古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『魏志倭人伝』シリーズ(15)

2024年02月09日 | 古代史
前回に引き続き「卑弥呼」本人について分析します。

 後でも述べますが、この時点で「卑弥呼」の鬼道が熱烈な支持を得た背景としては「社会不安」があったとみられ、それはその時点まではそれほどのものではなかったものが急激に社会の中で大きなウェイトを占めることとなったものであり、そのため新たに立った「男王」を民衆は支持しないということとなったものと思われます。その「社会不安」については後ほど触れますが、「祭祀」が重要な要素を占めることとなった時点で「卑弥呼」でなければならないとなったものですが、その理由はいくつかあると思われますが、当然ですがその時点で彼女の「霊的能力」が突出して優れていたと大衆が認めていたからと思われ、それは「能く衆を惑わす」という『倭人伝』の表現に現れています。
 このように古代において「霊的能力」の高い存在は、現実世界ではえてして「役に立たない」存在であったという可能性があり、「卑弥呼」も例外ではなかったものではないでしょうか。
 古代においては「不具」であったり「身体能力」の一部が欠如しているような人物はその共同体の中での実生活の役にはほぼ立ちませんが、その代わり(というよりそれだからこそ)霊的能力に長けた存在として一定の尊敬を集めていたという可能性があります。「左手第四指」に対する霊的信仰はそのことを暗示しているといえます。
 後にも触れますが、世界中で「左手第四指」に対して「無名指」という意味の呼称がされている事実があります。現在日本では「薬指」と呼称されますが、これは元々「薬師指」と称されていたものであり、「薬師如来」が薬を調合する際にこの指を使用していたとされることから命名されていたものですが、「薬」を調合する際にこの指を使用するのはその指でなければ薬が効かないからであり、「左手第四指」に「霊的能力」があるからであるとされます。またそれが「無名指」とされるのは「名前」を「鬼神」に知られると「霊的能力」がなくなってしまうからとされ、「名前」と「鬼神」という超現実的存在との間に強いつながりがあることに対する信仰が世界各国であったことが知られるものです。
 このように「左手第四指」が重要視される最大の理由はそれが「役に立たない」からであり、「不器用」の象徴だからです。「第四指」は「第五子」(小指)と「腱」の一部がつながっており、通常は単独で動かすことができません。(訓練すれば別ですが)特にそれが「左手」である場合は特にその指を主体的に使用することはないといって差し支えないでしょう。つまり「左手第四指」は典型的な「役に立たない」存在であるわけですが、それだからこそ、この指に対する「畏怖」と「敬意」があったものではないかと思われ、それは「古代」における「共同体(集落)」の中においても、同様の意味がその存在に対して与えられたものではないでしょうか。(「蛭子」に対する信仰もそれに良く似たものといえるでしょう) 
 「縄文」遺跡からは明らかに「不具」と思われる「人骨」が出ており、それは「成人」に達していることが確認されていますから、その人物は少なくとも周囲の助けを受けて生活していたことを示しており、「縄文」の社会が弱者に寛容であった証拠というような理解がされる場合がありますが、それよりはその人物が「祈祷師」など当時の共同体に必要な存在となっていたのではないかと見るべきことを示唆します。つまりそのような人物は「シャーマン」的位置にいたものではないかと考えられ、重要視されていたものとも考えられるわけです。
 これらのことから考えると「卑弥呼」もどこかに(身体的あるいは精神的かは不明ではあるものの)不具合を抱えていたものであり、それ故に強い「霊的能力」を有していた(少なくとも周囲はそう理解していた)可能性があると思えます。それは「男弟」が現実の政治を補佐していたという中にも現れているものと思われ、「卑弥呼」の能力が「霊的」な部分に特化していたことを示すものであり、実生活ではほとんど「役立たず」というべき状態ではなかったかと推察されることとななります。
 彼女という存在は『書紀』では「神功皇后」に投影されていますが、「神功皇后」の治績は政治的軍事的領域に亘っており、単なる「霊的能力」を持った人物という範疇を超えています。これは明らかに「卑弥呼」とは異なるものです。「卑弥呼」は実生活や実際の政治には関与しなかった、というよりできなかったことを示唆するものですが、それは彼女の身体的能力に何らかの欠陥があったという可能性につながるものと思われます。またそれだからこそ「佐治國」しているという「男弟」の存在が大きかったものと推量されるわけです。
 彼女の「鬼道」はその後「壱与」に受け継がれますが、この「壱与」も「幼少」であり、「共同体」の実生活上ではほとんど「役に立たない」人物ですから、その意味でも「霊的存在」として畏敬の念を持たれていたとも思われます。
 その後も「倭」では「女性」による「祈祷」を中心とした「信仰」が強く遺存することとなったものと考えられます。(仏教においても当初は女性による信仰が先行したと思われ、寺院としては「尼寺」が最初に作られたらしいこともそれに関係しているとも考えられます)
 このことは「実生活」において有用な仕事のできるような人物は「霊的能力」については周囲からその能力を認められていなかったという可能性が考えられ、そのことと「卑弥呼」の死後「男王」が立ったものの周囲の賛同が得られず争乱となったということの間には関係があると思えます。その人物は(その時点では必須であった)「霊的能力」を認められず、「祭祀」の主宰者としての地位に疑問符が付けられたものと思われます。(もちろん「卑弥呼」の男弟による政治の支障になるという点もあったでしょうけれど)そのため「壱与」が選ばれたというわけでしょう。
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