔壬寅(十五日)。射於朝庭。」
「(天智)九年(六七〇年)春正月乙亥朔辛巳(七日)。詔士大夫等大射宮門内。
「(天武)四年(六七五年)正月丙午朔壬戌(十七日)公卿大夫及百寮諸人初位以射于西門庭。」
「(天武)五年(六七六年)正月庚子朔乙卯(十六日)置禄、射于西門庭。中的者則給禄有差。」
「(天武)六年(六七七年)正月甲子朔庚辰(十七日)射于南門。」
「(天武)七年(六七八年)正月戊午朔甲戌(十七日)射于南門。」
「(天武)八年(六七九年)正月壬午朔己亥(十八日)射于西門。」
「(天武)九年(六八〇年)正月丁丑朔癸巳(十七日)親王以下至于小建射南門。」
「(天武)十年(六八一年)正月辛未朔丁亥(十七日)親王以下小建以上射于朝廷。」
「(天武)十三年(六八四年)正月丙午(二十三日)天皇御于東庭羣卿侍之。時召能射人及侏儒左右舍人等、射之。」
「(天武)十四年(六八五年)五月丙午朔庚戌(五日)射於南門。」
「(持統)三年(六八九年)三年秋八月辛巳朔(中略)辛丑(二十一日)…觀射。」
「(持統)五年(六九一年)五年八月己亥朔癸卯(五日)。觀射。」
「(持統)八年(六九四年)春正月乙酉朔辛丑(十七日)。漢人奏請踏歌。五位以上射。…壬寅(十八日)。六位以下射。四日而畢。」
「(持統)九年(六九五年)丙申(十七日)。射。四日而畢。」
「(持統)十年(六九六年)春正月甲辰朔辛酉(十八日)。公卿百寮射於南門。」

 上に見るように「大射」「射礼」記事はほぼ『天武紀』『持統紀』に集中しています。このような「集中」は「廣瀬」「龍田」記事と様相がよく似ています。
 「廣瀬」「龍田」記事はその起源が「七世紀初め」の「灌仏会」と「盂蘭盆会」にあると考えられ、それが「七世紀半ば」に「神道形式」に改められたものと考えられますから、この「大射」「射礼」記事も同様である可能性が高いものです。つまりその起源は「七世紀初め」にあると考えると『隋書俀国伝』記事とよく重なるものです。

 以下にこれら記事群の特徴を挙げます。
①「六八六年」「六八七年」「六八八年」の三年間は「大射記事」がありません。これも「廣瀬・龍田記事」が「六八七年」「六八八年」「六八九年」に記事がないこととよく似た現象であり、時期も似ています。
②「六七九年」以降は「西門」では行なわれなくなります。
③「六八五年」以降は「正月」に行われなくなりますが、「六九四年」以降は再び正月の行事となります。
④日付は「正月」に行なっている間は一定しており、「十七日」近辺の日付が選ばれているようです。しかし「五月」「八月」に行なわれた「六八四年」「六八五年」「六八九年」には「五日」付近が選ばれているようです。

 これらを見ると、「六八六年」から「六八九年」付近は多くの行事が行なわれなかったあるいは自粛されていたらしいことが判り、このような「正月」の儀礼が行われない理由として最も考えられるのは「喪中」であるということです。それが「三年間」と云うことから「三年の喪」に服していたらしいことが察せられます。つまり「王権」の誰かが死去したことを推定させます。
 その翌年以降「西門」で行なわれなくなるということは、「西門」がなくなったか「遷宮」ないしは「遷都」が行われたと見る事ができるでしょう。そこには「西門」がない構造であったのではないかと考えられる事となります。該当するのは「難波宮」ではないでしょうか。
 「難波宮」の遺跡発掘からは「東西門」が確認されていません。「前期難波宮」は「回廊」、その回廊から伸びる「八角殿院」、「前殿」(「大極殿」の前方にある建物)、「朝堂」など、多数の遺跡が確認されていますが、「東西門」はなかったものと推定されています。
 この事と『書紀』のこれらの「記事」で明確に「東西門」との記述が確認されないのは整合していると考えられ、ここに書かれた記事はある意味「難波宮殿」の実態を把握した上で記述しているという可能性が考えられます。
 「三年」の喪に服した後に「難波宮」への遷都が行われていることを考えると、この「喪」は「七世紀前半」の「倭国王」のものであったことが推定され、それを『書紀』では「天武」の死去として書かれていると思われます

 また、実施の場所として書かれていることに「変遷」があることが注意されます。
 初出及び二回目記事では「朝庭」「宮門内」とされていたものが、三度目の出現時には「西門庭」になっています。これは「西門」から出たところに広がる場所を指すと考えられ、「内部」から「外部」へ出たこととなります。
 また、「南門」は「正門」であり「朱雀門」でもあります。その外部で「射礼」が行なわれたとされています。また、「東庭」とありますが、これがただちに「東門」の前の「庭」を指すとは言い切れません。少なくともこの文章からは「東門」の存在が不明です。
 これらの変遷は「天武」の所在していたとされる「明日香岡本宮」の構造と照らして考えても理解できるものではありません。
 
 以上のことから、上の「西門記事」は「難波副都」に対する「首都」である「筑紫宮殿」の時代のことと考えざるを得ませんが、現在確認される「大宰府政庁第Ⅰ期」遺構からは「西門」の存在が確認されていません。ただし、この時点の「筑紫宮殿」は今の場所ではなかった可能性があり、その時点では「西門」があったという可能性があります。(宮殿そのものは「移築」ではないかと思料されます)
 そして、これ以降『書紀』には「射礼」の記事がなくなります。その後「八世紀」の「文武朝廷」では「慶雲三年」(「七〇六年」)の「射礼」について「命中」の度合いによって褒美の額を定めたという趣旨の記事が出てくるまで、「大射」記事が全く見えなくなります。

「慶雲三年(七〇六年)春正月丙子朔壬辰条」
「定大射祿法。親王二品。諸王臣二位。一箭中外院布廿端。中院廿五端。内院卅端。三品四品三位。一箭中外院布十五端。中院廿端。内院廿五端。四位一箭中外院布十端。中院十五端。内院廿端。五位一箭中外院布六端。中院十二端。内院十六端。其中皮者。一箭同布一端。若外中内院及皮重中者倍之。六位七位。一箭中外院布四端。中院六端。内院八端。八位初位。一箭中外院布三端。中院四端。内院五端。中皮者一箭布半端。若外中内院。及皮重中者如上。但勳位者不着朝服。立其當位次。」

 しかし『天武紀』の記事では既に、その成績により「録」(褒美)が決められていることが知られ、それは当然何らかの「規定」に拠ったものと考えざるを得ない訳ですから、それとは整合しないと思われます。
 このことは「廣瀬・龍田記事」と同様、この記事も本来の年次には置かれていないのではないかという疑いが生じることとなるものです。
 

(この項作成日 2011/09/04、最終更新 2014/01/25)(旧ホームページ記事の転載)

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「廣瀬大忌神・龍田風神」記事

2018年12月10日 | 古代史

 『天武紀』に入った「六七五年」という年次に「廣瀬大忌神・龍田風神」への遣使の派遣という記事が始まります。この記事の中身については既に会報に投稿していますが(『古田史学会報118号『「廣瀬」「龍田」記事について 「灌仏会」、「盂蘭盆会」との関係において」』)、「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」に対する「祖先供養」という意味があったと考えました。しかし、それが『天武紀』になって突然始まるという「唐突さ」については説明がその段階ではついていませんでした。

 このような「神道形式」による「祖先祭礼」が『天武紀』に始まるわけですが、「白雉年間」の創建とされる「寺社」(特に神社)その中でも「宇迦之御魂神」を祭る「稲荷」系神社が多いこととこの「祖先祭祀」が関連しているのではないかと思われ、それは「廣瀬大忌神」の祭神が「宇迦之御魂神」であることでも了解されるものです。ただしこのことは「廣瀬」「龍田」という両神に対する「遣使」を相当遡上する時期に「宇迦之御魂神」を奉祭する寺社が設置されていることとなり、その間のいわば「タイムラグ」が不審と思われることとなります。この「祖先祭祀」がそのような時間経過を経なければならなかった事情がよくわからないというのが実情です。
 大きなくくりでみると途中に「壬申の乱」があり、「白村江の戦い」に代表される「百済」をめぐる戦いがあったことは確かですから、それらがこのような祭祀を行えなかった理由とすることも可能かも知れませんが、実際には各々十年という単位で時系列として配置されるものですから、いずれにしてもその間隙は埋めることはいくらでも可能であったはずです。そう考えると、この「両神社」への「遣使」は実は「七世紀半ば」の時代に始まったものが移動されているのではないかという疑いが生じることとなります。
 「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」に対する「祖先供養」という見方からは「七世紀半ば」という時期は不自然ではないと思えます。

 ところで、『書紀』に出てくる「廣瀬・龍田」記事についてはその記事の特徴を書き出してみます。

・「六七五年」記事には「使者の」名称までが書かれています。これが一番詳しい記事です。
・「六七五年」、「六七六年」、「六七七年」は「龍田風神」が前、「廣瀬大忌神」が後に書かれます。他の年次ではこの逆になっており、「廣瀬」が先「龍田」が後です。
・「六七九年」以降は「祭廣瀬龍田神」と簡略に書かれるようになります。これは「六八九年」まで続きます。ただし、「六八四年四月」にいちど「祭廣瀬大忌神。龍田風神。」と書かれるものの、翌年また元へ戻ります。
・「六八六年」、「六八七年」、「六八八年」には「四月記事」がありません。(ただし、「六八六年」には「七月記事」はあります)
・「六七五年」、「六七八年」には「七月記事」がありません。さらに「六八七年」、「六八八年」、「六八九年」にも「七月記事」がありません。
・「六九〇年」記事では「遣使」が前置され「大忌神」と「風神」という肩書きが付加されます。翌年の「六九一年」以降になると「遣使者」というのが「前置」されます。その「六九一年」には「七月記事」がありません。
・「六九二年」以降の記事(四月も七月も)は全て「祭る」から「祀る」に変わっています。
  
 同じ「広瀬・龍田」記事でもこれだけのバリエーションがあるわけですが、これらの中では最後の「祭る」と「祀る」の違いが特に気になります。
 一般に「祭る」は「地祇」であり「祀る」は「天神」とされます。また『書紀』の中では特に「伊勢神宮」に関連したことに「祀る」が使用されています。

「神武天皇四年(甲子前六五七)二月甲申廿三条」「詔曰。我皇祖之靈也自天降鑒光助朕躬。今諸虜已平。海内無事。可以郊『祀』天神用申大孝者也。乃立靈畤於鳥見山中。其地號曰上小野榛原。下小野榛原。用祭皇祖天神焉。」

 これ以降「祭祀」という単語以外の出現例は「欽明紀」に出てくる「伊勢大神」へ「待祀」するという用例が以下のものです。

「欽明天皇二年(五四一)三月条」「納五妃。元妃。皇后弟曰稚綾姫皇女。是生石上皇子。次有皇后弟。曰日影皇女。此曰皇后弟。明是桧隈高田天皇女。而列后妃之名。不見母妃姓與皇女名字。不知出何書。後勘者知之。是生倉皇子。次蘇我大臣稻目宿禰女曰堅鹽媛。堅鹽。此云岐施志。生七男。六女。其一曰大兄皇子。是爲橘豐日尊。其二曰磐隈皇女。更名夢皇女。初侍『祀』於伊勢大神。後坐奸皇子茨城解。…」

「欽明天皇十六年(五五五)二月条」「…惠報答之曰。臣禀性愚蒙不知大計。何况禍福所倚。國家存亡者乎。蘇我卿曰。昔在天皇大泊瀬之世。汝國爲高麗所逼。危甚累卵。於是天皇命神祇伯。敬受策於神祇。祝者廼託神語報曰。屈請建邦之神。徃救將亡之主。必當國家謐靖。人物乂安。由是請神徃救。所以社稷安寧。原夫建邦神者。天地株判之代。草木言語之時。自天降來造立國家之神也。頃聞。汝國輟而不『祀』。方今悛悔前過。脩理神宮奉祭神靈國可昌盛。汝當莫忘。…」

「敏達天皇六年(五七七)二月甲辰朔条」「詔。置日祀部。私部。」

 これらの例を見ると明らかに「伊勢」との関連で「祀る」という用語が使用されています。
 また「日祀部」というのはその実体が何を指すのかやや不明ですが、「太陽崇拝」に関係するものともいわれます。それに関連するのが、『用明紀』の記事です。そこには「奉日神神祀」という形で出ており、「日祀部」の職掌が太陽神を祀る宗教的行為であることが示されていると同時にそれが特に「伊勢神宮」と連結して語られていることが注目されます。
             
「詔曰。云々。以酢香手姫皇女拜伊勢神宮奉日神祀。是皇女自此天皇時逮干炊屋姫天皇之世。奉日神神祀。自退葛城而薨。見炊屋姫天皇紀。或本云。卅七年間奉日神祀自退而薨。」「(敏達即位前紀)(五八五年)九月甲寅朔壬申条」

 このように「祀る」という単語は全て「伊勢大神」との関係で使用されているとみられ、これに関しては「廣瀬大忌神」が、「伊勢神宮外宮」の「豊宇気比売大神」や、「伏見稲荷大社」の「宇迦之御魂神」と「同神」ともされている事が注目されます。このことは「廣瀬・龍田」を「祀る」ということと「伊勢神宮」を「祀る」こととが本来同義であったことを示すと考えられます。
 「広瀬」「龍田」への「遣使」による「祭祀」という行為が具体的に何を意味するかは微妙ですが、「伊勢大神」との関係で言うと、年代として最後の方で「関係」ができたとは考えにくく、この「廣瀬」「龍田」記事の当初から「伊勢大神」(つまり「宇迦之御魂神」)とは関係があったとみるべきこととなり、そうであればこの「六九二年以降」という時期だけに「祀る」表記があるのは不自然であることは間違いありません。
 当初重要視され、それがだんだん簡略化していくというのは有り得る話ですが、この『書紀』のパターンは逆になっているようです。それはこの記事配列に何か問題があることを物語っていると思われるものです。

 ところで、「中国」(唐)の祭祀に関する規定では「大祀」「中祀」「小祀」と分かれており、「天子」として「天神」を祭る場合で「小祀」以外は皇帝本人が本来「祝文」を奏する必要がありますが「小祀」の場合は「使者」を派遣するだけでよいとされていました。
 「太唐開元礼」には以下のようにあります。

 「凡國有太祀・中祀・小祀.臭天上帝・五方上帝・皇地祇・神州・宗廟,皆為大祀.日月・星辰・社稜・先代帝王・嶽・鎮・海・濤・帝社・先蚕・孔宣父・斉太公・諸太子廟,雌為中祀.司中・司命・『風師・雨師』・霊星・山林・川滓・五龍祀等,雌為小祀.州県社稜・釈莫及諸神祀,並同小祀.」

 ここでいう「小祀」に「風師」「雨師」というのがあるのがわかります。一般には「広瀬」「龍田」は各々「水」の神と「風」の神とされていますから、「広瀬」「龍田」両神に対する祭祀はこの『風師・雨師』に対するものの「倭国版」とでもいうべきものであり、「天皇」(倭国王)が直接参加せず、使者を派遣する形としているのは、そのような規定を踏まえたものと見ることもできそうですが、このような祭祀で『書紀』に特記されているのはこの「広瀬」「龍田」だけですから、その重要性はかなり高いものであり、単に「風師」「雨師」を祀る「小祀」であったとは逆に考えにくいこととなります。まして「伊勢神宮」を祀るのと同等の意義があったとするなら、「伊勢神宮」は「日神」であったとされているわけですからその意味では「中祀」となりますが、それよりもどちらかといえば「先代帝王」ではなかったかと考えられるのではないでしょうか。
 この「先代帝王」とは「禅譲」などを受けた場合の「前王朝」の王を意味するものであり、現王朝とは直接「血統」がつながっていないような場合についての祭祀を指すものです。つまり「天武」「持統」達とは異なる王朝の「王」であった人物に対する「祭祀」ではなかったかと考えられ、このような場合は「王」(皇帝)は「祝文」に署名した後については「官人」に代行させることができたとされており、これと同等の取り扱いであったのではないかと思われ、「小祀」であったと見る必要はないこととなります。

 ただしこの「開元礼」のほとんどはこの時決められたものではなく、少なくとも「隋代」(特に「開皇年間」)には既にその原型があったと見られます。このような「礼制」はその前代の「南朝」の「梁」や「北朝」の「北斉」付近で相当「制度」として固められたものと思われ、それを「隋」(文帝)が集大成としてまとめたとされます。それを示すように『隋書』にも『開元礼』とほぼ同文が既に書かれています。

(『隋書/卷六 志第一/禮儀一/南北郊』より) 「…昊天上帝、五方上帝、日月、皇地祇、神州社稷、宗廟等為大祀,星辰、五祀、四望等為中祀,司中、司命、風師、雨師及諸星、諸山川等為小祀。」

 これらはその時点で『江都集礼』という「儀注」として結実したものであり、これを原型としてアレンジしたものが「唐」の『元徽礼』でありさらに後の時代に集大成された『開元礼』であったと考えられるわけです。そう考えると、この「広瀬」「龍田」が『開元礼』に準拠したものなのか『江都集礼』に拠ったものかなどは断定的にはいえないこととなるでしょう。少なくともこれらの「礼制」の多くが「吉備真備」によってもたらされたという説が有力であったとしても「廣瀬」「龍田」は彼以前から行われていることとなるわけですから、「遣唐使」というより「遣隋使」によってもたらされたという可能性を考慮する必要があることとなります。
 現実として『日本国現在書目録』には『永徽礼』『開元礼』の他に『江都集礼』も載せられており、その意味でもこの「広瀬」「龍田」祭祀が『江都集礼』に拠ったという可能性は否定できないこととなるでしょう。
 つまり「七世紀半ば」に「廣瀬」「龍田」への遣使奉祭が行われるようになったと見て矛盾はないこととなるわけであり、その場合特に「持統紀」の記事に年次移動がある可能性が高いこととなるでしょう。そのことは間接的に「倭国年号」の「大化」と「書紀年号」の「大化」の関係において「多元史論者」の多くが「六九五年」を「大化元年」とする考え方が本当に正しいのかが問われていると言えます。


(この項の作成日 2013/02/13、最終更新 2015/07/02)(現時点において旧ホームページ記事に加筆)

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