一般には「卑弥呼」の率いる「倭」は「部族連合」というようなとらえ方がされているようです。しかしそれは『倭人伝』を見てそれに依拠して議論する限り、当たらないといえるでしょう。
『倭人伝』を見ると、「伊都国」には「王」の存在が書かれています。しかし『倭人伝』の中で「王」の存在が書かれているのはこの「伊都国」と「邪馬壹国」だけです。それ以外の国には(略載できるとされた七ヶ国についてだけではあるものの)「官」が派遣されているようであり、「王」はいないものと見られます。このような体制は実は「郡県制」ではないかと考えられ、かなり強い権力が「邪馬壹国」にあることが推定できます。このような体制は東夷伝を見る限り「倭」だけであると思われ、「邪馬壹国」率いる諸国の先進性が感じられるものです。そして「王」がいるとされる「伊都国」にしてもその「王」は、ただ「君臨」しているだけであり、実際の統治行為は「官」(というより「一大率」)がこれを行っていたと考えられます。
中国の例でも、州に「王」(候王)がいる場合でも、実質的な行政担当者として「刺史」(ないしは「牧」)が存在していました。(『倭人伝』中でも「一大率」が「刺史の如く」とされており、「王」よりも権威があるように書かれています)
また「奴国」は「須久・岡本遺跡」などの存在でわかるように「弥生」以来、歴代にわたり「王」が存在していたと思われますが、「卑弥呼」の時代には既に「王」がいなくなって久しいようであり『倭人伝』の中ではなにも触れられていません。これは「邪馬壹国」とその「共立国」などにより退位させられてしまったものと推察します。(「帥升」が最後の「奴国王」ではなかったでしょうか)
「周代」以来中国では「封建制」が行われていました。これは「天子」としての「周」が王朝を成していたものであり、「諸国」の王はその配下の「候王」であったわけです。これは「秦」が成立すると「始皇帝」により「郡県制」へと移行させられました。これはその「諸国」の「王」の権威を否定し、中央から「始皇帝」の配下の人物が「官」として赴任するというものであり、「始皇帝」の意志が隅々まで透徹可能な体制が構築されたものです。しかしこれは「漢」の時代になると「封建制」と「郡県制」の「折衷的制度」である「国郡県制」へと変化しました。これは「諸国」に「候王」の存在を認めたものです。
その変遷を踏まえて「倭」を見てみると、「周代」以来「周」の制度を取り入れていたと思われ、「士・卿・大夫」という階級的職制があったとされます。つまり「封建制」的国内体制であったものであり、「諸国」には各々「王」がいるという状態であったものと考えられます。(この段階の中心王朝がどこであったかは不明ですが、可能性としては「出雲」の王権であったということが最も考えられます)
その後「半島」に「楽浪郡」が設置され「前漢」とのルートが確保された後は、「漢」の「最新」の文化が流入したものであり、ここにおいて「国郡県制」の施行が試みられたものと思料します。それは「奴国王」としての「帥升」の亡き後のことではなかったかと思われ、彼の代で「倭国」の中心権力としての「奴国」は終焉を迎え、「邪馬壹国」に中心権力が移動したものと推量します。そしてこの時点で「封建制」から「郡県制」への転換を企図したものと思われ、「官」を諸国に配置(派遣)する体制へと変革されたものと思われます。それは「伊都国」の協力があったことが重要であったと考えられ、「伊都国王」の果たした役割が大きいと見られます。
この時点で「一大率」が設置されたものではないかと推量され、それは「邪馬壹国」が中心権力の座に座るのに必要な組織(兵力)であったことが知られます。その意味で「邪馬壹国」は「武力」によって「奴国王」から「王権」を奪取したという可能性があるでしょう。「武力」と「律令制」はコインの表裏の関係にあり、「律令」を領域の隅々まで行き届かせるのに必要なものは「軍事力」であったと見られ、この時点で「伊都国」という水軍を主とした軍事国家が「倭」の中で重要な位置を占めることとなったものと思われます。
その後「列島」に事件が起きたものと思われます。それは「後漢」の滅亡であり、「流民」となった多量の人々の流入であったと思われます。さらにそれは「疫病」の流入をも意味していたものであり、そのことに対して「王権」が正確に対応できなかったことに混乱の元があったものと思われるものです。
「疫病」が強力であり、また「流民」が多数に上ったとすると、一種の「エピデミック」ともいうべき局地的ではあるものの相当深刻な状態が発生した可能性が強く、これは当時としては「不治の病」のようなものですから、人々は「宗教」(しかも新しい宗教)に頼らざるを得ないという構図ができあがったものと推量されます。
それまでは「男王」には「祭祀」の主宰者としての力量が問われることもなく、「王」であるための必須の条件というわけでもなかったと思われますから、究極的な状況に陥り、宗教的救済を求めるようになった民衆から支持されなかったものでしょう。そのような状況で民衆が支持したのが「卑弥呼」であったというわけであり、「諸国」は彼女を「王」にすることにより国内をまとめるという点で合意したものと見られ、「卑弥呼」を「共立」したというわけです。もちろんそれに反対する勢力もあったものであり、中で強力なものの一つが「狗奴国」であり、その「男王」である「卑彌狗弧」であったものでしょう。
このような推移が『漢書』による「百余国」あるとされた状態から、『魏志倭人伝』の「今使訳通ずるところ三十国」と書かれている変化につながったものと思われ、これは実質的に「帥升」により統合された「倭」が再度「分離」する過程を示していると考えられます。
「秦の始皇帝」は「郡県制」を始めた訳ですが、同時に「法」による支配も目指しました。各諸国の末端に至るまで「法」を周知徹底させなければ「法治国家」とは云えない訳ですが、そのためには「階層的行政制度」が必需であり、そのために「郡県制」が施行され、また「道路」が造られたものです。(「道路」はもちろん「秦」の外からの侵略に対抗するための軍事力輸送という意味が大きいのは当然ですが)
「諸国」に王がいると、その国に「法」が徹底されなくなる恐れがあります。「王」の権威を認めると「法」の上に「王」がいることとなってしまいますから、「法治国家」という理念は成り立ちません。このため「法」つまり「律令」と「郡県制」とは切っても切り離せないものなのです。
その後「秦」が滅ぼされ「漢」の時代になると、「郡県制」ではなく「国郡県制」となります。つまり「諸国」とその王の存在を認め、彼らの協力により「郡県制」を維持しようとする「折衷案」的制度が生まれます。それは「漢」の高祖(劉邦)が「諸国」の王達から「推戴された」という事情によると考えられます。彼らの協力がなければ「漢王朝」の成立さえ危ぶまれたものであり、またその後の「王朝」を維持するのにも彼らの存在が前提となっていたと言う事がいえます。
この事情は「卑弥呼」時点の「倭国」においても同様であったのではないかと考えられ、その意味からも「国郡県制」に移行したという可能性が高いと思われます。(確かに『倭人伝』では「邪馬壹国」も含め「国」と呼ばれています)
ただし、「諸国」の王達は、「卑弥呼」の「男弟」の指導力の元で「領域内」を安定化させようとしたのかも知れません。「邪馬壹国」の「女王」たる「卑弥呼」は「祭祀」の主宰者として傑出した能力があったと見られるわけですが、当然「統治」の実務実行能力にも秀でていたとは考えにくく、『倭人伝』にもあるように「男弟」が「佐治國」していたという記事の通り、「男弟」によって事実上統治が行われていたと見られるわけです。
「邪馬壹国」の統治範囲の諸国では彼の遂行していた「国郡県制」をベースとした「官」の赴任をある意味積極的に受容したものと考えられます。
「卑弥呼」の死後「男王」が立った際にまた混乱が起きたというのは、立った「男王」に「霊的能力」が足りないと民衆や諸国の判断があったためであると共に、指導力(特に実務において)がある程度「あった」ということもまた理由として考えられるでしょう。それでは「男弟」による統治が実施されなくなることを意味しますが、それは望まないという勢力がかなり多かったのではないでしょうか。そのため「十三歳」という「幼女」ともいえる「壹與」を推戴したのでしょう。これであれば「霊的能力」の多寡は別としても「実務能力」がないことは明らかですから、「諸国」にとって見ると望むとおりのこととなったものと思われることとなります。
(この項の作成日 2011/08/18、最終更新 2015/08/03)