“秩父コミューン”の寿命は短かった。政府が警察、憲兵、鎮台兵(東京や高崎の基地駐屯兵)を動員して鎮圧に乗り出したからである。
困民党の本部が秩父郡役所に置かれた翌日の3日から、困民党軍は政府軍と衝突した。
困民党軍は鉄砲隊、抜刀隊、竹槍隊から成る軍隊編成をとっていた。とはいえ、一番多いのは竹槍隊、ついで抜刀隊、鉄砲隊は抜刀隊の半分くらいで一番少なかった。鉄砲と言っても、合わせて150から200丁程度で、ほとんどが猟銃(火縄銃)だった。
猟銃だから鹿や猪には有効でも、発射速度は2分に1発、実効射程距離は50m前後だった。おまけに夜戦では、火縄の火は遠くからでもはっきり見えるので、人の姿は見えなくても格好の標的になった。
木砲一門もあったとされるが、この地に江戸時代以前から伝わる、音だけ大きい花火だったようだ。
対する政府軍は新たに開発された村田銃を持っていた。1880(明治13)年に軍が採用した最初の国産小銃である。フランスの銃に習って開発された、金属薬莢式の弾丸を後ろから装填する後装式。引き金の上の突起を真上に回して、ロックを解除、後ろに引いて弾丸を入れて、発射する。
村田銃は欧米の小銃に比肩する性能を持っていた。先込めの火縄銃を「1発撃つうちに軍隊は20発撃ってきた」という。火力の差は歴然としていた。
早くも4日午後には総理の田代栄助、副総理の加藤織平、会計長の井上伝蔵らが、皆野に移った本陣を離れて姿を消し、本陣は解体した。困民党の組織的な動きはこの日で終わった。
その後は、残党が参謀長菊池貫平(長野県北相木村出身)の指揮で、群馬県を経て十石峠を越えて長野県南佐久郡に侵入した。
9日、八ヶ岳山麓の東馬流(ひがしまながし 現小海町)で、高崎から派遣された鎮台兵や警察隊に追撃され、交戦・敗走、秩父事件はこの日で9日間の幕を閉じた。困民党は「八ヶ岳山麓の樹林の中へとけこんでいった」のである。
困民党と政府側との主な戦いは三か所で展開された。困民党は、警官隊との清泉寺(秩父郡阿熊村)の戦いでは2人、秩父事件で最大の激戦となった金谷戦争(児玉郡金谷村)では即死6,仮病院収容後死亡6(4とも)、東馬流の戦いでは13人が戦死した。政府側の戦死は合わせて警察官4人だった。
困民党はこのほか、自警団の村民との小競り合いなどで4人が死亡した。東馬流の戦いでは、たまたま困民党の白鉢巻と間違えられて白手ぬぐいの妊婦が射殺された。困民党と誤認され、2人の村民が憲兵隊に殺害される事件もあった。(「秩父事件」=秩父事件研究顕彰協議会編、新日本出版社)
この事件に参加した農民は、1万人を超したとされる。この中には、駆り出されただけで帰ってしまったり、警察の取り調べを受けただけで釈放された者も多い。
参加者、裁判結果の数は史料によってまちまちだ。2007年に「ちちぶ学検定公式テキスト」として、さきたま出版会から出版された「やさしいみんなの秩父学」(秩父市・秩父商工会議所編 監修・千嶋壽=秩父地区文化財保護協会長)によると、参加者数は4576人。
内訳は、埼玉3618(逮捕380、自首3238)、群馬281、長野県677人。
裁判結果は、埼玉県で3386。内訳は重罪296(死刑11、懲役289)、軽罪448、罰金・科料2642、検事・検察官釈放232人。
死刑は総理の田代栄助、副総理の加藤織平、会計長の井上伝蔵、参謀長の菊池貫平、大隊長の新井周三郎、小隊長の高岸善吉、伝令使の坂本宗作ら7人(井上伝蔵と菊池貫平は逃亡中で欠席裁判)と警官二人の殺害者4人の11人。
高利貸し打ち壊し・焼却は25軒だった。
参加者について、「秩父事件史料集成」や新編埼玉県史によると、裁判文書に残っている公判廷に出た者、検事の手で放免された者は、秩父郡で3339(うち無罪13,放免130)。秩父郡以外の埼玉県の参加者は42,群馬県で235、長野県570人で総計4186人とある。
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