能仁寺はいつ来ても素晴らしい。2011年12月4日(日)に訪れた時は、小春日和で、文字どおり真紅の紅葉が最後の輝きを放っていた。
「飯能戦争」という言葉を知ったのは、何十年前だったか、寺にある大きな記念碑の脇の説明文を読んだ時だった。
この寺は、1868(慶応4)年5月、東京・上野で新政府軍に抵抗した旧幕府派の「彰義隊」と袂を分かって、東京・田無で結成された「振武隊」などが、この地に逃れて戦った際の本陣だった。
その時、政府軍の砲撃などで焼け落ちたものの、昭和になって再建され、美しい姿を今に伝えている。
この「戦争」に興味があるのは、「振武隊」には、「日本資本主義の父」として知られる渋沢栄一の従兄弟たちが深くの関与しているためである。栄一は関わっていないものの、従兄弟たちとともに、今はやりの言葉で言えば、テロリストの一味だったことがあるのだ。
飯能市は、「田園文化都市」を宣言しているだけあって、山あり、河原あり、林や田畑もありと、埼玉県で私が一番好きな市の一つだ。
能仁寺に来たのは、寺に近い飯能河原(入間川)の飯能郷土館の一角で「飯能炎上―明治維新・激動の6日間」という展覧会が、10月16日から12月11日に開かれているのを、遅ればせながら知ったからだ。
郷土館は素晴らしい施設である、その一角で開かれたこの特別展は、この「戦争」とは何だったのか、展示数は少ないながら、ビジュアルな形で展示している。館で書いた解説書もあって、たいへん参考になった。
「振武軍」は栄一の従兄弟の渋沢成一郎を頭取とし、成一郎のいとこの尾高惇忠(あつただ)や、栄一が慶喜の弟徳川昭武の随員として欧州に渡った際、「養子」にした平九郎(惇忠の弟 渋沢と改姓)も幹部として参加していた。
「振武軍」が「彰義隊」と分かれたのは、軍資金徴収をめぐって、郊外で戦おうという彰義隊の頭取だった渋沢成一郎と、江戸市内で官軍と交戦しようとする副頭取の天野八郎との意見が食い違ったためである。
5月15日、彰義隊が壊滅したことを知ると、すでに江戸を出ていた「振武軍」約300人と上野を追われた残党、合わせて推定1200人前後は、18日に飯能に退き、能仁寺をはじめ6つの寺などに分宿した。
能仁寺は、天覧山を背にして、市街を見下ろす本陣にふさわしい場所にある。
飯能がその舞台になったのは、農民から兵士を集めようと、成一郎らが最後の将軍徳川慶喜が属する一橋家の領地があった飯能の周辺を回っていたので、土地勘があったためと見られる。
大村藩など九州諸藩からなる官軍は23日(いずれも旧暦)深夜に総攻撃を開始した。戦いは午前中に終了、能仁寺など4つの寺は、砲撃などで消失、200戸を超す民家が焼けた。「振武軍」らは逃走した。
1日で終結した戦いを「戦争」と呼ぶのは、大げさのような気もする。展示室の説明によると、彰義隊との戦いが「上野戦争」と呼ばれたように、当時は短い戦いもそう呼ばれていたらしい。
幕府方の参謀、渡辺清左衛門は後に「戦争というほどではなく、百姓一揆を追い散らすくらいのことであった」と述べているという。
飯能は第二次大戦中、町が焼けるような空襲を受けていないので、住民にとってこの短い戦いが「戦争」だったことは間違いない。
成一郎と尾高惇忠は逃げおおせたものの、旅商人風に変身した平九郎は越生町黒山で見破られて、負傷、自刃した。22歳だった。首は近くの報恩寺の門前に晒された。
会場には平九郎の写真や刀も展示されている。「人と成り長身白皙、才文武を兼ね、志忠孝に存す」と書き残されているとおり」、写真を見てもなかなかのイケメン。今はやりの歴史好きの”歴女“にも人気という。
生き延びた成一郎は喜作と改名、実業家になり東京株式取引所理事長など、尾高惇忠は富岡製糸場の初代場長も務めた。
若死にした平九郎に人気が集まるゆえんである。
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