秩父の生まれで埼玉県出身の文化人として最も知られ、戦後日本を代表する前衛俳句、社会性俳句の重鎮だった金子兜太(とうた)さん(98)が18年2月20日夜、入院先の熊谷市の病院で長男の真土(まつち)さんとその妻に見守られて、急性呼吸促迫症候群で亡くなった。
兜太さんは、俳人だった妻の皆子さん(06年81歳で死去)の勧めで、50歳を前に1967年、東京から熊谷に転居していた。
死んだのが埼玉なら生まれたのは、1919年母はるさんの実家の小川町だった。
<長寿の母うんこのようにわれを生みぬ>
という有名な句を09年に出した句集「日常」に残している。母親のはるさんは丈夫な人で、104歳まで生き、6人の子供を産んだ。
兜太さんは、皆野町で開業医だった父の元春さん(俳号・伊昔紅=いせきこう)の長男だった。伊昔紅は助兵衛な歌だった「秩父豊年踊り」を、公募したり、自ら作ったりして、歌詞、振り付けとも全国に通用する有名な民謡「秩父音頭」に創り変えたことで知られる。兜太さんはこの歌が好きで、乞われるとよく歌った。
一番有名な<秋蚕(あきご)仕舞うて麦蒔き終えて秩父夜祭り待つばかり>の部分の歌詞は伊昔紅の手になる。
伊昔紅は上海の東亜同文書院の校医を務めていたので、兜太さんも2歳から4歳まで上海にいたことがある。
生まれも死ぬも埼玉県というわけで生粋の埼玉っ子。兜太さんの産土(うぶすな)の地は埼玉県だったのだ。
皆野町皆野小、熊谷中、旧制水戸高、東京帝国大学経済学部で学んだ後、繰り上げ卒業で日本銀行に就職した。すぐ海軍に入り、終戦間近な1944年、海軍主計中尉として、敗色濃いトラック諸島(現ミクロネシア連邦・チューク諸島)に赴任、部下が飢えや機銃掃射、手りゅう弾製造で死んでいくのを目の当たりに見た。
俳句は、水戸高時代に作句を始め、大学時代は加藤楸邨(しゅうそん)に師事した。
終戦で捕虜になり生き延びて、最後の復員船でトラック島を去る際に残した
<水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る>
には死んだ戦友への思いが込められている。この句が兜太さんの戦後の俳句創りの原点となった。
東京都出身の加藤楸邨も、同じ埼玉県の粕壁中学校(現県立春日部高校)の教諭を務めたことがある。兜太さんは同僚たちに誘われて俳句を始め、粕壁の駅近くの病院に応援診療に来ていた水原秋桜子に会い、師事するとともに、「馬酔木」に投句を始め、頭角を現した。楸邨と兜太さん師弟はこのような「埼玉県の縁」で結ばれていたのだ。
楸邨は教員を辞して東京文理科大学(現筑波大学)国文科に入学。妻と三人の子を連れて上京し、石田波郷ともに「馬酔木」発行所で編集と発行事務を務めながら大学に通った。
<曼珠沙華どれも腹出し秩父の子>、<利根川と荒川の間雷遊ぶ>
兜太さんには産土としての秩父を詠んだこのような句も多いが、<美の山に朝日生まれ 両神に夕陽燃える>で始まる皆野中の校歌なども作詞している。熊谷市の八木橋百貨店のカルチャー教室で俳句を教えたこともある。
俳句を通じた故郷への貢献に感謝して、皆野町名誉町民、熊谷名誉市民の称号や埼玉文化賞などを贈られている。
現代俳句協会会長、名誉会長、日本芸術院会員、文化功労者、菊池寛賞、朝日賞・・・朝日俳壇の選者も1987年から務めたが、兜太さんを失ってポッカリ穴が開いた感じだ。
4月2日、熊谷市内で営まれた告別式で、長男の真土(まつち)さん(69)は、「父は意思疎通には支障はなかったものの、16年冬にアルツハイマー型の認知症と診断されていた」と明らかにした。
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