海運にも手を伸ばそうとしていた栄一の生き方を考える際、最も印象的なのは、海運業の独占を狙っていた三菱財閥の岩崎弥太郎との物別れに終わった大論争である。
明治11年の夏の終わり、その岩崎弥太郎が栄一を隅田川の舟遊びに招待した。“清談”をしようというのである。舟遊びは当時、最高の接待の一つだったようだ。
大川端(大川とは隅田川のこと。埼玉県人から見れば荒川の下流にしか過ぎない)の料亭で芸者総上げの宴会、屋形船遊びの後、料亭に戻ると、弥太郎が、「二人で手を握り、海運の富を独占しよう」と持ちかけた。いかにも弥太郎らしい発想である。
栄一は激論の挙句、きっぱりと断った。栄一は一歩も譲らず、中座した。弥太郎は当然、立腹し、その後長く反目が続いた。
高崎城襲撃をきっかけに、横浜を焼き討ちし、外国人皆殺しを真剣に考えていたほどの過激な尊王攘夷派だった栄一は、本来は不倶戴天の敵とも言うべき第十五代将軍徳川慶喜の庇護を受けるようになる。
栄一は、慶喜の弟である清水昭武を代表として幕府が万博に参加するためパリに向かう際、庶務担当として同行することになった。27歳。それから一年半、フランスを始め、スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなどの先進国を訪問した貴重な経験が栄一を根底から変えた。
当時は船しか外国訪問の道はなかったので、帰国した際には幕府は倒れていた。大隈重信に説得され、今の大蔵省に入る。ところが、大蔵卿・大久保利通との予算編成に関する意見の食い違いから大蔵大輔(たゆう)井上馨とともに3年余で野に下る。33歳。1873(明治6)年のことである。
ここから官尊民卑を改め、商工業者の地位を引き上げようとする生涯の戦いが始まる。初めての仕事は「第一国立銀行」だった。国立銀行と言っても日銀のことではない。今のみずほ銀行の前身である。「バンク」を「銀行」と訳したのも栄一だった。
次に手がけたのは、株主の協調の場にしようと「東京商法会議所(後の商工会議所)」を設立。明治11年、発会式には大倉喜八郎、安田善次郎、岩崎弥太郎などが集まり、栄一は会頭に推された。
船会社を持っていたので明治7年の台湾出兵や10年の西南戦争で、巨利を得た「政商」である。
明治11年の夏の終わり、その岩崎弥太郎が栄一を隅田川の舟遊びに招待した。“清談”をしようというのである。舟遊びは当時、最高の接待の一つだったようだ。
大川端(大川とは隅田川のこと。埼玉県人から見れば荒川の下流にしか過ぎない)の料亭で芸者総上げの宴会、屋形船遊びの後、料亭に戻ると、弥太郎が、「二人で手を握り、富を独占しよう」と持ちかけた。いかにも弥太郎らしい発想である。
栄一は激論の挙句、きっぱりと断った。栄一は一歩も譲らず、中座した。弥太郎は当然、立腹し、その後長く反目が続いた。
。そもそも二人は考え方が違うのである。「論語と算盤」の著書があるとおり、道徳と経済は両立しなければならないという「道徳経済合一論」が、栄一が終生貫いた立場だった。
栄一は、よく議論した。直接議論ができない場合は「建白書」を提出した。栄一が野に下ったのは、富を独占せず、株式会社を作り、国民全体の利益にするのが目的だった。
栄一の論争の根底にあるのは、徹底的に学んだ漢学、特に「論語」の素養がある。二人を比較すると、その違いは幼児からの教育と、ヨーロッパを見た体験である。
つけ加えておきたいのは、アメリカや日本のマスコミ好みの「テロリスト」という言葉である。栄一は若い頃にはれっきとした「テロリスト」だった。それが機会が与えられることによって、見事に変身したのである。
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