以下も「遣隋使」論考の一端に位置するものです。
「高麗大興王」とは誰か
「趣旨」
ここでは『推古紀』と『元興寺伽起』に登場する「高麗大興王」について検討し、それが「高麗王」の誰かを指すものとは考えにくいこと、他の「高麗王」に「大興王」のような称号を冠したものが見られないこと、「隋」の「高祖」(文帝)と「大興」という地名には特別な関係があること、「文帝」と「仏教」にも特別なつながりがあり、「倭国」において「仏像」を造る際に助成することは当時の情勢からもありうること、以上を述べるものです。
Ⅰ.「高麗」の「大興王」とは
『推古紀』と『元興寺縁起』の双方に「高麗」の「大興王」という人物が出てきます。それによれば彼は「仏像」を造るに際して「黄金三百両」ないし「三百二十両」を「助成」したとされています。
「趣旨」
ここでは『推古紀』と『元興寺伽起』に登場する「高麗大興王」について検討し、それが「高麗王」の誰かを指すものとは考えにくいこと、他の「高麗王」に「大興王」のような称号を冠したものが見られないこと、「隋」の「高祖」(文帝)と「大興」という地名には特別な関係があること、「文帝」と「仏教」にも特別なつながりがあり、「倭国」において「仏像」を造る際に助成することは当時の情勢からもありうること、以上を述べるものです。
Ⅰ.「高麗」の「大興王」とは
『推古紀』と『元興寺縁起』の双方に「高麗」の「大興王」という人物が出てきます。それによれば彼は「仏像」を造るに際して「黄金三百両」ないし「三百二十両」を「助成」したとされています。
「(推古)十三年(六〇五年)夏四月辛酉朔。天皇詔皇太子。大臣及諸王。諸臣。共同發誓願。以始造銅繍丈六佛像各一躯。乃命鞍作鳥爲造佛之工。是時。『高麗國大興王』聞日本國天皇造佛像。貢上黄金三百兩。」
(『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』)
「…十三年歳次乙丑四月八日戊辰 以銅二萬三千斤 金七百五十九兩 敬造尺迦丈六像 銅繍二軀并挾侍 『高麗大興王』方睦大倭 尊重三寳 遙以隨喜 黄金三百廿兩助成大福 同心結縁 願以茲福力 登遐諸皇遍及含識 有信心不絶 面奉諸佛 共登菩提之岸 速成正覺 歳次戊辰大隨國使主鴻艫寺掌客裴世清 使副尚書祠部主事遍光高等來奉之 明年己巳四月八日甲辰 畢竟坐於元興寺…」
この「高麗大興王」というのが誰を指すのかは、この年次(六〇五年か)から考えると通常は「嬰陽王」以外いないとされ、また多くの論者が(というより「全員」が)それを「毫も」疑っていませんが、実際には彼にそのような名があったとはどこにも書かれていません。
『三国史記』『隋書』その他の史料を見ても「元」という「字(あざな)」以外には何も書かれていません。これについては「岩波」の「大系」の注でも「嬰陽王の生時の呼名と思われる」とされるもののその根拠は特に示されず、ただ「元興寺丈六銘にもある」とだけ書かれています。
また「高麗王」がこのように「黄金」を寄進する理由もやや不明です。この年次の少し前(開皇十七年)に「嬰陽王」の父王である「平原王」(湯)は「隋」の「高祖」(文帝)から「叱責」を受けています。それは隋」が「陳」を征服した時点で次に矛先が回るのは「自分たち」であるという恐怖から、「治兵積穀爲拒守之策」(『隋書』『三国史記』等)つまり、武力を蓄え、食料を準備し「国境」を封鎖するような戦術をとったからです。これを「文帝」に咎められたわけですが、この「元興寺」に対する援助は一般には「倭国」と「連係」して「隋」に対抗する意味とされ、また「隋」と「倭国」の接近を阻止しようとするものであったと理解するのが常識的なようです。しかし、そのような「軍事」的な目的であれば、「麗済同盟」のようなもっと純粋な軍事的結合関係を構築すればよいわけであり、「仏教」を介在とした関係の構築というのは、「隋」の圧力に対抗するという目的のためにはかなり迂遠な方法であると思われます。
そもそも「仏教」は「隋」の国教のようなものですから、仏教を介して「倭国」と接近するというのは「隋」と倭国」に「割り込む」方法論としては成算が見出しにくいものではないでしょうか。(たとえば「仏教」に対抗して、「道教」的世界観を共有する様な方法をアプローチする方がまだしも効果的と思われます)
「仏教」を宣揚するような方法論は「倭国」と「隋」との間を接近させる意味はあってもその逆にはなり得ないと思われます。現に「高麗」は「隋」に対抗するため「突厥」に使者を送って共同軍事態勢を築こうとしたとされます。それは「仏教」を介在させるようなものではなく、派遣された人物も僧侶ではありませんでした。さらに「靺鞨」を支配下に入れ、共同で「隋」の版図である「遼西」に攻め入っています。これらの行為と「倭国」への「仏教」に範囲を限定したものとは明らかに趣旨が異なるものであり、同じ意図から出たものとは考えにくいものです。
この当時「高麗」と「倭国」の関係がそれほど強固なものであったとも考えにくいのは以下の『隋書』の記述からも窺えるでしょう。
この当時「高麗」と「倭国」の関係がそれほど強固なものであったとも考えにくいのは以下の『隋書』の記述からも窺えるでしょう。
「…新羅、百濟皆以倭為大國多珍物、並敬仰之恒通使往來。…」(『隋書/列傳第四十六/東夷/俀国』より)
ここでは「百済」と「新羅」については「恒に往来」とされているものの、「高麗」との間については何も触れられていません。これは「倭国」からの使者に対して「皇帝」から下問があり、それへの返答をまとめたものと思われますから、「倭国」と関係の深い国として「高句麗」が入っていないのは「隋」による「推理」や「推測」ではなく、事実であったと考えられます。そのような中で「高麗」から「黄金」が大量に「助成」されるというのは非常に考えにくいのではないでしょうか。
つまり「高麗王」が「黄金」を「倭国」に助成する「必然性」が理解しにくいことも事実と思われるわけです。
また、「大興」という意義が「大いに興す」という事ならば、例えば「広開土王」のように「国土を広げた王」というような意義がこの「大興王」という呼称にあったかというと、それも疑問です。「嬰陽王」の時代に領土が広がったとか、大きく繁栄したというようなことも史料による限り何も感じられないからです。このような命名あるいは自称は何らかの「事績」をバックにしたものと思われるのが普通ですから、それらがないとすると「大興王」という名称が「浮いて」しまうでしょう。つまり、これらのことは「大興王」というのが誰を指すのか、それは本当に「高麗王」なのか、強く疑問の発生するところであると思われます。
Ⅱ.他の「高麗王」の検討
そもそも「高麗王」について「大興」というような「称号」が付加されている例は『書紀』では他には見られません。
「高麗」の「王」について『書紀』では『応神紀』などに、この「大興王」以外に「高麗王」という表記が計十三例の出現しているのが確認できます。
(応神紀)「廿八年秋九月。高麗王遣使朝貢。因以上表。其表曰。『高麗王』教日本國也。時太子菟道稚郎子讀其表。怒之責高麗之使。以表状無禮。則破其表。」
(応神紀)「卅七年春二月戊午朔。遣阿知使主。都加使主於呉。令求縫工女。爰阿知使主等。渡高麗國欲逹于呉。則至高麗。更不知道路。乞知道者於高麗。『高麗王』乃副久禮波。久禮志二人爲導者。由是得通呉。呉王於是與工女兄媛。弟媛。呉織。穴織。四婦女。」
(雄略紀)「八年春二月。遣身狹村主青。桧隈民使博徳使於呉國。…由是『高麗王』遣精兵一百人。守新羅。有頃高麗軍士一人取假歸國。…遣使馳告國人曰。人殺家内所養鷄之雄者。國人知意。盡殺國内所有高麗人。惟有遣高麗一人。乘間得脱逃入其國。皆具爲説之。『高麗王』即發軍兵。屯聚筑足流城。或本云。都久斯岐城。遂歌儛興樂。於是。新羅王夜聞高麗軍四面歌儛。知賊盡入新羅地。乃使人於任那王曰。『高麗王』征伐我國。…。」
(雄略紀)「廿年冬。『高麗王』大發軍兵。伐盡百濟。爰有少許遺衆。聚居倉下。兵粮既盡。憂泣茲深。於是高麗諸將言於王曰。百濟心許非常。臣毎見之。不覺自失。恐更蔓生。請遂除之。王曰。不可矣。寡人聞。百濟國者。爲日本國之官家。所由來遠久矣。又其王入仕天皇。四隣之所共識也。遂止之。…。」
(欽明紀)「(五五三年)十四年…冬十月庚寅朔己西。百濟王子餘昌明王子。威徳王也。悉發國中兵。向高麗國。…是時百濟歡叫之聲可裂天地。復其偏將打鼓疾闘。追却『高麗王』於東聖山之上。」
(欽明紀)「(五六二年)廿三年八月。天皇遣大將軍大伴連狹手彦。領兵數萬伐于高麗。狹手彦乃用百濟計。打破高麗。其王踰墻而逃。狹手彦遂乘勝以入宮。盡得珍寶〔貝+化〕賂。七織帳。鐵屋還來。舊本云。鐵屋在高麗西高樓上。織帳張於『高麗王』内寢。以七織帳奉獻於天皇。以甲二領。金餝刀二口。銅鏤鍾三口。五色幡二竿。美女媛媛名也。并其從女吾田子。送於蘇我稻目宿禰大臣。於是。大臣遂納二女以爲妻居輕曲殿。鐵屋在長安寺。是寺不知在何國。一本云。十一年大伴狹手彦連共百濟國駈却『高麗王陽香』於比津留都。」
(推古紀)「(六一〇年)十八年春三月。『高麗王』貢上僧曇徴。法定。曇徴知五經。且能作彩色及紙墨。并造碾磑。盖造碾磑始于是時歟。」
(推古紀)「(六二五年)卅三年春正月壬申朔戊寅。『高麗王』貢僧惠潅。仍任僧正。」
(天武紀)「(六八二年)十一年六月壬戌朔。『高麗王』遣下部助有卦婁毛切。大古昴加。貢方物。則新羅遣大那末金釋起。送高麗使人於筑紫。」
これらの例を見ると「大興王」と同様の呼称は一例もなく、「黄金」を助成したという「高麗大興王」という表現はかなり特異なものであることがわかります。
Ⅲ.「大興」と「隋」の「高祖」
この時代「大興」という語は「隋」に関してのみ使用されており、「都」を新たに「大興城」とするなど「大興」が付されたものがいくつか確認できます。
「開皇十七年翻經學士臣費長房上
大隋錄者。我皇帝受命四天護持三寶。承符五運宅此九州。故誕育之初神光耀室。君臨已後靈應競臻。所以天兆龜文水浮五色。地開泉醴山響萬年。…謀新去故如農望秋。龍首之山川原秀麗。卉物滋阜宜建都邑。定鼎之基永固。無窮之業在茲。因即城曰『大興城』。殿曰『大興殿』。門曰『大興門』。縣曰『大興縣』。園曰『大興園』。寺曰『大興善寺』。三寶慈化自是『大興』。萬國仁風緣斯重闡。伽藍欝跱兼綺錯於城隍。幡蓋騰飛更莊嚴於國界。法堂佛殿既等天宮。震旦神州還同淨土。…」(『大正新脩大藏經/歴代三寶紀十五卷/卷十二』より)
ここで見るように「隋」が成立して直後に「城」「殿」「門」「県」「園」「寺院」などあらゆるものに「大興」という名がつけられたとされます。つまり、「大興」という語は「隋」の「高祖」(文帝)に関する専門用語ともいえるものなのです。
たとえば「北周」の時代、まだ「文帝」(楊堅)が「北周」の皇帝配下の武将であった際に「大興」郡に「封じられた」とされています。
「…年十四,京兆尹薛善辟為功曹。十五,以太祖勳授散騎常侍、車騎大將軍、儀同三司,封成紀縣公。十六,遷驃騎大將軍,加開府。周太祖見而嘆曰「此兒風骨,不似代間人」明帝即位,授右小宮伯,進封『大興郡公』。…」(『隋書/帝紀第一/高祖 楊堅』より)
「京兆郡開皇三年,置雍州。…大業三年,改州為郡,故名焉。置尹。統縣二十二,戸三十萬八千四百九十九。大興開皇三年置。後周于舊郡置縣曰萬年,…高祖龍潛,『封號大興』,故至是改焉。」(『隋書/志第二十四/地理上/雍州/京兆郡』より)
ここでは「京兆郡」の下部組織としての「県」の設置の経緯などが述べられていますが、「大興」は筆頭に挙げられ、その記述に対する「注」として、「高祖」が「北周」の時代、「龍潛」つまりまだ世に埋もれているときに「萬年」郡に封じられ、その地を「大興」と「号した」とされていますから、その時点で「大興郡公」となったわけですが、これは「大興王」という呼称の「原型」ともいえるものと思われます。また、このことが後年「受禅」の後「大興」という「県」を設ける理由となったと見られ、彼はこの「大興」という語と地域について特別な感情を持っていたものと思われます。それは「楊広」(後の「煬帝」)を皇太子にする際の「文帝」の「詔」にも現れています。
「…及太子勇廢,立上為皇太子。是月,當受冊。高祖曰「吾以『大興公成帝業』。」令上出舍 大興縣。…」(「隋書/帝紀第三/煬帝 楊廣 上」より)
ここでは「大興」の地において「帝業」を開始したという意味のことが書かれており、「皇帝」となった現在に至る中でこの「大興県」という場所が彼にとって特別な場所であったことが推察されます。
また「北宋」の「志磐」が表した『仏祖統紀』という書物の中でも「文帝」については以下のように「大興」を城とした王とされています。
「(仁寿)二年。西天竺沙門闍提斯那來上言。天竺獲石碑說。東方震旦國名大隋。城名大興。王名堅意。建立三寶。…」(『大正新脩大藏經/佛祖統紀五十四卷/卷三十九/法運通塞志第十七之六/隋/文帝』より)
この「堅」とは「楊堅」つまり「隋」の高祖である「文帝」を意味しますから、彼について「大興王」と呼称されていたとしても不自然ではないこととなります。これらのことは「大興王」という呼称について「隋」の「高祖」と関連していると考えることがそれほど不自然ではないことを示すものです。
Ⅳ.「隋」の「高祖」と「仏教」
「隋」の「高祖」について考えてみると、彼は「周」の皇帝から禅譲を受け即位して以降急速に「仏教」の推進を始めます。(「仏道二教」の復興を図ったとされますが、明らかに「仏教」に多く比重があったことが知られます。)
当時仏教は「周」の「武帝」により「廃仏令」が出された結果、弾圧とも言うべき状態に置かれていました。「隋」の「高祖」はこれらを速やかに回復し、なお自ら「菩薩戒」を受け、仏教の国教化を半ば強制的に進めていったものです。
そのような彼ならば夷蛮の国が「仏像」を作るとした際にそれに「助成」するというのはあり得ることと思えますし、その「黄金三百二十両」という量も、軍功を挙げた将軍などにたびたび多量の黄金を下賜している記録があり、「隋皇帝」という立場ならそれほど苦にもならないものであったでしょう。(註)
また『元興寺伽藍縁起』によれば「元興寺」完成というタイミングで「裴世清」等が派遣されているようであり、それは「助成」したことと表裏を成す行為であり、「寺院」(元興寺)と「丈六仏像」の完成を見届ける、という意味では当然とも思われます。これを「高麗王」と関連しているとした場合「裴世清」等が「来倭」する意味が不明となるでしょう。(ただし(この『縁起』はその年次については『書紀』に依っているようですから、これも「年次移動」を想定すべきものと思われます。)
また、上の『元興寺伽藍縁起』の文章には完成に要した「金」の総量が「七百五十九両」とも書かれています。もし、その一部の「三百二十両」が「高麗」からのものすると、残りの「四百三十九両」はどの地域からの助成ないし貢上であったか不審となるのではないでしょうか。
この当時国内からは「金」が産生されていないと考えられますから、必然的に「高麗」以外の「百済」「新羅」「加羅」からのものと考えざるを得ませんが、「新羅」「百済」からはそれほど多くの金が算出していたという記録は見られません。
『隋書東夷伝』の「冠」や「衣服」などの装飾に関する記事を見ると、「高麗」には「金銀」とあります。また「百済」には「銀」に関するものはあるものの「金」はなく、「新羅」に至っては「金」も「銀」も全く触れられていません。(「加羅」は「伝」自体が立てられていません)
ただし、「七世紀」に入ってからの「倭国」と「新羅」との交渉記事には多く「調」として「金」(銀も)の存在が書かれており、そのことからこの「六世紀末」から「七世紀初め」という時代に「新羅」ではすでに「金」は産出されていたという可能性も考えられなくはありません。しかし、この「三百二十両」を「高麗」からと考えるとそれより多い「四百両以上」の金を「新羅」などから調達しなければならなくなりますから、そのようなことが可能であったかはかなり疑問と思われます。しかしこの「三百二十両」が「隋」からのものと見ることができれば、残りを「高麗」をはじめとする半島諸国からのものとすることにそれほど「不自然」はないと思われます。しかも当時「隋」と「高句麗」(高麗)との関係は緊張状態にありましたから、「隋」が「高句麗」の「後方」に位置する「倭国」に対して助成することは外交面から考えてもありうることと思われます。遠絶した場所に位置しているとしても「倭国」と「高句麗」との関係をより親密化させないためにも「倭国」に対して「仏教」面で優遇的措置を与えたとして不自然ではないものと思われるものです。
(註)ただし『書紀』では「大興王」が「黄金」を助成したとされる年次として「推古十八年」とされており、これは通常「六〇五年」を指すとされこれでは「高祖」死去後のこととなってしまいますが、私見では『書紀』の年次は『隋書』に合わせる形で移動されており、実際にはもっと遡上するという可能性が考えられ、この「黄金助成記事」も実際には「開皇年間」のことと見るべきと思料します。詳細は別稿。
「参考資料」
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本古典文学大系「日本書紀」』」(岩波書店)
青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注『新日本古典文学大系「続日本紀」』(岩波書店)
宇治谷孟訳『日本書紀』全現代語訳(講談社学術文庫)
宇治谷孟訳『続日本紀』全現代語訳(講談社学術文庫)
井上秀夫他訳注『東アジア民族史 正史東夷伝』(東洋文庫「平凡社」)
金富軾著 井上秀雄訳注『三国史記』(東洋文庫「平凡社」)
『旧唐書』は「台湾中央研究院 歴史言語研究所」の「漢籍電子文献資料庫」を利用しました。
『大正新脩大蔵経』(web上の「大蔵経テキストデータベース委員会」により作成・運営されているもの)