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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「評制」の施行時期について(四)

2013年10月10日 | 古代史

 各種の史料を見ても、「孝徳朝」或いは「難波朝廷」「難波長柄豊前大宮御宇」という名目の元に「評制」が施行されたらしいことはほぼ確実となっています。それは疑う余地がありません。この事から(例えば「古賀氏」は)「七世紀半ば」に「評制」が施行されたとするわけです。しかし、このような「難波朝廷=七世紀半ば」とする考え方には、「実は」確たるものがないと思えます。
 意外に思うかも知れませんが、実際問題としては「孝徳朝」が「七世紀半ば」であるという「証明」はどこにもないのです。もちろん「書紀」「続日本紀」等にも「絶対年代」は書かれていません。
 各種史料に表されているのは「干支」と「九州年号」或いは「近畿王権」の年号だけなのです。ですから、「年次移動」は割と簡単に行えます。(「書紀」などの編集段階での話ですが)
 煎じ詰めて言うと「正木氏」の「三十四年遡上研究」もそれが成立する余地は「絶対年代」が書かれていないという一点にあります。年次を動かして考えられるのは、記事自体がそのような性質を元々持っているからです。
 これは「年輪年代測定」など「絶対年代」を特定できる、或いは狭い範囲に追い込める精度の高い測定法によってのみその記事の信頼性を担保できるのであり、それ以外では結局の所、年次を特定する、或いは「絶対視」することは決して出来ないことと考えます。「瓦編年」や「土器(須恵器)編年」では、どこかで「書紀」と「リンク」して考えていますから、完全に「書紀」「続日本紀」から「フリー」となるような方法論を駆使しなければ、従来の観念から逃れることは出来ないと思われます。
 例えば「古賀氏」のブログの中にもそのような「呪縛」ともいえる部分が垣間見えます。

「…次にその時期についてですが、「難波朝廷天下立評給時」とありますから、「難波朝廷」の時代です。『日本書紀』の認識に基づいての表記であれば、「難波朝廷」すなわち難波長柄豊碕宮にいた孝徳天皇の頃となりますから、7世紀中頃です。九州王朝の「行政文書」が原史料と思われますから、そこには九州年号が記されていた可能性もあり、7世紀中頃であれば「常色(647~651)」か「白雉(652~660)」の頃です。いずれにしても『皇太神宮儀式帳』成立時期の9世紀初頭であれば、その時代の編纂者が「難波朝廷」と記す以上、孝徳天皇の時代(7世紀中頃)と認識していたと考えられます。…」(古賀達也の洛中洛外日記 第601話 2013/09/29「文字史料による「評」論(3)」)

 ここには「『日本書紀』の認識に基づいての表記であれば、「難波朝廷」すなわち難波長柄豊碕宮にいた孝徳天皇の頃となりますから、7世紀中頃です。」と書かれており、「難波朝廷」が「七世紀中頃」であるということが(遺憾ながら)「無批判」に認定されています。(一種の「思い込み」と思われます)
 しかし、「天武」「持統」の両年紀に移動の可能性が指摘されているのに、「孝徳紀」が無傷であるとアプリオリには断定できないはずです。
 また、「難波朝廷」という言い方或いは「名称」は「九州王朝」という観念に附属していると考えるべきと思われます。なぜなら「難波朝廷」は「九州王朝」の「副都」とされているのですから。そうであれば各種史料(例えば「皇太神宮儀式帳」など)に「難波朝廷」と出てくるものについては「書紀」と切り離して考えるべきであり、「難波朝廷」が「七世紀半ば」のことなのかどうかは「書紀」の記述にかかわらず別途証明が必要な事項と考えます。
 少なくとも、「難波朝廷」を「七世紀半ば」とする「決定的証拠」はないこととならざるを得ません。というより、そのような点に着目して「書紀」等の史書の記事を眺めてみると、逆に「難波朝廷」が「七世紀半ば」ではない、という「徴証」或いは「傍証」が多く得られるのを確認できます。

 もっとも、当初私はある「間違い」を犯していました。それは「評制」と「五十戸制」の前後関係についてです。
 それまでは、「軍制」と「五十戸制」に強い関連があることと「軍制」の制度制定は「七世紀半ば」であろうという考えから(これは「唐」「新羅」との関係悪化を想定したものと見た)、「五十戸制」の導入は「七世紀半ば」であったろうと考えました。すると「七世紀半ば」とされる「評制」と同時と言うことになって「整合する」という結論となったものです。しかし、その後「五十戸制」と「評制」は同時に導入されたものではないと考えるようになりました。なぜなら「五十戸制」は「隋・唐」にありますが「評制」はないからです。
 明らかに「評」という制度はその淵源が「半島」にあったものであり、「隋・唐」にはなかったわけですから、その導入が「同時」と言うことはあり得ないだろうと考えるようになりました。そのため、一時は「評」は「五十戸制」に後出すると考えたのですが、それも間違いでした。
 「評制」は半島起源なのですから、「隋・唐」と交流を親密にするようになり「遣隋使・遣唐使」を送るようになって以降、それとは別に「半島」から「制度」を導入すると言う事は「ありえない」と考えなければならないことに気がついたのです。(でなければ「行政」の制度の趣旨が一貫しなくなるでしょう)
 そうであれば「評制」は「五十戸制」に「先行」すると考えざるを得ないこととなりました。その「五十戸制」が「七世紀初め」に「隋」から導入されたとすると、当然それ以前の時期に「評制」は導入されていなければなりません。つまり「六世紀末」ないし「七世紀初頭」という時期がもっとも蓋然性の高い時期と推定できるものとなったのです。
 それを推測させるのが「評木簡」です。既に見たように「評木簡」には「国名」がなく、「評名」から始まるものがあり、それが「初期型」らしいことが指摘されています。「国県制の成立と六十六国分国」で推測した「広域行政体」としての「国」の成立というものが「七世紀初め」であるらしいことを考えると、「評」から始まる「初期型評木簡」の成立は、そのような「広域行政体」の成立前となりますから、「我姫」に各「国」が散在していた時期に同じであると考えざるを得なくなります。つまり、「我姫」に分立していた各「国」は、既にその時点で「評」であったのではないかと考えられる事となるわけです。
 このことは「隋書倭国伝」に言う「百二十人」いるという「軍尼」という存在も「評制」に関わるものであり、「評督」「評造」的な立場の人間であると考える必要があると言う事です。ただし、この時点では「階層的行政制度」としては未発達であったものであり、それ以降「広域行政体」としての「国」が再編成され、その時点で「国-評-村」という行政制度が確定したものと考えられます。これが「常陸国風土記」に書かれた内容であり、「七世紀初め」(第一四半期の終わり頃か)であると推量します。
 ただし、「諸国」ではなく「倭国」の本国では「隋制」に則り、「国縣制」が導入され、「郡」が廃止され「国」(州)の直下に「縣」があるという体制が構築されたものと見られます。「倭国」の本国では「先進的制度」が他に先んじて導入されたと見られ、「隋制」の導入はまず「倭国」の本国である「筑紫」を中心とした地域に適用されたものと見られます。

 このような思惟進行は先に見た「皇太神宮儀式帳」の「十郷分で屯倉を作り評督を置いた」という記事内容とも合致するものであり、この時点で「屯倉」が設置され、その監督役として「評督」「助督」などが配置されたものと見られます。
 このように「国県制の成立と六十六国分国」で推測した「縣制」については一部理解不足でしたが、「難波長柄豊前大宮臨軒天皇」という表記が「阿毎多利思北孤」を示すものであると言うことは正しかったものと考えています。

 
 「難波朝廷」や「孝徳天皇御世」という表現が「阿毎多利思北孤」や「利歌彌多仏利」などを指すものと考えると「改新の詔」とそれと前後して出された各詔勅も同様に「六世紀末」から「七世紀初め」という時期に出されたと考えなければならないことを示すと思われます。そのような中に「薄葬令」に関するものがあります。
それについて次回述べることとします。

(続く)

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「薩耶麻達」の捕囚場所について(続き)

2013年10月05日 | 古代史

 「大伴部博麻」と「薩耶麻」達の捕囚となっていた場所についての考察の続きです。

 彼らの捕囚場所と関係していると考えられるのが「斉明紀」に書かれている「斉明」の「軍派遣の詔勅」です。

「(斉明)六年(六六〇年)冬十月…詔曰…而百流國遥頼天皇護念。更鳩集以成邦。方今謹願。迎百濟國遣侍天朝王子豐璋將爲國主 云云。詔曰 乞師請救聞之古昔。扶危繼絶 著自恒典。百濟國窮來歸我 以本邦喪亂靡依靡告。枕戈甞膽。必存拯救。遠來表啓。志有難奪可 分命將軍百道倶前。雲會雷動 倶集沙喙翦其鯨鯢。紓彼倒懸。宜有司具爲與之。以禮發遣云云。…」

 ここに書かれた「翦其鯨鯢」とは「鯨」や「サンショウウオ」などになぞらえられた「敵」を切り捨てる(倒す)ということを示しますが、「李白」の「赤壁歌送別」という詩にもあるように「鯨鯢」は「海」や「大河」に住む「大魚」の一種とも考えられていたようです。

「二龍争戦决雌雄,赤壁楼船掃地空。/烈火張天照云海,周瑜于此破曹公。/君去滄江望澄碧,鯨鯢唐突留餘迹。/一一本来報故人,我欲因之壮心魄。」

 このように基本的にはこれらの「動物」(怪物)は「海」に棲息しているとされ、このことから「海」が戦いの場であることが想定されているようです。
 また、同様に文中に登場する「沙喙」というのが「新羅」の地名であり、現在の「慶尚北道」に位置し、日本海に面した土地であることを想定すると、この時の「倭国軍」は直接「新羅」の本国を攻撃する意図を持っていたことが判ります。つまり、「百済」に向かったのではなく、「新羅」そのもののを攻撃する作戦であったと思われるのです。
 この「詔勅」により戦いが始められたとすると、「書紀」に書かれた「阿曇連」「阿部臣」の両者が将軍となっている派遣軍は実は一旦「新羅」に向かったと言うことが言えそうです。そして、それは「水軍」だけで行われたものであり、「上陸」作戦ではなかったと思料されます。しかし、「書紀」にはこの戦いの情景が活写されていません。あくまでも「戦いの場」は「百済」であったかのように書かれています。これは「百済再興」という目的ならば首肯できるものですが、「百済支援」というのであれば「新羅」本体を攻める方が道理にかなっています。つまり「斉明」によるとされる「発遣の詔勅」の目的は「百済再興」ではなく、「百済支援」であり、そうであれば「唐」と「新羅」の攻撃にさらされていた時点が最もふさわしいと思われます。これが一年後であり、また「扶余豊」を「百済国王」にするためという目的であるなら、違和感はぬぐい得ないものです。
 このため、戦略的「効果」としては薄いものになったと見られ、この後再度今度は「阿曇連」だけを大将軍として同様の戦いが行われます。

「(天智称制)元年(六六二年)夏五月。大將軍大錦中阿曇比邏夫連等。率船師一百七十艘。送豐璋等於百濟國。宣勅。以豐璋等使繼其位。又予金策於福信。而撫其背。褒賜爵祿。于時豐璋等與福信稽首受勅。衆爲流涕。」

 この記事では「百済」に向かったように読めますが、少なくとも一部については「新羅」へ向かって「背後」を衝く作戦が行われたと見られます。(前回の作戦の意図を生かすため)
 この時は「阿曇連」の水軍が主体で戦うというより、「地上戦闘員」を多数擁していたと見られ、そのかなりの部分が「新羅」へ向かったものと思われ、彼らにより「上陸」作戦が敢行されたと見られますが、その中に「倭国王」も「親征」したものと考えると、彼とその周辺の人物達が一斉に「捕囚」となったとした場合、それは「新羅」の地であったという可能性が高いでしょう。
 そして「百済」が「唐」「新羅」の連合軍に敗れた後、彼ら(連合軍)は「旧百済」の首都であった「熊津」に「都督府」を設置しました。それに伴い、「薩夜馬達」は「重要人物」と言うこともあり、「新羅軍」の手に落ちた後は「旧百済国内」のどこか(「熊津都督府」からそう遠くない場所と思料される)へ移送され、「都督府」の監視下に置かれていたのではないかと推測されます。つまり、「唐軍」ではなく実質的には「新羅軍」の「捕囚」となったというわけであり、そうであれば「唐国内」まで連行されたとは考えにくいこととなるでしょう。

 このように「旧百済」の国内で「捕囚」生活を送っていたと考えられるわけですが、この時「帰国費用」を「博麻」に「貸し付けた」(形としてはそうなる)人は、彼ら「博麻達」の立場や思惑、心情などを「知っていた」(分かっていた)ものと推察され、彼らに「同情的」な人物であったのではないかと考えられます。
 「百済」は元々「倭国」と深い関係にあり、これらのことは「博麻」に対して「融資」に応じ、帰国に要する費用を立替えた人物は「旧百済」関係者と推測され、彼は「百済」の「富貴層」に属する人物で、何らかの形で「倭国」と「関係」の深かった人物であったという可能性を想定させます。(「熊津都督府」の経営はもっぱら「旧百済国人」がこれに当たっていたとされることもこれを裏書きするものです)

 この「百済を救う役」とそれに引き続く「白村江の戦い」では推定で「総計七万四千人」という多数の「倭国人」が派遣されたものと考えられ、そのうちのかなりのものが戦死し、(多くは海戦での死者と考えられます)また、戦後一部のものについては帰国できたものの、かなりの数の人間(数千人以上ではないか)が「捕虜」となったものと思料されます。
 これだけ多数の「捕虜」が発生すると、彼等を一時的に収容する場所も複数必要となると考えられ、その中には「唐」まで連行されたグループもいたのではないかと思料されます。
 その後、倭国との戦争状態が六七〇年代に終結したことを受け、その時点で「熊津都督府」の管理下にあった捕虜は解放されたものと見られますが、半島情勢がその後大きく変化し、「旧百済」の地であった「熊津都督府」も「新羅」に制圧されるところとなるなど、新羅」が「唐」を追い出して半島全体を支配する構図となったため、「唐」に連行されたグループの中には「帰国」が出来なくなったものもいたものでしょう。
 もちろん「衣糧」ないし「旅費」を持っていた「遣唐使」などはその一部のものが「新羅」経由で帰国できたものもいたようですが、全体としては帰国が大幅に遅れたものです。
 しかし、「旧百済」の地に「収容」されていたグループの大多数はその後「帰国」出来たものと考えられ、「百済」からであれば、「倭国」ともそれほど遠距離ではありませんし、人身売買に関する規定についてもこの「百済」まで及んでいなかったとも考えられ、(「唐律」を百済が受容していたとも考えられません)「博麻」のように「身を売って」旅費を稼ぐというようなことも可能であったものと考えられるものです。

(続く)

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「ディープインパクト」について

2013年10月04日 | 宇宙・天体

前回に引き続き「小惑星」関連の考察です。
 今回は、6500万年前に地球と衝突して「恐竜」他の大絶滅を招いたとされる、例の「小惑星」について考察してみます。

そもそも「地球」の公転速度は秒速30km程度あります。地球太陽間の距離は1億5千万km有り、これをおよそ365日で回っているわけですから、計算すると約30km/sec程度となります。
 それに対して、地球へ接近するタイプの小惑星の方は基本的にはかなり離心率の大きい(つまりつぶれている)軌道を取るのが普通であり、遠日点が小惑星帯にあり、近日点が地球より太陽側に入る「長円」な軌道を持つと考えられます。この場合の公転速度は場所によって違い、遠日点付近よりも近日点周辺の方がかなり速くなります。(「ケプラーの第2法則」です)地球付近では50-60km程度と考えられます。
 この「小惑星」が巡行であったか逆行していたか、軌道平面角はどの程度か、というのがとりあえず未知なわけですが、仮に想定として「巡行」として、軌道平面角はほぼ「0」(つまり黄道面上にある)として考えると、公転している地球に対して、小惑星が「追突」したという想定となり、その速度差は「20-30km」程度ではなかったかと思われることとなります。
 また、地球の表面に対する入射角もまた「推測」するしかないわけですが、通常の流星でも「入射角」が90度に近い(つまり地球の中心と小惑星の進行方向が一致している場合)というのは珍しいと考えられるので、一般的な角度として60度程度を想定することとします。
 またそのサイズとして直径15-25km程度と考えられています。
 これらを含んで簡単なシミュレーションをしてみましょう。

 小惑星が高速で大気圏に突入すると、進行方向の前面に「衝撃波」が生成され、超高温になって、小惑星本体の溶解と破壊が始まります。先日のロシアの一件では大気高層で本体の破壊が完了しましたが、あれはそのサイズがせいぜい十数メートルというオーダーであったためであり、その1000倍の大きさとなると高層で破壊され尽くすとは限らなくなります。
 つまり、小惑星のサイズが大きすぎると、全体の破壊が進行しないうちに地表に到達してしまうのではないかと考えられ、破壊の進むスピードが超音速であったとしても、進入速度よりもはるかに小さいものであり、全体に破壊が及ぶ以前に地表と衝突するものと思われますから、地表の破壊は「衝撃波」によるものではなく、また「熱戦」と「爆風」によるというわけでもなく、「直接的」なものになると思われます。なぜなら「小惑星」に対して抵抗を示すほどの大気の厚みが確認できるのは対流圏に入ってからであり、それはせいぜい10km程度しかないからです。
 直径10数km、速度15-20km/sで小惑星が対流圏上層まで侵入した場合、そのような場合大気による減速はほとんど効かないと考えられ、「1秒以内」に地表に達してしまうでしょう。つまり、ほぼ減速なしで地殻と衝突するという可能性が高いと思料されます。その場合、小惑星の成分が(これは何種類かありますが)地球のマントル物質に近いとすると(その可能性が高い)、「地殻」を構成する物質よりは比重、強度とも小惑星の方が上であることとなり、地殻を破壊、貫通してマントル上部まで達することとなるものと考えられます。
 そもそも「地殻」の厚みは大陸」や「島」などでは厚く40km程度あるようですが、海洋底は薄く、15-20km程度しかないと云われています。衝突した場所にもよりますが、「地殻」を貫通するのに「1-2秒間」程度しかかからないという可能性が高く、このような場合、衝突した結果、小惑星本体とマントル物質が共に大きく溶融、破壊され、地上に広い範囲にわたり露出拡散するものと思われ、大規模火山活動という現象の極端なスケールアップバージョンとなるものと考えられます。
 地上では降り注ぐマントル物質などに覆われ、地上と浅い海の生物に多大な影響を与え、ほぼ絶滅するに至る(った)ものと思われます。
 そもそも、直径が20kmあるものが秒速20kmで対流圏に進入し、その対流圏は10kmしかなく、地殻も2-30kmしかないのですから、全ては数秒以内に発生し完了することとなるでしょう。
 この事件について「隕石が落ちた」という言い方をすることがありますが、上の事態を想定してみると、その言い方ではまったく現実を表していないと思われます。これはあくまでも「小惑星」との衝突であり、「地球そのもの」が破壊されかねないレベルの出来事であったと思われます。

 さらに小惑星が衝突すると、一般的に言って地球の自転速度に与える影響は非常に大きいと考えられ、地球の回転を妨げる方向で力がかかったものと見られます。
 地殻表面の質量が増加することとなり、慣性モーメントは増大し、回転速度(自転速度)は減少する(した)と考えられます。実際に「地磁気」の研究からは「白亜紀」における「地磁気」は非常に強力で、4千万年の長きに亘って「反転」(N極とS極が入れ替わること)がなく、長期に亘り安定していたことが推定されています。(白亜紀スーパークロンと呼ばれる)このことは「自転速度」も今よりはかなり早かったらしいという推定にもつながるものです。(以下に見るように自転速度と地磁気の強さには関係がある)
 「スマトラ沖地震」の時にも、今回の「東日本大震災」の時にも地球の自転速度がごくわずかですが、変化したことが報告されていまする。(いずれもわずかに遅くなった)これらの地震はマントル対流の影響により他のプレートの下に引きずり込まれていたプレートがその弾性により反発し、地球の中心から見て外側へ移動した結果、地球の慣性モーメントが微弱に変化(増大)したため、自転速度に変化(遅くなった)が確認されたものです。
 この「スマトラ地震」の時のマントル物質は、地震により「破壊」「移動」が起きたと見られます。この時動いたプレート(岩盤)の大きさと広さは「長さ400km、幅150km、高さ10km」ほどであり、この「塊」の質量は「マントル」の比重を「5」程度と考えると、「3000000×10の9乗」kgほどとなりますが、これが「数秒」のうちに20mほど移動した模様です。
 小惑星と衝突した場合は直径10-15km程度のものが秒速10-15km程度でマントル内までめり込んだものであり、これを上の地震の領域の変化量と比較して考えても、「桁違い」といえるものです。移動した質量はスマトラ地震のほうが数倍大きいですが、移動スピードは1000倍程度小惑星衝突のほうが速く、衝突によるエネルギーは質量に比例し、速度の2条に比例するのですから、この時の小惑星の衝突はスマトラ沖地震で解放されたエネルギーの1000倍以上に相当すると考えられます。
 そのことから「自転」に与えた影響も比較にならないほど大きいと考えられ、少なくとも「分」の単位で変化した(遅くなった)ものと推定されます。

 一般的に自転速度が遅くなると地場が弱くなると考えられます。「金星」や「月」にはほとんど磁場がありませんがそれはそれらの自転周期が極端に遅いことと関係があると考えられますし、同様の理由により「木星」「土星」には強い磁場がありますが、これらは見た感じも楕円体であり、高速で自転していることが知られています。
 地球の磁場も白亜紀には非常に強かったことから、この時には地球の自転そのものが今よりもずっと早かったという想定が可能です。
 ところで、地球の「自転速度」として知られているのは「地球」表面の速度であり、「地殻」の自転速度です。しかし「マントル」は「溶融状態」にあり、「液層」が主体です。核も一部固体、一部液体であり、これら全てが同じ「自転速度」であるはずがありません。
 地球の形成の歴史から考えて、自転エネルギーの提供元は「核」の固体部と考えられますが(「核」を中心にダストや微惑星を引きつけたというストーリーが考えられています)、その上方組織である液体核やマントルは固体核の自転に「引きずられ」、言い換えるとスリップして「遅く」なっていると考えられます。

 太陽系が形成され、地球ができる時は「星間ダスト」が多量に集積してできわけですが、それは「徐々」に集積されたものであり、その「集積」がある程度進行した時点で「中心核」が重力により「溶融状態」となり、その時点以降、「中心核」の自転のエネルギーが「外部」(地表方向)にストレートに伝わらなくなり「滑り」が発生したものと推量され、それ以降「地表」では回転速度が落ちていったと推量されます。
 つまり、個体金属となっていると考えられる「核」とその上の「液体金属」状態の核やマントルは相互に「別」に運動していることとなりますから、そこには「電界」と「磁界」が発生しているするはずであり、これが地球磁場の生成要因となっていると考えられますが、このような状態であるところに突然回転軸の傾きと慣性モーメントの変化が外部からもたらされるわけですから、発生する磁界に変化が生じるのは当然です。言ってみれば自転にブレーキをかけられたわけですから、発生する磁界は「弱くなる」ものと考えられます。    

 マントル対流はそもそも、原動力となっているものは「核」と「地殻」の温度差による「比重」の差が「浮力」の差となったものと地球の自転による「引きずり」で、一種の「熱対流」と考えられ、マントル下部の「核」に近い方は「核」の主成分である「鉄」の放射性同位体が崩壊するときに出る「崩壊熱」により熱せられ、流動性が上がると共に比重が小さくなって上昇し「地殻」付近に来ると冷え始め、下降に転じる、という対流運動が起きていると考えられます。
 「外的」要因により自転にブレーキが掛かると、「引きずり」の量が減少し、それは「対流速度」の減少という現象になると考えられます。その結果マントルが「核」から持ち去る熱量が減ってしまうため、核の液相部の温度が上がり、マントル下部の温度も同時に上昇し、マントル上方から見ると熱の供給元が核の液相部であったものが、マントル下部に別の高温層ができるため、そこが対流発生の原因となると考えられ、対流の塊が小さくなる「多化」が発生したと考えられ、対流速度は落ちるものの、対流の周期は逆に速くなったのではないかと考えられます。このような「マントル対流」の不安定さと、「核」の表面の温度ムラによって「磁場」の「局在化」が発生したと思われ、それはそのまま「磁場」の不安定さへとつながったものと見られます。
 この時の衝撃による「マントル対流」の変化によって例えば「インド亜大陸」の移動というものが発生したと考えられています。「ヒマラヤ」が元々海底であり、それが隆起し始めたのが「六五〇〇万年前」と推定されていること、現在もなお、「ヒマラヤ」は隆起し続けており、それを実現している「インド亜大陸」のユーラシア大陸への衝突という事象の元となる「マントル対流」のエネルギー源が、六五〇〇万年以前に地球に内在していたとは考えられないこと、つまりこのエネルギーは外部から供給されたのではないかという疑いが強いことなど、等々この時点における「小惑星」衝突がもたらしたものは今も地球にそのまま残っていると考えられます。

(続く)

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後期重爆撃期

2013年10月03日 | 宇宙・天体

 今回は、やや趣を異にする分野「宇宙」についてのことを書きます。(この分野も私の深く興味がある領域です)
 天文学者の研究によると(※)、「月面」のクレーターの成因には「二大別」あることが判明しています。月面のクレーターには「古くて」「比較的大きい」クレーターと「若くて」「比較的小さい」クレーターと二種類あるのです。(月面のクレーターを新古に分け、さらに大きさで分けてカウントすると異なった2本の分布図ができる)このうち「古い」クレーターについては、これらのクレーターを造る元となった「小惑星」の軌道を再現すると現在「小惑星帯」(メインベルトと呼ばれる)に存在する多くの小惑星とほぼ同一の軌道であることが判明しています。
 またクレーターの「風化」の状態から判断して、これらのクレーターができたのは「太陽系生成直後」と判断されるほど古い時期にできたものであることがわかります。この時期は「後期重爆撃期」と呼ばれています。
 この「後期重爆撃期」というような時期が発生した理由は、外惑星(特に土星)の生成とそれによる既存の(特に木星)の軌道変更(擾乱)によると考えられています。

 現在の太陽系生成の時系列では、まず「内側」の軌道にある惑星から出来はじめ、その後順々に外側へと移動していき「太陽系」最大の惑星である「木星」の誕生で一旦安定したものと考えられています。それは「木星」の質量が非常に大きく、周辺の星間物質や惑星の元となった物質や「微惑星」などが大量に木星に引き寄せられ、一種の「クリーンアップ」が行われたと考えられるからです。
 太陽だけでは全ての物質が地球近傍に集まることとなり、地球や金星、また月などと衝突・落下する微惑星が無数に上ったと考えられますが、木星ができたことにより、ある程度遠距離にある物質は「木星」に集まることとなったため、太陽近傍に接近する微惑星が大きく減少したものと考えられます。このように「地球近傍」が平穏な時期が確保されたことにより、生命の発生と進化というタイムスケジュールがこなせるようになったと考えられます。
 しかし、「木星」ができて数億年後、「木星」の更に外側の遠方に「土星」ができました。「土星」も大型の惑星であり、太陽遠方に存在した星間物質や微惑星を大量に集めたものと考えられ、その質量は「木星」に次ぐものとなったのです。この結果、すでに「太陽」と「木星」の中間地点で生成され、均衡状態にあった「小惑星帯」に働く引力に不均衡が生じました。「木星」と「土星」の相互干渉により「木星」が僅かに「土星」側に引き込まれたのです。これにより、「小惑星帯」に働く「木星」の重力が僅かに減少することとなりました。(引力は距離の二乗に反比例する)これは即座に「メインベルト」小惑星に働く「太陽」の重力が相対的に増加することを意味しており、多くの小惑星がその軌道を乱され、太陽周辺まで近日点を移動させられる事態となったものです。
 このことは月のクレーターのサイズがかなり広範囲にわたっていることでもわかります。つまり、「大きい」小惑星も「小さい」小惑星も「一様」に影響を受けたと推定されるわけです。
 「引力」は「質量の積に比例し」「距離の2乗に反比例」します。月面ののクレーターサイズから見て、ある程度その大きさに範囲があると云うことは、これらの小惑星に働いた引力は「質量の積に比例する」要素よりも「距離の二乗に反比例する」要素の方が大きかったことを示すと思われ、その結果、小惑星帯にある大小様々の小惑星が一斉に「太陽近傍」に「近日点」を移動させることとなったと見られます。それらは多くが地球や月などに衝突、落下し、巨大なクレーターを無数に作ることとなったというわけです。(地球の場合は「風化作用」などにより確認できなくなっていますが、月などにはそれがそのまま保存されている、というわけです。)

  その後、長い期間を経て「小惑星帯」は僅かに木星側に移動して、再度均衡状態となったと考えられます。その後の「天王星」と「海王星」の誕生(これらも大型惑星です)はさすがに遠距離過ぎてほとんど「メインベルト」に影響を及ぼさなかったものと考えられます。
 その後、「太陽系」には「後期重爆撃期」に匹敵するような「強い引力」が働くようなイベントはありませんでしたが、時折、幾度か微少小惑星が群れを成して太陽近傍まで接近するような軌道変更イベントがあったと考えられています。それは「小惑星同士」の衝突による破片の発生がそれです。特に「白亜紀」末期に地球に落下し、恐竜滅亡の引き金を引いた小惑星との衝突は、コンピュータシミュレーションにより「1億6000年前」ぐらいにかなりサイズの大きい小惑星同士の衝突があり、その結果多くの破片が発生し、このうちある程度サイズの大きいものが太陽近傍に接近する軌道に変化し、これがこの時期「地球」(月も)や「金星」あるいは「水星」など「内惑星」にかなり多量に落下、衝突が発生したと考えられています。
衝突破片は「小さいものほど多く」、「大きいものは少ない」と考えられますが、サイズの大きいものは太陽の重力との相互作用により大きく軌道を乱され、結果的に近日点が太陽近傍まで接近するような軌道に変わったものと考えられます。このようなもののうち特に大きなものとの衝突により、その惑星全体に大きな影響を与える事件が起こったものです。(月の「ティコ」クレーターなども、その生成時期が8000万年前と推定され、「恐竜絶滅」の原因となった小惑星衝突と同時期と考えられ、同じ生成要因であると考えられています)
 現在もかなりの数の小惑星が、その近日点を太陽付近に持っており、それらのいくつかは地球にかなり接近する軌道を持っているとされ、要注意とされます。「はやぶさ」がターゲットとした「イトカワ」もそのような小惑星の一つでした。このため「小惑星」を監視するシステムが内外で構築されつつあります(一部は既に稼働している)。
 しかし、軌道傾角が大きいもの(黄道面と直交に近いもの)については、その監視や発見が手薄になりがちです。太陽系内に起源を持つものは軌道傾角は余り大きくはありませんが、太陽系の外から来るものはそうとは限りません。
 「銀河系」は太陽系付近で二億年に一回転というスピードで回転しており、太陽系全体としてその回転運動の一翼を担っています。しかし、この回転速度は個々の星系で異なっており、皆が一様に回っている訳ではありません。周囲との速度差は大なり小なり必ずあるものであり、中にはその速度差が秒速40km以上になるものもあります。
 JAXAが打ち上げた火星観測衛星「のぞみ」は(火星軌道に乗せるのは失敗したものの)太陽系内を人工惑星として飛翔するうちに「太陽系外」からと思われるダストと衝突していたのが判明しています。そのようなもののうちサイズの大きいものが「地球」と衝突した場合は、速度が大きい分衝撃も大きく、地球の表面や生態系に大打撃を与えることが推定できます。しかも、このように太陽系外に起源のあるものはいわば「どこから飛んで来るか判らず」また「速度が非常に大きい」という特徴を持っています。
 これらを「事前」に発見し対処すると云うことはほとんど不可能と思われます。まさに「宇宙」は危険がいっぱいという訳です。
 

 (※)「Science」の2005年9月16日号に掲載されたもの

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「薩耶麻」達の収容場所について

2013年10月02日 | 古代史

 前の記事では「筑紫君薩夜馬」達の収容されていた場所として「唐国内」ではなかったかという可能性について考えてみたわけですが、「朝鮮半島」のどこかに「収容」されていたのではないかと考える余地もあると思われます。

 「百済」をめぐる戦いで「捕虜」になり、そのまま「唐」に連行された人達がいたことは、「慶雲年間」などに「釈放」されて帰国した人達の記録があることからも確認できます。

「続日本紀」
「(慶雲)四年(七〇七年)五月癸亥条」「讃岐國那賀郡錦部刀良。陸奥國信太郡生王五百足。筑後國山門郡許勢部形見等。各賜衣一襲及鹽穀。初救百濟也。官軍不利。刀良等被唐兵虜。沒作。歴卌餘年乃免。刀良至是遇我使粟田朝臣眞人等。隨而歸朝。憐其勤苦有此賜也。」

 彼ら「讃岐國那賀郡錦部刀良。陸奥國信太郡生王五百足。筑後國山門郡許勢部形見等。」は(「等」とされていますから、まだ他にもいたのかも知れません)「捕虜」になった後「唐」に連行され、そのまま「」に身を「没」していたものです。この「」とは、「唐制」では「官」の一種であり「官」より少々ましな程度の存在です。しかし、本来「戦争捕虜」は「官」として遇されるのが通常であったと思われますから、彼等はそれなりに良い待遇であったとも言えます。「官」ではなく「」の場合は「長年月」経過して「老年」に達した場合、「良民」として解放される場合もあったからです。彼らもこの例に漏れず、「解放」されたものでしょう。
 また、「天武紀」にも「大唐学問僧」と同行帰国した「捕虜」の例が書かれています。

「(天武)十三年(六八四年)十二月戊寅朔癸未。大唐學生土師宿禰甥。白猪史寶然。及百濟役時沒大唐者猪使連子首。筑紫三宅連得許。傳新羅至。則新羅遣大奈末金儒。送甥等於筑紫。」

 彼らの場合も「没大唐」とされていますから、「七〇四年」の帰国者と同様「唐」で「」とされていたと考えられます。この時の彼ら「猪使連子首。筑紫三宅連得許」も「老年」となったため「恩赦」があり、解放されることとなっていたものでしょう。
 更に「持統紀」にも捕虜の帰国記事があります。

「(持統)十年(六九六年)夏四月壬申朔…戊戌。以追大貳授伊豫國風速郡物部藥與肥後國皮石郡壬生諸石。并賜人絁四匹。絲十鈎。布廿端。鍬廿口。稻一千束。水田四町。復戸調役。以慰久苦唐地。」

 ここで「唐」で「捕虜」になっていたと思われる「伊豫國風速郡物部藥」と「肥後國皮石郡壬生諸石」の二人について、冠位を授けると共に「褒賞」を与えていますが、彼等がどのようにして帰国できたのかについては詳細が記されていません。しかし、その前年の九月に「遣新羅使」が発せられた記事があります。

「(持統)九年(六九五年)秋七月丙午朔辛未条」「賜擬遣新羅使直廣肆小野朝臣毛野。務大貳伊吉連博徳等物。各有差。」
「(同月)庚戌条」「小野朝臣毛野等發向新羅。」

この「遣新羅使」については「帰国」記事がなく、いつ帰国したのかが明確ではありませんが、翌年の「四月」に「元捕虜」であった彼等の帰国記事があるわけですから、彼等はこの「遣新羅使」の帰国に伴ってきたものという推定も出来るでしょう。
 つまり、彼等も「」として没されていたと思われ、解放された後自力で「新羅」までは帰国途中であったものと思われるものです。
 「博麻」の場合も「大唐學問僧智宗 義徳 淨願」と同行して帰国したこととなっており、また「從新羅送使大奈末金高訓等 還至筑紫」とあって、「天武紀」の場合と同様「新羅送使」により送り届けられているようです。
 これら一連の「元捕虜」の帰国記事から見て、確かに「博麻」がそれまで「唐」に滞在していたと考える事はかなり有力でありそうです。しかし、もし「博麻」達が「唐」に連れて行かれて「」ないしは「官」という立場となったとすると、この場合は「逃亡」(特に国外への逃亡)はかなり困難であったと思われ、「博麻」が「身を売る」という行為そのものが不可能であったという可能性が高いでしょう。まして、それが可能であったとしても「唐国内」から脱出することはとても無理であったと思われます。

 また結果的に「博麻」は「身を売った」とされていますが、三十年経過の後に釈放されて帰国しています。この釈放は上で見た「続日本紀」の「刀良」等などとは当然異なるものです。「刀良」は「身を売った」わけではありませんし、釈放されたのは「長年月」年月経過して「老年」に達したための一種の「恩赦」のようなものであったと思われのに対して、「博麻」の場合は明らかに「仲間の帰国費用」という「債務」を負い、その返済のために必要な期間「労働」に従事したものであり、その期間が過ぎ「返済」が完了したことから「解放」されたと言うことと考えられ、この二つは明らかにその「性質」が異なるものといえます。
 この「博麻」の場合は「律令」に言う「役身折酬(えきしんせっしゅう)」と呼ばれる「負債」の返済方法であったと考えられます。「役身折酬」とは「養老令」(「雑令」)で定められているものであり、「債権者が債務者の資産を押収しても全ての債権を回収できない場合には未回収分の範囲に限って債務者を使役できる」というものです。

(以下「養老令」雑令十九「公私以財物条」)
「凡公私以財物出挙者。任依私契官不為理。毎六十日取利。不得過八分之一。雖過四百八十日不得過一倍。家資尽者役身折酬。不得廻利為本。若違法責利。契外掣奪。及非出息之債者。官為理。其質者。非対物主不得輙売。若計利過本不贖。聴告所司対売即有乗還之。如負債者逃避。保人代償。」

(大意)
「公私が財物を出挙(すいこ)(=利子付き貸与)したならば、任意の私的自由契約に依り、官司は管理しない。六十日ごとに利子を取れ。但し八分の一を超過してはならない。四百八十日を過ぎた時点で一倍(=百%)を超過してはならない。家資(けし)(=家の資産)が尽きたなら、役身折酬(えきしんせっしゅう)(=債務不履行を労働によって弁済)すること。利を廻(めぐら)して本(もと)とする(複利計算)ことをしてはならない。もし法に違反して利子を請求し、契約外の掣奪(せいだつ)(=私的差し押さえ)をした場合、及び、無利子の負債の場合は、官司が管理する。質は、持ち主に対して売るのでなければ安易に売ってはならない。もし、利子を合計しても本(もと)(質物の価格)に達しないときには、所司に報告して、持ち主に対して売るのを許可すること。余りが出たならば返還すること。もし債務者が逃亡した場合、保人(ほうにん)(=身柄保証人)が代償すること。」

 ここで書かれたような「債務返済」の一方法としての「役身折酬」というような規定を「博麻」達が知っており、それを自らに「適用」しようとしたのではないかと考えられます。(これは彼等に「律令」の知識があったことを示しており、この「六六〇年代」において「倭国」に「律令」が施行されていたことを「示唆」するものでもあります。)
 彼らはこれを「抑留」されていた場所で行おうとしたものであり、これは彼らが「官」や「」という立場ではなかったことを示しているでしょう。元々このような返済方法は「良民」(自由民)にしか許されておらず、「官」のような立場にいる人間には、そのようなことは不可能であったでしょうし、そのようなことを考えるという「発想」がなかったものと思われます。
 つまり「唐」に連行され、「」ないし「官」などという立場に「落とされた」人間が、更に「債務」を負い、そのために「労働」で返済しようというのは、基本的には「無理」な話であると思われます。
 この事からの推論として、「彼等」は「唐」国内において「」でも「官」でもなかったこととなり、「自由民」として存在していたと推定されることとなります。そのようなことが「戦争捕虜」にありえたのでしょうか。そうは考えられません。
 そもそも「唐」国内では人身売買ができなかったと考えられます。「唐」で自分の身を売ったとすると、買ったのは「唐人」である可能性が高いわけですが、「唐律」では「人身売買」は「死罪」とされていました。「人」を掠(かすめる・さらう)し、掠売し、和売して「」と成したものは「死罪」、とされていたのです。また、それを買ったものについても「別」に「罪」が決められており、「唐律」では「良人」を「」としては買えないこととなっていました。
 確かに彼等は「戦争捕虜」であって、「良人」でないのは確かですが、だからといって自由に「売買」ができたとは考えられないわけです。というより「戦争捕虜」だからこそ自由には売買できなかったと思われるわけです。戦争は国家対国家で行われたものであり、「戦争捕虜」の「所有」は「国家」に帰するものと考えられます。しかも、戦争終結に当たっては往々にして「捕虜同士の交換」などの「戦後処理」が行われるなど、外交活動の道具ともなるものです。
 彼等が収容されていた場所が「唐」国内であったとした場合は、一応「軍」の監視下にあったはずであり、そのような人間である立場の者を「買った」人物がいたとしたらまた不思議です。少なくとも、「唐」において、自分の身を売るとしても「買い手」が付かない可能性が高いと思われます。(そのような「リスク」を犯す意味がないと思われます)
 しかし「」や「官」であったとすると「良人」ではありませんが、それは別の意味で売買はできないわけですから、いずれにしろ「博麻」が「身を売る」ということは「唐国内」ではできなかったという可能性が高いものと思料します。
 「持統の詔」に現れた彼等は割合自由に活動していたと思われ、「衣糧無きにより」とされていることから、逆に「衣糧」さえあれば帰ってくることが可能であると彼等が認識していたことを示すものですが、更に、彼等を「買う」というものがいたと言うことなどを総合すると彼等が収容されていた場所は「唐」の国内ではなく、「彼等」が「唐」の国まで連れて行かれたわけではないことを示しているとも思えるものです。

 次稿では「半島」で収容されていた可能性について引き続き検討してみます。

(続く)

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