新古今和歌集の部屋

芭蕉書簡 元禄三年七八月頃

去来宛 元禄三年七八月頃

發端行脚の事を云て、幻住庵のうとき由難至極。…略…
長明方丈の記を讀に、方丈の事いはむとて、新都の躁動火事地震の乱、皆是栖の上をいはむとなり。愚非聊のがるゝ處有といへども、幻住庵にかゝる所はき/\となくて、御一覽の所尤と同ズ。
…略…
去来雅丈           ばせを

コメント一覧

jikan314
Re:Re:Reこんにちは!
sakura様

「幻住庵記」今度図書館で拝見致します。感謝。

「天智天皇陵は、天武天皇陵の同緯度問題」は、技術的に否定する先生達が多いですよね。
ただ、明日香の石舞台は、技術的にどうやって運んだかは不明ですが、そこに歴然と有ります。
「300騎1の軍勢」は、安元の比叡山大衆の強訴でも北面を守った頼政は300騎でしたので、おおよそ集められる軍勢だったのかも?玉葉の情報収集能力は高く、多くの家司情報網を持って居たので、正確でしょう。渡辺党や亀岡の軍勢を集める為には、平家の軍勢と交戦しないと三井寺まで行けませんね。

頼政は、調べれば調べる程、地元の愛着を感じさせます。大河ドラマでは、源氏でありながら、平家に靡いた脇役でしか有りませんが。
sakura
Re:Reこんにちは!
自閑さま
私は難しい文献は読めませんから、素人にもわかりやすく書かれた
資料ばかり探しだして読んでいます。

「たまたま心まめなる時は谷の清水を汲みて自ら炊く
持仏一間を隔てて、夜のもの納むべき処、いささかしつらへり」は、
石山の奥、岩間のうしろに山あり。国分山という。」で始まる
「幻住庵記」の中の一節です。

「天智天皇陵は、天武天皇陵の同緯度問題」は、万葉集の講座で知りました。
天智天皇陵は桜の季節に疎水べりを散策しながら訪ねたこともあります。

「300騎1000人の軍勢」は玉葉では、50騎だったように記憶しています。

50騎は少なすぎるので、頼政配下の軍勢をいったのかなとも思っています。
jikan314
Re:こんにちは!
sakura様
その部分は読んでおりませんでした。感謝。文献を頼りにblogを進めており、専門家が執筆していないとたどり着かないです。
山科は、四宮しか行った事が無く、今回初めて醍醐陵を見ました。天智天皇陵は、天武天皇陵の同緯度問題にも関心がありましたが未だ行ってません。
涼しくなったら山科を彷徨します。
頼政が小関を通る可能性を考えましたが、300騎1000人の軍勢を短時間で動かすとすれば、この道では無理。
平家が軍勢を集める時間を考え、逢坂の関を越えたと思い始めました。
移動時間を考えて老僧を置いてきた。それでも時間が掛かった為に、以仁王を奈良へ送る為に、宇治橋を壊し、時間稼ぎで戰を仕掛けた。
拙句
もののふの宇治の河岸扇置く
醍醐天皇陵は、古道町と有り、奈良街道古道ですね。
sakura
こんにちは!
自閑さま
「幻住庵記」を書くにあたって芭蕉は去来意見を聞く書簡を送り、
幻住庵が鴨長明の方丈の庵に似ているといっているのですね。
「たまたま心まめなる時は谷の清水を汲みて自ら炊く
持仏一間を隔てて、夜のもの納むべき処、いささかしつらへり」
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「方丈記」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事