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秩父事件 逃亡者 井上伝蔵

2011年03月04日 12時38分08秒 | 現代 秩父事件・・・


事件の120周年を記念して04年にできた神山征二郎監督の映画「草の乱」を見た人は、よくご存じのとおり、秩父事件の関係者で最も数奇な人生を送ったのは、井上伝蔵だった。伝蔵は、蜂起の日の11月1日、田代栄助が読み上げた役割表の中では、総理、副総理に次ぐ会計長だった。

逃亡後の手配書には、「年齢32、3」「眉太く、眼はクルリとした方」「顔長く白き方」「男振は美なる方」「丈高き方」「歯並揃いたる方」「鼻高き方」などとあったという。

当時なら歌舞伎役者、今ならそれこそイケメンそのものだ。こんな人目につきそうな色男が35年も「逃亡者」を続けられたのだから、人の世は面白い。

当時31歳。吉田町のはずれに住み、鉢形城の家老井上氏の流れをくむ名門の二男。村会議員などもしていた。絹や生糸を扱う「丸井商店」を持ち、東京にもよく行き来していた。自由民権思想に共鳴し、東京で自由党本部にも出入りして大井憲太郎とも付き合い、政治的視野も広かった。

秩父の自由党中心人物となり、困民党のブレーン役だったのに、武装蜂起の自重、延期を求めていた。俳句や歌舞伎にも詳しかった。

数奇な人生が始まったのは、11月4日の本陣解体の後、栄助と分かれてからである。

数日潜伏の後、伝蔵の実家と村役人仲間で親しい間柄だった実家近くの下吉田村関の斎藤家の土蔵の二階に二年間匿われていた。ところが、蔵の中で息を潜めていたのではなく、六法全書を読み、階段を昇り降りして身体を鍛えていた。

たびたび実家を訪ね、食事などをしていたので、近所の人に出会うこともあったが、密告するものは誰もいなかった。

欠席裁判で死刑の判決を受けた後、宇都宮に出て、汽車で仙台へ。仙台から青森まで歩いて、北海道・室蘭に渡った。1987(明治20)年秋である。室蘭から苫小牧、札幌を転々。22年、明治憲法発布で秩父事件関係者は特赦になったのに、知らなかったらしく、秩父には帰らなかった。

明治25年、39歳の時石狩で、「伊藤房次郎」という名で、石狩原野に開拓のため4万8000坪の土地借り下げを受けた記録が残っている。石狩で江差町出身の高浜忠七の長女ミキ(16歳)と入籍せずに結婚した。妻の姓を借り「高浜房次郎」と名乗った。二男三女をもうけ、幸福な家庭だった。

1912(明治45)年、野付牛(のっけうし 現北見市)に移住した。事件から35年が経ち、死の10日ほど前、妻と長男に本名と秩父事件の過去を告白した。

1918(大正7)年6月23日、65歳で波乱の生涯を閉じた。腎臓病だった。死の直前に撮った一家の写真が残されている。

長男は、伝蔵が単なる「暴徒」として扱われたことを非常に口惜しく思っており、「国事犯」でなかったことを本当に残念がっていたと語っている。

ネット上にある北見市の市史編さんニュースによると、20年暮らした石狩では、妻の父親忠七に土地の名義を譲り、まず代書の仕事をした。これは意外に繁盛したようだ。法律の改正で身元証明が必要となったので、発覚を恐れて、妻が始めた文房具店を本業とした。

養子縁組の証人や神社の祭典委員、土地の評価委員を務めるなど、地域の名士として活躍し、潜伏の暗いイメージとは程遠い、落ち着いた普通の生活をしていた。

石狩には幕末から盛んな俳句結社「尚古社」があった。下吉田村で俳句をたしなんでいた伝蔵は俳号「柳蛙」(りゅうあ)で参加し、多数の俳句を残した。秋の句が多く

 想いだすことみな悲し秋の暮

秩父事件を思わせる句も残されている。

7年住んだ野付牛では、古道具屋をしていたようだ。孝行な長男・長女は就職していたので、暮らしは成り立っていた。ふだんはおとなしい人なのに、選挙になると別人のようになり、演説会でも公然とヤジを飛ばし、警察に二、三度引っ張られたこともあった。

長男から告白を聞いた釧路新聞の野付牛支局長岡部清太郎は、政治談議好き、囲碁仲間で、伝蔵と親しく、家ぐるみ付き合っていた。死後、釧路新聞に伝蔵の告白を「秩父颪(おろし)」の題で連載した。

「高浜爺さんが暴徒の首魁?あの柔和な品の善い御爺さんが暴動の大将だなどとは何かの間違いだろうとて、野付牛でこの御爺さんを知る人は容易にお爺さんの井上伝蔵なるを信じない・・・」(現代語訳)がその書き出しだった。

伝蔵に私淑していた岡部は、「暴動の首魁等は、いずれも皆手段を誤ったけれど、その心事の高潔は、国事、公共の名に隠れて、私利を謀り、私欲を満たさんとする、今の代議士、政党員らとは、決して同日の論ではない」と、伝蔵たちを評価している。

朝日新聞には「秘密の35年 秩父事件の首魁井上伝蔵 市に臨んで妻子に旧事を語る」という見出しで報道され、事件を忘れかけた社会を驚かせた。

栄助には、秩父に妻コマ(古まとも)と生後5か月の娘布伝(ふで)がいた。関わりにならないよう離縁していたが、1908(明治41)年、その縁談が持ち上がった時、伝蔵はコマの所を訪ねてきたと布伝の四女が話している。

伝蔵の「丸井商店」は、「草の乱」のセットとして、吉田町の「龍勢会館」の隣に復元され、秩父事件資料館として一般公開されている。


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1 コメント

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伝蔵の逃走ルート (カナヤマリコ)
2016-12-04 11:42:19
大変に興味深く拝読いたしました。伝蔵の逃走ルートに付き、どのような文献でお調べになったのでしょうか。ご教示いただければ幸いです。
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