「植木の里 安行」 金剛寺 川口市
国内有数の植木産地で、「植木の里」で知られる川口市の安行には、これまで何度も植物観賞で出かけた。
12年9月24日、ちょっと趣向を変えて自転車で安行のお寺めぐりを試みた。これまで訪ねた寺がほとんどだったが、その由緒を説明板で読んで、自称「寺社奉行」も十分に満足した。
突然、信仰心が目覚めたわけではない。22、23の両日、「第5回きらり川口ツーデーマーチ」があり、これに参加したのがきっかけだった。
22日は小雨が降ったものの、日光御成道ルート20kmコースに参加して、23日の安行ルートを楽しみにしていた。
ところが、朝から隣のさいたま市に大雨注意報が出るほどの大雨で、二日目の参加はあきらめた。
「この雨の中1029人が歩いた」と共催の翌日の朝日新聞には書いてあった。ウオーキング愛好者は、かなりの雨にもへこたれないらしい。「雨天決行」の意味がよく分かった。
皮肉なもので、24日は朝から好天。おまけにあの長く暑い夏も突然終わって、秋の気候に変わっていた。「暑さ、寒さも彼岸まで」とはよく言ったものだ。
この好天に出かけない手はないと、ママチャリでお寺参りに出かけたというわけである。
まず目指したのは、安行の地名の発祥地として知られる金剛寺。室町時代の1496年、当時この地方を支配していた豪族中田安斎入道安行(やすゆき)により開創された。
安行(あんぎょう)の地名は、この入道の名にちなむ。群雄割拠の戦乱の世にあって自分の殺傷を悔い改め、禅僧に会ったのがきっかけで仏門に入った。寺名は帰依していた金剛経にあやかった。
金剛寺には、もう一つ、安行にゆかりの深いものがある。
「安行植木の開祖」吉田権之丞の墓と記念碑である。
権之丞は若い時から草花や盆栽に興味を抱き、苗木、植木を栽培、安行村の名主役も務めていた。
江戸で有名な「明暦の大火」(通称振袖火事)が起きたのは、1657(明暦3)年である。
天守閣を含む江戸城本丸が消失、江戸の6割が焼け、10万人以上の焼死者を出した。日本史上最大の大火災で、ロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つにも数えられる。
その復興のために必要になったのが、植木である。
江戸の巣鴨や駒込の植木商人を通じて、切り花や植木を取り引きしていた権之丞に、注文が殺到したのは当然だった。
権之丞に刺激されて、村人も苗木作りを始めた。明暦の大火で「植木の里安行」の第一歩が築かれたようだ。
権之丞は「花屋」と呼ばれ、今でも子孫は「花屋」の屋号を使っているという。
金剛寺の墓の中ほどにある権之丞の墓は小さい。説明板がなければ、気がつかないほどだ。
これと対照的に寺の境内に「安行植木の開祖 吉田権之丞翁記念碑」という堂々とした石碑が、没後300年を記念して建てられている(写真)。
川口市史によれば、幕末の頃、安行で植木業を営んでいたのは、吉田家など十余戸で、本格的な展開を見せたのは日露戦争前後だった。
果樹の苗木や江戸時代から出荷されていた、「赤山物」とか「赤山切り花」として知られた観賞用の切花類も著しく発展した。
1930(昭和5)年頃には、栽培戸数千数百戸、面積300haに達し、日本最大の植木産地になっていた。
安行がこれほど植木の里として発展したのは、土壌の赤土(関東ローム層)が樹木の栽培に適しているうえ、台地が起伏に富むことから、地下水の流れがよく、台地、傾斜地、低湿地が交錯、日当たりを好む木から日陰を好む木まで、いろいろな樹木を育てられることが挙げられる。
日本列島の中央部にあることから、寒い地方、暖かい地方、さらには亜熱帯の木も育ち、多種類の木や苗の生育に適している利点もある。
この台地の起伏は自転車で走るとよく分かる。大消費地東京に隣接し、地形と風土に恵まれたのが最大の要因だった。
国内有数の植木産地で、「植木の里」で知られる川口市の安行には、これまで何度も植物観賞で出かけた。
12年9月24日、ちょっと趣向を変えて自転車で安行のお寺めぐりを試みた。これまで訪ねた寺がほとんどだったが、その由緒を説明板で読んで、自称「寺社奉行」も十分に満足した。
突然、信仰心が目覚めたわけではない。22、23の両日、「第5回きらり川口ツーデーマーチ」があり、これに参加したのがきっかけだった。
22日は小雨が降ったものの、日光御成道ルート20kmコースに参加して、23日の安行ルートを楽しみにしていた。
ところが、朝から隣のさいたま市に大雨注意報が出るほどの大雨で、二日目の参加はあきらめた。
「この雨の中1029人が歩いた」と共催の翌日の朝日新聞には書いてあった。ウオーキング愛好者は、かなりの雨にもへこたれないらしい。「雨天決行」の意味がよく分かった。
皮肉なもので、24日は朝から好天。おまけにあの長く暑い夏も突然終わって、秋の気候に変わっていた。「暑さ、寒さも彼岸まで」とはよく言ったものだ。
この好天に出かけない手はないと、ママチャリでお寺参りに出かけたというわけである。
まず目指したのは、安行の地名の発祥地として知られる金剛寺。室町時代の1496年、当時この地方を支配していた豪族中田安斎入道安行(やすゆき)により開創された。
安行(あんぎょう)の地名は、この入道の名にちなむ。群雄割拠の戦乱の世にあって自分の殺傷を悔い改め、禅僧に会ったのがきっかけで仏門に入った。寺名は帰依していた金剛経にあやかった。
金剛寺には、もう一つ、安行にゆかりの深いものがある。
「安行植木の開祖」吉田権之丞の墓と記念碑である。
権之丞は若い時から草花や盆栽に興味を抱き、苗木、植木を栽培、安行村の名主役も務めていた。
江戸で有名な「明暦の大火」(通称振袖火事)が起きたのは、1657(明暦3)年である。
天守閣を含む江戸城本丸が消失、江戸の6割が焼け、10万人以上の焼死者を出した。日本史上最大の大火災で、ロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つにも数えられる。
その復興のために必要になったのが、植木である。
江戸の巣鴨や駒込の植木商人を通じて、切り花や植木を取り引きしていた権之丞に、注文が殺到したのは当然だった。
権之丞に刺激されて、村人も苗木作りを始めた。明暦の大火で「植木の里安行」の第一歩が築かれたようだ。
権之丞は「花屋」と呼ばれ、今でも子孫は「花屋」の屋号を使っているという。
金剛寺の墓の中ほどにある権之丞の墓は小さい。説明板がなければ、気がつかないほどだ。
これと対照的に寺の境内に「安行植木の開祖 吉田権之丞翁記念碑」という堂々とした石碑が、没後300年を記念して建てられている(写真)。
川口市史によれば、幕末の頃、安行で植木業を営んでいたのは、吉田家など十余戸で、本格的な展開を見せたのは日露戦争前後だった。
果樹の苗木や江戸時代から出荷されていた、「赤山物」とか「赤山切り花」として知られた観賞用の切花類も著しく発展した。
1930(昭和5)年頃には、栽培戸数千数百戸、面積300haに達し、日本最大の植木産地になっていた。
安行がこれほど植木の里として発展したのは、土壌の赤土(関東ローム層)が樹木の栽培に適しているうえ、台地が起伏に富むことから、地下水の流れがよく、台地、傾斜地、低湿地が交錯、日当たりを好む木から日陰を好む木まで、いろいろな樹木を育てられることが挙げられる。
日本列島の中央部にあることから、寒い地方、暖かい地方、さらには亜熱帯の木も育ち、多種類の木や苗の生育に適している利点もある。
この台地の起伏は自転車で走るとよく分かる。大消費地東京に隣接し、地形と風土に恵まれたのが最大の要因だった。
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