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橋本雅邦と川越市

2015年07月05日 17時50分15秒 | 文化・美術・文学・音楽


絵はからきし描けないのに、見ることは人一倍好きだ。学生時代から銀座の画廊にひんぱんに出入りし、新聞記者になり、定年になっても都内の美術館や美術展の目ぼしいのはほとんど見た。

最初は日本画が好きで、日本画革新の先頭に立った橋本雅邦の名は狩野芳崖とともに忘れられない。その雅邦が川越市に縁があったとは露知らなかった。

雅邦は1835(天保6)年、今の東京・銀座木挽町の幕府の御用絵師狩野家の邸で生まれた。

父の橋本晴園養邦(せいえんおさくに)が狩野家の門下で、後に川越藩主になった松平周防守の御用絵師だったからだ。門弟の中でも位は高かったようだ。

千太郎と名づけられた雅邦は、7歳ごろから父の手ほどきを受け、12歳で狩野派の一派の門に入った。くずしくも狩野芳崖と入門が同日だった。

23歳で芳崖とともに塾頭となり、26歳で独立を許され、雅邦と称した。

1866(慶応2)年、周防守が川越藩主となり、父とともに川越藩士として御用絵師となった。約2年間、幕末維新の動乱を避けて一家で川越に避難したのである。(家族だけで本人が来た証拠はないという専門家もいる)

当時、日本画の需要は少なくなり、俸禄もままならなくなって、生活は窮乏を極めた。中国輸出用の扇面に絵を描いたり、三味線の駒を削る内職までした。不安な世情で妻が精神異常をきたし、3人の子供をかかえた辛苦は想像に余りある。

1871(明治4)年の廃藩置県で、川越藩が廃止されると、御用絵師としての禄を立たれて、生活を支えるため、後の海軍兵学校に製図掛として明治19年まで15年間勤務した。

明治6年ごろから日本画など伝統美術の見直しが始まった。明治12年、伝統美術復興に取り組む「龍池会」が創立され、明治15年、第1回内国絵画共進会が開催され、雅邦の出品した「琴棋書画」などが最高賞の銀印を授章した。雅邦の画壇デビューである。

この雅邦や芳崖を世に送り出したのが、東京大学のお抱え教師アーネスト・フェノロサだった。

雅邦は明治17年、フェノロサが組織、指導した「鑑画会」に属し、第1、2回大会で3、2等賞を受賞した。伝統的な狩野派絵画と西洋画法を融合させ、独自性を打ち出した日本画だった。

明治22年、東京美術学校が創設され、雅邦は校長の岡倉天心を助け、教授として、横山大観、菱田春草、下村観山らを指導した。

「白雲紅樹図」や「龍虎図屏風」(いずれも重要文化財)が雅邦の最高傑作とされる。

明治31年、岡倉天心を排撃しようとする東京美術学校騒動が起こり、天心を初め雅邦、大観、観山、春草らが辞職、「日本美術院」を創立した。年長の雅邦は主幹となって天心を支えた。

「日本美術院」は茨城県五浦(いずら)に移転したが、高齢の雅邦は東京に留まった。

一方、雅邦の画名が高まるにつれ、川越の人々は、雅邦が川越藩の御用絵師だったことや、二年間滞在した親近感もあって深く尊敬するようになり、愛好家や支援者が明治30年、雅邦の名にちなんで、「画宝会」という後援会を立ち上げた。

明治32年には、「画宝会」主催の第1回の雅邦翁絵画展覧会が開かれ、4,500点、翌年には旧作を含む5、600点が展示された。

会費の積み立てで雅邦の作品が安価で手に入る会で、雅邦は毎月10枚ほどの制作に追われたという。

川越市の蔵のまちの山崎美術館などに愛好家の所蔵作品が残されているのはそのためである。

雅邦は明治41年、74歳で死亡したが、「画宝会」の活動はその前年まで続いた。


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