古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『魏志倭人伝』シリーズ(14)

2024年02月09日 | 古代史
『魏志倭人伝』シリーズの続きです。ここでは「卑弥呼」本人について分析します。

 弥生時代の祭器と思われる「銅鐸」は墓域(古墳など)には決して埋納されず、出土する場合は単体であり、遺骨などと共伴することはありません。そのことはいわゆる葬送儀礼には用いられないものであったことを示していると思われます。これはいわゆる「ハレ」の儀式だけに使用されたものと考えられる訳です。
 それに対し銅鏡は弥生時代の王墓である「平原」や「須玖岡本」などの遺跡から出土しますし、後の「古墳時代」にも「三角縁神獣鏡」などは「古墳」から出土します。しかもそれらは「石室」や「棺」の中にさえ入れられていることがあります。逆に単独で埋納されている例が見られません。
 また「漢鏡」は「弥生中期」ぐらいまでの「甕棺」などから出土します。しかも当初の鏡は全て「外国製」です。自分たちの生活に直結していたであろう「祭祀儀礼」に使用される「祭器」が「外国製」であったとはあり得ないことと思われます。つまり「銅鏡」は「葬送儀礼」に使用されることがあることとなり、それは「銅鐸」と違い「神聖性」という点においては欠如していることとなるでしょう。
 どの世界においても「タブー」には二種類有り、「神聖」ゆえのタブーと、「穢れ」があることによる別のタブーです。つまり、「神聖」なものは同時に「穢れ」を嫌うわけであり、「死」が「神聖性」とは遠く隔たっていたことは「イザナギ」「イザナミ」の神話を見ても推定できるものです。そこでは人が亡くなった後「腐敗」していく過程の姿が描かれており、「死」に対する「穢れ」の認識を反映していると思われます。そうであれば「銅鐸」がそうであったように「祭祀」に使用され、「神」と近い距離にあるものは「死」につながるものからは忌避されていたと思われます。しかし「銅鏡」は「墓」から出ますし、それも「高い権力」を持っていたであろう貴人の「墓」からしか出ません。これは「銅鏡」というものには「神聖性」がなく、自らの「権威」の根源を示すものではあっても、所詮俗世界のものであったということを示すものと考えられます。
 「魏」の皇帝は鏡を「卑弥呼」に対して「下賜」したわけですが、「広く皆に見せるように」という指示が「皇帝」の「詔」の中にあり、そうであれば「埋納」してしまったならばその役は果たせないこととなってしまいます。つまり「卑弥呼」がもらった「鏡」は各諸国に「頒布」されたものと思われ、特に「王」の「夫人」などに「化粧用」に渡されたものと思われるわけです。
 この「銅鏡」はこのように「卑弥呼」の「邪馬壹国」が率いる「諸国」の一体関係の醸成には役立ったと思われますが、それは逆に「卑弥呼」の行っていた祭祀に「鏡」(銅鏡)が使用されたと見ることはできないことを示します。「魏」の皇帝からの下賜品というだけでは「神聖性」の保持や確保という面では物足りないからです。(さらには「倭王」としての「卑弥呼」にというだけではなく「卑弥呼」の私的な使用品としても下賜されており、これも「鏡」の「神聖性」を否定するものでしょう)
 あくまでも「鏡」の存在が周知であること、それは「卑弥呼」の「倭王」としての「権威の根源」が「魏」の皇帝にあることを知らしめる意義でしかないことを示すものです。
 そもそも「卑弥呼」の祭祀は『倭人伝』では「鬼道」と呼ばれており、このことから「卑弥呼」は「鬼神」を祀る祭祀を行なっていたのではないかと考えられます。
 『三国志』の中で同様に「鬼道」という名称が使用されているものに、「道教」の一派である「五斗米道」があります。

「張魯字公祺,沛國豐人也。祖父陵,客蜀,學道鵠鳴山中,造作道書以惑百姓,從受道者出五斗米,故世號米賊。陵死,子衡行其道。衡死,魯復行之。益州牧劉焉以魯為督義司馬,與別部司馬張脩將兵?漢中太守蘇固,魯遂襲脩殺之,奪其?。焉死,子璋代立,以魯不順,盡殺魯母家室。魯遂據漢中,以『鬼道』 教民,自號「師君」。其來學道者,初皆名「鬼卒」。受本道已信,號「祭酒」。各領部?,多者為治頭大祭酒。皆教以誠信不欺詐,有病自首其過,大都與?巾相似。諸祭酒皆作義舍,如今之亭傳。又置義米肉,縣於義舍,行路者量腹取足;若過多, 『鬼道』輒病之。…」(『三國志/魏書八 二公孫陶四張傳第八/張魯』より)

 「五斗米道」とは「後漢」の順帝のころ(一四二年)四川省成都の郊外(蜀の国)で「張陵」という人物が「太上老君」よりお告げを受けた、と言い出したことに始まり、その後「張衡」「張魯」と計親子三代にわたり教団を組織し、強大な軍事力を保持するようになったものであり、これがいわゆる「三張」道教と呼ばれているものです。その後彼らは「魏」の「曹操」に軍事力を剥奪され無力化されたものです。(二一五年)
 この時代に「魏」などでは「儒教」が正統と考えられていました。これは、「前漢」の「武帝」が儒教を国教に定めて以来(紀元前一三六年)、代々儒教を中心とした官吏国家となっていたためであると思われます。「道教」やその一派である「五斗米道」は基本的には「魏」や「西晋」にとって見ると「異端」的なものであり、そのため「鬼道」という用語を使用する動機となっているものと考えられます。そういう意味において卑弥呼の「鬼道」というものが、「原始道教的」意味合いを持っていた可能性は高いでしょう。
 この「五斗米道」や「太平道」などに共通なことは「鬼神」信仰であり、その「鬼神」とは結局「死者」を指すものでした。このような「土俗的信仰」は「江南地方」に淵源を持つものと思われ、南方的であることが推察されます。
 ただしその基本的な部分というのは、初期の「道教」がそうであったように「お祭り」が中心であり、「巫術」つまり「祈祷」などにより、幸運をもたらしたり、病気を治したりしようとするもので、古くから「民間」に根付いていたものであったろうと考えられています。
 また、「倭」の各国は朝鮮半島に勢力を張っていた「公孫氏」が「後漢」に非協力的(「公孫淵」に至って反旗を翻した)であったため多年にわたり朝鮮半島を経由しての「漢」(魏)との交流は閉ざされていて、南方の「蜀」や「呉」との交流に偏っていたものと考えられ、「五斗米道」についてもその方面から直接情報が伝わっていた可能性があるものと考えられています。
 ただし、「卑弥呼」の「鬼道」はより原始的であり、祭儀には「血食祭祀」を行っていたと思われ、「五斗米道」とも違うそれ以前の世界に類するものであったとみられます。それは古田氏が指摘したように「卑弥呼」の「呼」が「生け贄に傷をつける行為」を指す語であるとすることからも言え、「卑弥呼」の儀式の内容が示唆されるものです。それに対し後に「五斗米道」を継承した「天師道」では動物を犠牲とすることを強く批判している事実があります。
 また、ここで言う「鬼神」とは基本的には「死者」のこととされるわけですが、その意味では「卑弥呼」は「巫覡」と呼ばれる立場であったと思われ、彼女は「倭王権」の長として「鬼神」と意志を交通させていたものであり、それは単なる「祖先祭祀」とは異なり、数多くの「先人達」が対象であったと思われ、彼らの「意志」をその時点の「邪馬壹国」以下の諸国の置かれた厳しい状況に反映させることを目的として儀式を執り行っていたものでしょう。(「厳しい状況」とは具体的には「疫病」の蔓延であったと思われます。)そのような重要で古典的な儀礼には「神聖性」が欠けている「鏡」が使用されることはなかったものであり、推測によれば「玉」が使用されていたものと思われるものです。
 「玉」は「周代」以来「中国」で重要な儀礼にしか使用されない「神聖」な祭器であったものであり、「周」の官職(大夫)を名乗っていたと思われる「卑弥呼」の「倭」でも当然「玉」が祭器として使用されていたと考えられるものです。
 これに対し「五斗米道」などでは「鏡」が「祭祀」の際に用いられたという意見もありますが、それが正しいとしても、「魏」の皇帝からの下賜品が「鬼道」の「祭祀用」としてのものではないことは自明でしょう。「卑弥呼」の「鬼道」が「五斗米道」の流れを汲むものであるとすると、それは「魏」では「邪教」と考えられていたわけであり、その様なものを「卑弥呼」が信仰していたとしても、それに対しその「祭祀」のために「皇帝」が器物を贈るということが行われたとは考えられないからです。
 あくまでも「卑弥呼」の私的な好物としての「鏡」を下賜したものであり、それは「化粧」材料と思しき「眞珠、鉛丹各五十斤」が同時に下賜されていることでもわかると思われます。
 また、この当時中国では「銅鏡」はいわば「縁起物」であり、その特徴として「銘文」の存在があります。そこでは「現世利益」「不老長寿」あるいは「神仙世界」への誘いというような文が選ばれ、「鏡」としての実用性の他「実生活」を豊かにする呪術として室内の要所に飾られていたものと思われます。つまり「卑弥呼」への「鏡」にも必ず「銘文」が書かれていたと思われますが、最も可能性のあるものは「不老長寿」を言祝ぐものであり、「延年益寿」「受長命寿萬年」というようなもの(これらは実例があります)が「銘文」として書かれていたと言うことが考えられます。それは「卑弥呼」がこの時点でかなりの高齢ではなかったかと考えられる事からもいえるでしょう。
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