古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「邪馬壹国」と「国郡県制」

2018年02月09日 | 古代史

  一般には「卑弥呼」の率いる「倭」は「部族連合」というようなとらえ方がされているようです。しかしそれは『倭人伝』を見てそれに依拠して議論する限り、当たらないといえるでしょう。
 『倭人伝』を見ると、「伊都国」には「王」の存在が書かれています。しかし『倭人伝』の中で「王」の存在が書かれているのはこの「伊都国」と「邪馬壹国」だけです。それ以外の国には(略載できるとされた七ヶ国についてだけではあるものの)「官」が派遣されているようであり、「王」はいないものと見られます。このような体制は実は「郡県制」ではないかと考えられ、かなり強い権力が「邪馬壹国」にあることが推定できます。このような体制は東夷伝を見る限り「倭」だけであると思われ、「邪馬壹国」率いる諸国の先進性が感じられるものです。そして「王」がいるとされる「伊都国」にしてもその「王」は、ただ「君臨」しているだけであり、実際の統治行為は「官」(というより「一大率」)がこれを行っていたと考えられます。
 中国の例でも、州に「王」(候王)がいる場合でも、実質的な行政担当者として「刺史」(ないしは「牧」)が存在していました。(『倭人伝』中でも「一大率」が「刺史の如く」とされており、「王」よりも権威があるように書かれています)
 また「奴国」は「須久・岡本遺跡」などの存在でわかるように「弥生」以来、歴代にわたり「王」が存在していたと思われますが、「卑弥呼」の時代には既に「王」がいなくなって久しいようであり『倭人伝』の中ではなにも触れられていません。これは「邪馬壹国」とその「共立国」などにより退位させられてしまったものと推察します。(「帥升」が最後の「奴国王」ではなかったでしょうか)
 「周代」以来中国では「封建制」が行われていました。これは「天子」としての「周」が王朝を成していたものであり、「諸国」の王はその配下の「候王」であったわけです。これは「秦」が成立すると「始皇帝」により「郡県制」へと移行させられました。これはその「諸国」の「王」の権威を否定し、中央から「始皇帝」の配下の人物が「官」として赴任するというものであり、「始皇帝」の意志が隅々まで透徹可能な体制が構築されたものです。しかしこれは「漢」の時代になると「封建制」と「郡県制」の「折衷的制度」である「国郡県制」へと変化しました。これは「諸国」に「候王」の存在を認めたものです。
 その変遷を踏まえて「倭」を見てみると、「周代」以来「周」の制度を取り入れていたと思われ、「士・卿・大夫」という階級的職制があったとされます。つまり「封建制」的国内体制であったものであり、「諸国」には各々「王」がいるという状態であったものと考えられます。(この段階の中心王朝がどこであったかは不明ですが、可能性としては「出雲」の王権であったということが最も考えられます)
 その後「半島」に「楽浪郡」が設置され「前漢」とのルートが確保された後は、「漢」の「最新」の文化が流入したものであり、ここにおいて「国郡県制」の施行が試みられたものと思料します。それは「奴国王」としての「帥升」の亡き後のことではなかったかと思われ、彼の代で「倭国」の中心権力としての「奴国」は終焉を迎え、「邪馬壹国」に中心権力が移動したものと推量します。そしてこの時点で「封建制」から「郡県制」への転換を企図したものと思われ、「官」を諸国に配置(派遣)する体制へと変革されたものと思われます。それは「伊都国」の協力があったことが重要であったと考えられ、「伊都国王」の果たした役割が大きいと見られます。 
 この時点で「一大率」が設置されたものではないかと推量され、それは「邪馬壹国」が中心権力の座に座るのに必要な組織(兵力)であったことが知られます。その意味で「邪馬壹国」は「武力」によって「奴国王」から「王権」を奪取したという可能性があるでしょう。「武力」と「律令制」はコインの表裏の関係にあり、「律令」を領域の隅々まで行き届かせるのに必要なものは「軍事力」であったと見られ、この時点で「伊都国」という水軍を主とした軍事国家が「倭」の中で重要な位置を占めることとなったものと思われます。
 その後「列島」に事件が起きたものと思われます。それは「後漢」の滅亡であり、「流民」となった多量の人々の流入であったと思われます。さらにそれは「疫病」の流入をも意味していたものであり、そのことに対して「王権」が正確に対応できなかったことに混乱の元があったものと思われるものです。
 「疫病」が強力であり、また「流民」が多数に上ったとすると、一種の「エピデミック」ともいうべき局地的ではあるものの相当深刻な状態が発生した可能性が強く、これは当時としては「不治の病」のようなものですから、人々は「宗教」(しかも新しい宗教)に頼らざるを得ないという構図ができあがったものと推量されます。
 それまでは「男王」には「祭祀」の主宰者としての力量が問われることもなく、「王」であるための必須の条件というわけでもなかったと思われますから、究極的な状況に陥り、宗教的救済を求めるようになった民衆から支持されなかったものでしょう。そのような状況で民衆が支持したのが「卑弥呼」であったというわけであり、「諸国」は彼女を「王」にすることにより国内をまとめるという点で合意したものと見られ、「卑弥呼」を「共立」したというわけです。もちろんそれに反対する勢力もあったものであり、中で強力なものの一つが「狗奴国」であり、その「男王」である「卑彌狗弧」であったものでしょう。
 このような推移が『漢書』による「百余国」あるとされた状態から、『魏志倭人伝』の「今使訳通ずるところ三十国」と書かれている変化につながったものと思われ、これは実質的に「帥升」により統合された「倭」が再度「分離」する過程を示していると考えられます。 
 
 「秦の始皇帝」は「郡県制」を始めた訳ですが、同時に「法」による支配も目指しました。各諸国の末端に至るまで「法」を周知徹底させなければ「法治国家」とは云えない訳ですが、そのためには「階層的行政制度」が必需であり、そのために「郡県制」が施行され、また「道路」が造られたものです。(「道路」はもちろん「秦」の外からの侵略に対抗するための軍事力輸送という意味が大きいのは当然ですが)
 「諸国」に王がいると、その国に「法」が徹底されなくなる恐れがあります。「王」の権威を認めると「法」の上に「王」がいることとなってしまいますから、「法治国家」という理念は成り立ちません。このため「法」つまり「律令」と「郡県制」とは切っても切り離せないものなのです。
 その後「秦」が滅ぼされ「漢」の時代になると、「郡県制」ではなく「国郡県制」となります。つまり「諸国」とその王の存在を認め、彼らの協力により「郡県制」を維持しようとする「折衷案」的制度が生まれます。それは「漢」の高祖(劉邦)が「諸国」の王達から「推戴された」という事情によると考えられます。彼らの協力がなければ「漢王朝」の成立さえ危ぶまれたものであり、またその後の「王朝」を維持するのにも彼らの存在が前提となっていたと言う事がいえます。
 この事情は「卑弥呼」時点の「倭国」においても同様であったのではないかと考えられ、その意味からも「国郡県制」に移行したという可能性が高いと思われます。(確かに『倭人伝』では「邪馬壹国」も含め「国」と呼ばれています)
 ただし、「諸国」の王達は、「卑弥呼」の「男弟」の指導力の元で「領域内」を安定化させようとしたのかも知れません。「邪馬壹国」の「女王」たる「卑弥呼」は「祭祀」の主宰者として傑出した能力があったと見られるわけですが、当然「統治」の実務実行能力にも秀でていたとは考えにくく、『倭人伝』にもあるように「男弟」が「佐治國」していたという記事の通り、「男弟」によって事実上統治が行われていたと見られるわけです。
 「邪馬壹国」の統治範囲の諸国では彼の遂行していた「国郡県制」をベースとした「官」の赴任をある意味積極的に受容したものと考えられます。 
 
 「卑弥呼」の死後「男王」が立った際にまた混乱が起きたというのは、立った「男王」に「霊的能力」が足りないと民衆や諸国の判断があったためであると共に、指導力(特に実務において)がある程度「あった」ということもまた理由として考えられるでしょう。それでは「男弟」による統治が実施されなくなることを意味しますが、それは望まないという勢力がかなり多かったのではないでしょうか。そのため「十三歳」という「幼女」ともいえる「壹與」を推戴したのでしょう。これであれば「霊的能力」の多寡は別としても「実務能力」がないことは明らかですから、「諸国」にとって見ると望むとおりのこととなったものと思われることとなります。


(この項の作成日 2011/08/18、最終更新 2015/08/03

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邪馬壹国配下の国々の組織

2018年02月08日 | 古代史

 『魏志倭人伝』に現れる「国名」と「官名」については、「邪馬壹国」率いる体制の中での「国名」であり、「官名」であると考えられます。つまり、「倭王」たる女王(卑弥呼)がいて、彼女の元に一種の「官僚体制」が存在しており、その体制の中で各国に「官」が派遣、ないし任命されていたものと考えられます。このような権力集中体制は『東夷伝』の中では「倭」だけに書かれており、周辺地域に比して先進的な国家体制が構築されていたと見られます。このことはこの時の「邪馬壹国」とその統治範囲の「諸国」についてよく行われている「部族連合」というような評価が妥当しないことを示します。「部族連合」ならば「中央」から「官」が派遣されていることはあり得ないといえるでしょう。その点から考えると、この『魏志倭人伝』の行程を記す記述の中に「到其北岸狗邪韓國」という表現があることが注目されます。 

「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。」 

 この「其北岸」については意見が様々あり、「其」という表記からこれが「倭」の領域である証拠という言い方もされているようです。しかし、海を渡った「對馬国」から始めて「官」や「戸数」「風俗」などの描写が始まるのであり、この「狗邪韓國」では一切その様なものがありません。それは「倭国」側から「官人」が派遣されていない事を示すものであり(王の存在も書かれていません)、そうであればそこは「邪馬壹国」のテリトリーではなかったと考えざるを得ません。
 またそれは「狗邪『韓國』」という国名にも現れているといえます。ここには明確に「韓国」とあるわけですから、名称からもここが「倭」の領域ではないことが示されているといえます。ただし、その国名に「狗邪」といういわば「卑字」が使用されているのは「邪馬壹国」側の見方であり、表記であることが考えられます。
 推定によれば、この「行程」を記すに当たって「魏」の使者は、「倭人」(「邪馬壹国」からの使者)と同行したのではないかと考えられ、その際に「倭人」側から説明を受けたものをそのまま記載しているという可能性があると思われます。つまり派遣使者の帰国に「魏」の使者が同行しているという図です。それは「對馬国」や「一大国」なども同様なのではないかと考えられることとなります。そのような中で「對馬国」から「国」の詳細について記事があるということは、「邪馬壹国」の北側の統治範囲は「對馬国」を限度としているように見られることとなり、ここから「自称」表記となるのだと思われます。
 (ただし、「邪馬壹国」には「邪馬」という「卑字」が使用されており、一見これが「倭側」の表記のようには見えませんが、「魏」に対して国書を提出しており、そこでは「俾弥呼」という「卑字」を使用した「自称」を署名として使用していたらしいことが知られ、「魏」に対して大きく「謙る」態度を示していたことが分かりますが、「邪馬壹国」などの部分に「卑字」が使用されているのも、これと同様の観念であったと考えられるものです。) 

 また「對馬国」「一大国」「奴國」「不彌國」の副官が「卑奴母離」であるのが注意されます。この「卑奴母離」は「軍事」担当官なのではないかと思われ、「一大率」の配下の人間ではなかったかと考えられます。「卑狗」は「民生」にかかわる業務を担当する官と思われ、「卑奴母離」はその「卑狗」のもとで「郡使」の往来などについて担当していたものと思われます。彼らはそのような場合「博多湾」ではなく「末廬国」から上陸させるのが課せられた仕事であったらしく、その「末廬国」で「一大率」が書類や物品の照合確認などを行っていたらしいことからも、彼ら「卑奴母離」は「一大率」の支配下にあったと推察されます。
 後の時代においても「對馬」には国境守備隊とも云うべき「防人」が配されていたものであり、「天智朝」の「郭務宋」やそれ以前の「高表仁」なども「對馬」までは「新羅」や「百済」の送使が案内しており、そこからは「倭国」側の人間が対応しています。これは『倭人伝』の時代から大きくは変らなかったことを推定させるものです。(「対馬」からは「筑紫矛」と称される武器が多数発見されており、その意味について諸説ありますが、私見ではここが軍事的要衝であったことの証拠と捉えられるものと思われます。) 

  「投馬国」の長官と副官はそれぞれ「彌彌」「彌彌那利」という呼称となっており、このような特殊な呼称は人口が非常に多いことと関係があるかもしれません。この二つの「官」はその地域の独特の呼称を「邪馬壹国」の側で承認している可能性も感じられ、半ば独立国状態のような雰囲気を感じます。つまり「邪馬壹国」から派遣されたものではなく、地場の有力者であるという可能性があります。後の「別」と「造」の違いにあたるものでしょうか。(また、ここでも王の名前は書かれていません)
 また、『書紀』で「みみ」を名前に持っている人物や神が現れていることとの符合が注意されます。「手研耳命」「神渟名川耳尊」「神八井耳命」というように「神武」の子供は全て「みみ」をその名に持っており、また「三嶋溝橛耳神」という「神」もいるなどのことから「みみ」がかなり「崇貴」な存在であることが推察され、それは『倭人伝』とかなり重なるともいえるとともに、彼等の「母国」とも言うべきものが「投馬国」と関連しているという可能性もあるように思われます。
 「奴国」は微妙な位置ではあります。官は「兕馬觚」であり「卑狗」より上と考えられますが、副官は「對馬国」や「一大国」と同じく一人であり、「卑奴母離」であるところは「地方扱い」にあまり違いはないようです。ただし、官が違うのは「戸数二万余戸」とあるかなり多い人口と関係があると思われます。ただしその「官名」に「觚」という文字が使用されており、これについては別途検討しますが、「中国」との深い関係の中でこの「官名」が形成された可能性があり、「奴国」の伝統を感じさせます。
 「倭」の中心王朝としての「邪馬壹国」には「伊支馬」「彌馬升」「彌馬獲支」「奴佳提」などの「官」があるとされており、この中の最高位が「伊支馬」であると推察されますので、「魏」に派遣されたという「大夫難升米」「大夫伊聲耆」は「伊支馬」であったかと考えられます。 

 ところで、『魏志倭人伝』の中でやや不明なものとして各国の「官」、「一大率」、「刺史」、「使大倭」などの相互関係の問題があります。 

「…自女王國以北特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯…」 

 上の文章の中には「皆」という表現がされ、それは「女王」に対する「文書」等の管理担当として機能している職掌について述べているものですが、文章からは「王遣使詣京都帶方郡 諸韓國 及郡使倭國」というように「機会」がある毎に「皆」という意味と思われ、また「臨津」という表現からはこれが「末盧國」における行動であることが明らかですから、この「刺史のごとく」とされた職掌については「一大率」と同一である可能性が高いと推量されます。
 「刺史」とは「三国時代」に各州の長官として任命されていた人物であり、名目上は将軍号を持っているものもいたようですが、基本的には軍事については担当せず、もっぱら民生的な部分の管理監督を行っていたものです。
 「州」の長官のうち軍事権を持たないものが「刺史」、持つものを「牧」(牧宰)といい、当時中国では中国全土を十三の「州」に分けその各々をさらに「郡」により分割して政治を運営していたのです。(「州-郡-県」という制度)
 「一大率」は明らかに「軍事」面での存在であり、「刺史」とは異なるはずのものですが、ここ「伊都国」ではあたかも(「王」はいるもののそれを上回る統治権限者として)「刺史」のように民政的なことも行っているということを表現するために「刺史のごとく」と書かれたものと思われます。

 また、国中に市場があり、交易をしている、という文面中に「使大倭」という人物の紹介があります。 

「… 國國有市 交易有無使大倭監之…」 

 彼は「交易」をするときに検閲官として監督している立場の人物です。(経済面で不当なやり取りがないようにするために存在している訳です)
 このような経済的な部分での監督者、という立場の人間に「大倭」の代理者という名称が使用されている、というのは如何に「経済面」が重要であるか、という証明でもあるようです。というよりその「市」はいわば「公設市場」であったと思われ、「使大倭」とは「卑狗」などと同様「邪馬壹国」から派遣されていた人物と思われ、その意味で「使」という「使者」を示唆する「語」が使用されていると思われるわけです。(多分彼は市に出店する人々から「手数料」的なものを上納させていたものと思われ、それを国々の収入としていたものではなかったでしょうか)
 そのような職掌の彼(「使大倭」)と「知事」のような「行政官」としての「刺史」とは明らかに異なっています。(この職掌が「刺史」と同一人物が兼務しているのであるならそのような文言があって然るべきではないでしょうか。) 

 また、ここには「租賦」という「税金」(稲ないし雑穀と思われる)と思われるものを「収める」「邸閣」がある、と書かれています。この「租賦」は一般の人々から「徴集」したものと考えられますが、それには「戸籍」や「暦」が必要であり、この段階でそれらが整備されていたことを示します。(ただし「王権」内部のことであり、一般化していたと言うことでないと思われます。)またこの「租賦」が人頭税的なものなのか、収量に応じて変化するものかは不明です。また別にも述べますが「邸閣」はただの「倉」ではなく、「軍事」に特化した施設であり「一大率」配下の人々のための糧米を提供する意味があったものと思われます。
 また「戸籍」がこの時点で存在していたことは『倭人伝』の諸国の記載中に「戸数」表示が出て来ることでもわかります。「戸」の基礎となる資料が「戸籍」ですから、「戸」という表記があるのは「戸籍」の存在を示唆していることとなります。「漢」や「魏」の例でも「戸」という表示は「権力側」が「租賦」を収奪するための前提となる「戸籍」を造っていたということの表現であると思われます。(「家」については後述しますが、「戸籍」データ等の提示がなかった場合や、「戸数」表示に「なじまない」場合の使用法と思われます)その「戸籍」整備のための最低条件である「暦」は「漢」の時代から既に導入されていたものと考えられます。そう考えると「暦」や「戸籍」が「卑弥呼」の「邪馬壹国」など「倭王権」においては統治のツールとして使用されていたと考えることは可能でしょう。各々の国に派遣されている「官」(「卑狗」など)はその様な「租賦」などを確実に収奪する体制を構築するのに必要な官僚であったものと思料します。

 

(この項の作成日 2011/08/18、最終更新 2016/04/30

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「筑紫大津城」と「一大率」

2018年02月07日 | 古代史

以下の論は一度投稿したものとほぼ同一ですが、ホームページ閉鎖に伴い再投稿します。

 (以下の考は「佐藤鉄太郎氏」の論(※1)に依拠して進めます)

 『続日本紀』に「大津城」という名称が出てきます。

「『続日本紀』宝亀三年(七七二)十一月辛丑条」「罷筑紫營大津城監。」

 この「大津城」という城は実際には存在していないとされているようです。つまり「朝鮮式山城」としては「基肄城」「大野城」という存在が「大宰府」の防衛のために築かれているわけですが、「大津」となると「博多」の海側の地名であり、「大宰府」近辺ではなく那珂川の河口付近のことを示すと思われます。そこに「城」があったというわけですが、「朝鮮式山城」だけが「城」であるという考え方をしていると、「城」はこの場所にはないこととなるのは当然です。しかし、「朝鮮式山城」はある程度後代のものであり、それ以前から存在していたとすると「山城」であるかどうかには拘る必要がないこととなるでしょう。
 そう考えると、最も可能性があるのは後に福岡城が置かれた「平和台」付近であり、「鴻廬館」があったとされる場所ではないでしょうか。ここに「城」つまり軍事的拠点があったと考えるのはここが対外勢力にとって大宰府への入口であり、関門であったはずだからです。

 佐藤氏も言われるように「筑紫大津」「娜大津」「博多大津」は『書紀』『続日本紀』では全く同義で使用されています。この事から「大津城」という「城」も上記「大津」の地に作られていたと考えるべきでしょう。
 その「筑紫国」には「城」が存在していたことは「壬申の乱」の際に「栗隈王」に対し戦闘に参加するよう「近江朝」からの使者としてきた「佐伯連」に対して「栗隈王」が発言した中にも現れています。

「…筑紫国者元戌邊賊之難也,其峻城深湟,臨海守者,豈爲内賊耶,…」
 
 ここでは「城」があり、それが海に臨んで立地しており、「城」そのものも険しく(急峻な城壁を意味するか)、また堀も深いとされます。このような「城」が実際存在していたと考えて無理はないでしょう。「栗隈王」が言うとおり、それは「外敵」からの防衛のためには当然必要であったと思われるからです。しかもその言葉の中では「元」という語が使用されており、この城が以前から存在していたことが示されています。
 また「鴻廬館」に関しても『善隣国宝記』の中では「大津館」と記されている箇所があります。

(『善隣国宝記』上巻 鳥羽ノ院ノ元永元年条)「…天武天皇ノ元年、郭務宋等来、安置大津ノ舘、客上書ノ函題曰、大唐皇帝敬問倭王書、…」

 この『善隣国宝記』は京都相国寺の僧侶「瑞渓周鳳」によって書かれた歴代の王権の外交に関する史料を時系列で並べたものです。ここでは「宋」の皇帝からの書が旧例に適っているか調べよという「鳥羽院」からの指示に対し「菅原在良」が答えた中にあるもので、彼の認識として当時「鴻廬館」が「大津館」と称されていたということであり、それは「鳥羽院」時代の宮廷官人の通常の認識であったことを示すものと思われます。
 これについては同じく『善隣国宝記』の中に引用されている『海外国記』の中では「別館」という表現がされています。

(『善隣国宝記』上巻 (天智天皇)同三年条」「海外国記曰、天智三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務宋等三十人・百済佐平禰軍等百余人、到對馬島。遣大山中采女通信侶・僧智弁等来。喚客於『別館』。於是智弁問曰、有表書并献物以不。使人答曰、有将軍牒書一函并献物。乃授牒書一函於智弁等、而奏上。但献物宗*看而不将也。…」

 「海外」からの客あるいは「訪問者」は「鴻臚館」で接遇するべきとされていたわけですから、この「別館」が「鴻臚館」そのものか「鴻臚館」の中に複数の建物があり、その一つを指すのかは不明ですが、「鴻臚館」が「大津館」とも呼称されていたことが強く推定され、そのことから「大津城」が「鴻廬館」の至近に存在したことを示すと考えて相当であることとなります。その時点で「外敵」からの「警固」の拠点として機能していたものと思われるものです。
 佐藤氏も指摘するように平安時代になり「新羅」による(というよりこれは海賊か)博多湾侵入事件があって後「太宰府」警護の兵士達は(「選士」と名称が変えられた後)交替で「鴻臚館」の警護にも当たっていたものであり、それはここに「兵士」が詰めるべき「城」があったことの反映であると思われています。
 この場所には後に「博多警固所」が造られます。これは「元寇」など海からの外敵に対する北部九州というより「倭国」(日本国)の防衛の拠点であり、ここが最前線であったことが知られます。

 このように「大津城」は実在したものであり、それは「太宰府」の北方の海岸線に位置し「海」から侵入してくる外敵に対して防衛線を築いていたものですが、このようなものが「七世紀」以降に初めて築かれたと考えるのは明らかに不当というものでしょう。なぜなら「筑紫」の地が要害の地であるのは「宣化」の「詔」(以下)などでも明らかなように、歴代倭国王権にとって事実であったからです。

「(宣化)元年(五三六年)夏五月辛丑朔条」「詔曰。食者天下之本也。黄金萬貫不可療飢。白玉千箱何能救冷。夫筑紫國者遐迩之所朝届。去來之所關門。是以海表之國候海水以來賓。望天雲而奉貢。自胎中之帝■于朕身。収藏穀稼。蓄積儲粮遥設凶年。厚饗良客。安國之方。更無過此。故朕遣阿蘇仍君。未詳也。加運河内國茨田郡屯倉之穀。蘇我大臣稻目宿禰。宜遣尾張連運尾張國屯倉之穀。物部大連麁鹿火宜遣新家連運新家屯倉之穀。阿倍臣宜遣伊賀臣運伊賀國屯倉之穀。修造官家那津之口。又其筑紫肥豐三國屯倉。散在縣隔。運輸遥阻。儻如須要。難以備卒。亦宜課諸郡分移。聚建那津之口。以備非常。永爲民命。早下郡縣令知朕心。」

 ここでは「筑紫」は内外からの人々が「貢納品」などを持参してやってくる際の「関門」となるべき場所であるとされています。このように考えてみると「大津城」(あるいはそれに相当する防衛拠点)が相当以前からこの地に存在していたという可能性が考えられ、(規模はともかく)これは「卑弥呼」の時代の「伊都国」に常駐していたという「一大率」に重なるものとは考えられるものです。

 既に述べたように「一大率」は「邪馬壹国」の北方に位置し、海上から侵入してくる外敵(この場合は「狗奴国」か)に対して強力な防衛線を構築していたものです。それが「水軍」とその拠点たる「城」(及び迎宴施設)とで構成されていたと考えるのは当然であり、その位置関係としては『倭人伝』に書かれた移動の方向と距離から、現在の「鴻廬館跡」の場所が「一大率」の治するところであった可能性が高いものと思われます。
 ただし、従来この位置は「奴国」の領域と考えられているようですが、それでは「博多湾」には「一大率」が睨みをきかすことの出来る場所がないこととなります。「博多湾」は重要な港湾であり、その場所に基地というべきものを持たないで「一大率」がその機能を発揮できたとは思われません。とすればこの「大津城」のあった地域は元々は「伊都国」の範囲の中にあったものと思われることとなるでしょう。その後「伊都国」と「奴国」の間(あるいは「奴国」の背後にいる「邪馬壹国」との間)の関係が変化した結果「伊都国」の領域が減少し、代わって「奴国」が「大津城」付近を自家のものとしたという推移があった可能性が考えられます。(「伊都国」は「倭」の中でも古参の存在であり、その実質的支配領域は時代が下るにつれ漸次減少していたのではないかと思われ、代わって「奴国」の領域が博多湾岸まで拡大したという可能性が考えられます。)

 弥生時代はこの場所はまだ河川による上流からの堆積物が少なく、平野部の形成が不十分であったと思われ、その「一大率」のいた場所は現在の「能古島」のように「砂州」で陸上とつながっていた程度ではなかったかと思われますが、「博多湾」に浮かぶように突き出たその位置は湾内への侵入者に対する監視場所として理想的であったと思われます。この博多湾はボーリング調査によって「海成層」(そこが海であったために形成された層)と「非海成層」(海であったことが推定されない層)との境界線が明らかとなっており、この「大津城」のあった場所の周囲は「海成層」であり、この場所が海中の「島」であった可能性が指摘されています。(※2)そのような場所に「一大率」が城を構えていたとして不思議ではなく、また水軍の本拠地もこの至近にあったと考えるべきであり、これが後の「主船司」につながる存在となったと思われます。
 またその「大津城」の構造としては、これは先に述べたように「朝鮮式山城」のようなものではなく、せいぜい「神籠石」のような列石を周囲に廻らした形のものであったとも考えられます。ちょうど「難波宮」のように海にやや突き出た位置に平坦な形で城を構成していたものではないでしょうか。


(※1)佐藤鉄太郎「実在した幻の城 ―大津城考―」(『中村学園研究紀要』第二十六号一九九四年)
(※2)下山正一「北部九州における縄文海進以降の海岸線と地盤変動傾向」(『第四紀研究』第三十三号一九九四年)及び「九州地方の古地理」(『国土地理院時報』第一〇二号二〇〇三年)


(この項の作成日 2014/08/22、最終更新 2015/06/09)

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「邪馬壹国」の戸数の疑惑について

2018年02月07日 | 古代史

 ところで『倭人伝』では「邪馬壹国」の戸数として「七万戸」としていますが、『続日本紀』に現れる「庚午年籍」記事(以下のもの)から推定した「九州諸国」の戸数として「三万八千五百戸」ほどという数字とかなり差があり、約2倍ほどとなっています。

「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳提。可七萬餘戸。」『倭人伝』

「(神龜)四年(七二七年)…
秋七月丁酉。筑紫諸國。庚午籍七百七十卷。以官印印之。」『続日本紀』

(「庚午年籍」は「一里一巻」で構成されており、またこの『続日本紀』編纂時点及び記述対象の神亀年間は「一里五十戸制」であったところから、「七百七十巻」とは「三万八千五百戸」を意味すると思われる。)

 『倭人伝』当時とその後の七世紀半ばで大きく戸数が異なるわけですが、(邪馬壹国の)戸数を過大としないならば、その領域として(「薩摩」「大隅」が「投馬国」であるとすると)九州島に納まらないものとみられ、中国地方あるいは四国の一部がその中にあったのではないかと推定せざるを得なくなります。しかしそれはかなり疑問ではないでしょうか。それでは当時の「クニ」領域として広大に過ぎるものであり、この領域内統治だけでも負担になるように思えます。また海峡などは「自然国境」として機能していたはずであり、単体の領域として「九州島」の中に収まらないというのは明らかに不自然です。その意味では「七万戸」あるいは「投馬国」の「五万余戸」というのは不自然さが感じられ、魏使に対して「過大」に報告したという可能性が考えられるでしょう。その意味で戸数の前に「可」という文字が使用されているのが気になります。この「可」には色々意味があり、多くは「可能」の意味ですが、「推測」の意味もあるようです。その意味ではこの「七万餘」という戸数も推測によるという可能性もあるかもしれませんが、「戸数」か表示されていることと矛盾するようにも思えます。「戸」が表記されているのは「戸籍」にもとづく実体のある数字と見るべきですから、ここで「推測」を示唆する「可」が使用されているのは別に意味があると見るべきでしょう。

『東夷伝』中には広さなどを表記する場合に多く「可」が使用されており、これはその数字が推測による以外に入手の方法がないという実態が表されているようであり、現在のように正確な測量などができてはいなかったわけですから、数字が推測の下のものであり、誤差を含んでいるのは当然であったと思われます。

「夫餘在長城之北、去玄菟千里、…方可二千里。」『夫餘伝』

「高句麗在遼東之東千里。南與朝鮮、…、方可二千里、戸三萬。」『高句麗伝』

「東沃沮在高句麗蓋馬大山之東、濱大海而居。…、可千里、…」『東沃沮伝』

「韓在帶方之南。…、方可四千里。」『韓伝』

「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。…千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里。」『倭人伝』

「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國、復在其東南、船行一年可至。」「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」『倭人伝』

 また『倭人伝』だけに「戸数」に対し「可」の字が使用されています。

「南至投馬國水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。」『倭人伝』

「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳〓。可七萬餘戸。 」『倭人伝』

時代は下りますが『隋書たい国伝』においても「戸数」に「可」が使用されています。

「開皇二十年…戸可十萬。」『隋書たい国伝』

 これらの「可」という文字は「概数」と「推測」を表すものではありますが、ここでは「戸」が表記に使用されており、そのことから担当官吏から報告を受けた戸数そのものが「概数」としてのものであったと見ることができそうです。そのため結果として「概数」が魏使に対して提示されたということではないでしょうか。そうであれば「魏使」に対して提示した数字そのものに何らかの修正を施していたものとみることは可能かもしれません。それに対し最後に示した『隋書たい国伝』においても同様に「戸数」表示に「可」の字が使用されていますが、それ以前に「伊尼翼」と「軍尼」について記述があり、そこからの計算値とこの「戸可十萬」という値とが整合していますから、実態と大きく異なる数字を提示したわけではなかったものと推測されます。単に数字が大きくなると細かい部分まで示すのは「煩雑」と考えたと言うことが最も可能性が高いでしょう。

 以上から「卑弥呼」の官吏は「魏使」に対して「邪馬壹国」と「投馬国」の両国の戸数について「誇大」な数字を提示した可能性があるといえそうです。これは「戸」を開示しなかった国もある(「一大国」「不彌国」)ことと同様の性質の対応であり、「魏使」に対する一定の警戒を示すものといえそうです。「魏」から自分たちの国力を過小に評価されないようにという意志が感じられるともいえます。特に「都」するところの「規模」を大きくいうことで「卑弥呼」の権威が強いことを表現し、それによって「魏使」に対し「邪馬壹国」という「クニ」が統治の中心であることをアピールしようとしたのかもしれません。それは「伊都国」「奴国」というそれ以前に「中国」と通交のあった「クニ」とはその規模が異なる事を示すことで、現在の「倭」の中心が「邪馬壹国」にあることを印象づけようとしたということが考えられます。
 実際その「七万余戸」という戸数規模は「東夷伝中最大」であり、他に例を見ないものです。それは他の「クニ」に直接統治のためとして「官吏」を派遣していたという統治体制の中身と相まって、中央集権的権力が「邪馬壹国」を中心として実現しているという実体を主張するものであったと思われるものです。
(しかし実際には「七万余戸」ではなくその半分程度ではなかったでしょうか。それであれば「庚午年籍」からの推定ともそれほど違いません。)


(この項の作成日 2018/02/03、最終更新 2018/02/05)

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「女王国」の領域と「一大率」

2018年02月07日 | 古代史

 『魏志倭人伝』は「自郡至女王國萬二千餘里」とありますから、「帯方郡」の「郡治」が置かれた場所から「女王国」までの総距離が「萬二千餘里」であることが明記されています。この里単位が「漢代」のものであったとすると、総距離として「5500km」という数字が出ます。これを地図に落とすと前述したように「インドネシア」まで届くほどの遠距離となります。この数字が意味するものは既に述べたように当然「漢」の長里ではないこととなりますが、といってこの「里」が「短里」であるとすると近畿には到底届かないことになります。つまりこの里単位によれば「倭」(その中心的な国の邪馬壹国)が九州島(しかも北部九州)にあったことは明白であるわけです。
 また、對馬、壱岐にくるときには、「海を渡る」意味の文がありますが、それ以降にはまったく存在しないので、この意味からも九州島を離れて「渡海」して他の地域には行っていないと考えられます。(九州の他の場所に船で行くときは単に「水行」という表現を用いる)
 また「倭地温暖」とか「冬夏食生菜」であるとか「倭人皆徒跣(裸足)」という表現などやその他「黥面文身」などの倭人の習俗を記した文章から考えても、「倭」は「南方」の雰囲気が強いといえるでしょう。(ただし、「魏」の都「洛陽」や帯方郡都に比べると、という意味ではありますが)
 これらのことは「九州島」の中に(特に北部)「倭」の中心があったと考えざるを得ないことを意味します。

 ところで、『倭人伝』の記載から「女王国」より「北」にある各国については、その詳細が「略載」できるとされていて、そこ(女王国)までは「魏使」が訪れた事を示すものの、「伊都国」の説明の中に「『魏使』が常に駐まるところ」とされていることを挙げて、そこ以上には「行かなかった」という意味であると理解する向きもあります。
 しかし「駐」の本義としては「馬」や「車」をある程度長い時間止めることを指すものであり、移動してきた「魏使」はそこで「馬」を休め、休息をとり、食糧を確保するなどの支援を受けたものと思われますが、そこから先には行かなかったということはこの「駐」という語からは窺えません。

(その余の傍国について)
「…自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。…」

 この文脈からは「斯馬國」以降に書かれたこれら「女王国」の「向こう側」の「諸国」については「遠絶」であるため、容易には行くことができないため詳細が分からないとしているのです。このことから「国名」だけが書かれている「二十一国」については、そこに書かれた記事内容については(実際には行けなかったとするのですから)「倭人」からの「伝聞」であると理解できます。さらにこれらは「女王国」の至近の国、少なくとも「魏使」が足を伸ばせば簡単に行けるような場所ではないこととなるでしょう。
 また『倭人伝』の記載から考えると、「邪馬壹国」までのクニ数と「遠絶」であるとされるクニ数とがかなりアンバランスであることが分かります。
 「邪馬壹国」までのクニ数として『倭人伝』には「七国」しか書かれておらず、(ただし、投馬国を含む)それに対し「より遠方にある」と推定される「其餘旁國」は「二十一国」あるわけですから、「邪馬壹国」の位置として「列島」の中ではかなり「西」に偏っていることが推定されます。(その東側の境界は中部地域付近か)
 そう考えると、「伊都国」に派遣、常駐していると書かれている「一大率」が「倭人伝中」ではその「検察対象」が「以北」地域であるように書かれていることが注目されます。

「自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國」

 上でみたように「女王国より以北」には余り多くの国がないことが推定され、「狗邪韓國」以降「伊都国」まで、およびその周辺各国が想定されている地域と考えられることとなります。そう考えると「一大率」にとっての「外敵」というのは海から侵入してく勢力であり、そのような「外敵」に対応するというのが、この「一大率」の目的の最大のものであったと考えざるを得ないものです。

 そもそもこの「一大率」の「大率」は「将軍」あるいは「指導者」のような形容として使用されているケースが多く、「個人」を対象とした呼称ではあると思われます。それは「卑弥呼」が派遣した「難升米」達に「魏」が「銀印青綬」を与えた際に彼らに「率善中郎将」等の称号(官職)を与えたという中にも現れており、そこにも「率」という文字が使用されていることとの関連が注目されます。このことは「率」にはやはり「軍」を「率いる」という意があることを示し、この「一大率」も同様に「軍」を率いていたことが推測され、文字通り「将軍」というような役割があったことを示します。
 さらにもし「一大率」という存在に実効的軍事力が伴っていないとすると「防衛」という成果を上げ得るとは思えませんから、当然「一大率」のいるところには彼の配下として「軍事力」があったと考えざるを得ません。つまり「伊都国」にはかなりの軍事力が集結していたと考えられることとなります。
 しかし、これはある意味大変不思議です。なぜなら、「邪馬壹国」の最大の敵は『倭人伝』によれば「狗奴国」であり、それは「邪馬壹国」の支配の範囲の向こう側にあると考えられるものですから、「南」あるいは「東」に存在しているのではないかと考えられ、少なくとも「北側」ではないと思われるからです。にも関わらず「南」や「東」には「防衛線」が構築されているように見えません。これについては「狗奴国」側は「日本海」ないしは「瀬戸内海」を「船」で「西下」し、博多湾から直接攻撃していた(しようとしていた)のかも知れません。

 当時は「官道」はもちろん整備されていなかったと見られますから「陸上」から侵攻するとしても大軍を送ることはできなかったものと見られ、それよりは「船」を使用した「水軍」が主戦部隊であったと思われます。これに対応するべく「一大率」が控えていたと見るべきでしょう。(その意味ではこの「一大率」の主力も水軍であった事が示唆されます)それは「博多湾」が最も「邪馬壹国」に至近の「湾」であり、そのため「一大率」は当然「海岸線」(それも「博多湾岸」)に水軍と共に監視と上陸阻止のために「城」を構えていなければならなかったはずと思われ、「一大率」が常治していたという「伊都国」はこの「博多湾岸」にその領域の一部があったと見るべきと思われるのです。そしてそれはその後「大津城」と呼称されて後々まで残っていたものではないでしょうか。
 博多湾の水深が深くなく、大型の外洋船などは進入できなかっただろうという論もありますが、「狗奴国」などの国内で使用されていた船はそれほど大型であったとは思われず、博多湾奥深くまで進入可能であったと思われ、これを阻止するための防衛線が博多湾にあったとみるのが相当と思われます。
 
 
(この項の作成日 2011/08/18、最終更新 2018/02/06)

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