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渋沢栄一 世界遺産になった富岡製紙場

2010年09月04日 16時15分37秒 | 偉人①渋沢栄一
渋沢栄一 世界遺産になった富岡製糸場 


14年6月に群馬県富岡市の「富岡製糸場」が、世界遺産に指定された。

2年間いた群馬県も、その後半世紀以上住んでいる埼玉県も、昔は養蚕県だった。「お蚕さん」と敬称がつくのも、2階建ての家の2階に蚕を飼い、家族と共存しながら暮らしてきた歴史があるからだ。

思えば、博徒・国定忠治が賭場に出入りできたのも、明治の初め秩父事件という新政府に公然と反抗する農民の反乱が起きたのも、お蚕のためだった。

「富岡製糸場」には、現・深谷市の偉大な先人二人が関わっていたことを、この機会に振り返っておきたい。

一人は、渋沢栄一で、もう一人は、栄一のいとこ尾高惇忠(じゅんちゅう)である。

明治の新政府は出来たものの、外貨を稼ぐ手だてがない。大隈重信や伊藤博文が目をつけたのは、当時の日本お家芸だった生糸製造である。

ヨーロッパの事情を知っていた栄一に、官営製糸工場建設が一任された。生糸生産の先進国だったフランスから来ていた政府の法律顧問から、技師ポール・ブリュナを紹介され、栄一は工場建設の契約書を結んだ。

その時、頼りにしたのが惇忠である。ブリュナとともに敷地選定から現場の実務にも当たり、1872(明治5)年、製糸工場の初代場長になり、4年間1876年まで務めた。

惇忠は、栄一のいとこで、栄一の実家の深谷市の血洗島の近くの下手計(しもてばか)に住んでいた。

独学ではあったものの、漢学を修め、その名を知られた秀才だった。父親から5歳の時から学問の手ほどきを受けていた栄一は7歳から、10歳上で17歳だった惇忠の所に毎晩1、2時間通い、15歳頃まで「論語」を手始めに漢学を学んだ。

栄一の読書の幅は広く、「三国志」なども読みふけった。「この師にしてこの弟子あり」という感じだった。

後日、栄一が企業倫理を重んずる「論語資本主義者」と呼ばれるようになった基礎はこの時に培われた。

栄一は10歳上の師を、日本の資本主義の始まりとも言えるこの事業の遂行に委嘱したわけである。栄一は19歳で、惇忠の妹千代と結婚している。

明治政府は、製糸場の操業開始の見通しがついた1872(明治5)年、製糸場で働く工女の募集を始めた。

ところが、外国人技術者が飲むワインを生き血と勘違いして、「生き血を吸われる」と5か月間も応募者はゼロ。そこで、惇忠は14歳になる長女の勇(ゆう)を第1号の工女とした。勇の住む下手計(しもてばか)村から5人の少女が行動を共にした。

それでも工女は集まらず、10月4日に操業開始した時も、第1次操業に必要な400人の約半分だったという。勇はフランス人女工から手ほどきを受け、1等工女になり、17歳で富岡を去った。

翌73年1月には工女は404人になり、出身地は13府県に及んだ。地元群馬が228人、入間(埼玉県)が98人と,両県で全体の8割を占めていた。

勤務時間は、季節によっていくぶん違うが、日の出から日没30分前で、朝7時に就業、9時に30分休み、12時に昼食、1時間休み、4時半宿舎に帰るといった具合だった。

毎週日曜日は定休で、休日は夏休み10日を含め年間76日。後の民間製糸工場で見られた「女工哀史」のような労働条件ではなかった。

この工場で働いた工女たちは、全国各地の工場でその技術を伝え、紡績日本の基礎を築いた。

深谷市は来訪者が増えたことから、下手計にあるを毎日公開している。また、惇忠の生家や栄一の生家「中の家(なかんち)」の周辺を整備、観光客誘致を図る。

同市では、この二人に製紙場の赤れんがを作った韮塚直次郎をくわえて、「舞台は富岡、主役は深谷の三偉人」というキャッチフレーズに、三人の顔写真を並べたポスターを駅などに掲げてPRに努めている。

富岡製糸場を通じて、富岡(群馬県)と深谷市の距離はグンと近づいた。

参照:「富岡製糸場事典」(富岡製糸場世界遺産伝道師協会編 シルクカントリー双書⑧ 上毛新聞社)など。


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