自讃歌
私撰集。成立、編者とも未詳。鎌倉時代末期成立か。後鳥羽院が、定家など当時の代表的歌人十六人に、自作の中でよいとみずから認めている歌を各々十首ずつ奉らせ、院自身の歌を合わせて編んだとの序文のある、計百七十首から成る歌集。その大部分は「新古今集」の歌。成立事情は信じられず、明らかに偽書であるが、宗祇らの注釈もある。
石川常彦「『自讃歌』考」(「文学」昭和五四年七月)によれば、成立を建暦元年(1211年)九月とするが、確定は困難。
九条良経、 慈円、
藤原俊成、 俊成卿女、
宮内卿、 藤原定家、
藤原有家、 藤原家隆、
藤原雅経、 源具親、
寂蓮法師、 藤原秀能、
西行法師
下の句豆かるた
手書
4.3cm×3.3cm
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序
あめのしたのどかにて浪のこゑしづかなりし御代は、いまはももとせあまりにやなりぬらん。よろづのことのをすて給はず、はかなきふしまでもきこしめしけるなかにも、やまと歌は、かのなしつぼの心ざしをこひ、かきのもとのすがたをおぼしめしける御めぐみのすゑにや。世にさぶらふ人人は、かしこきもいやしきも、ふじのたかねのいきほひをまなびて、わたつ海のふかき心をのみしたひければ、このみちなかごろよりも猶いにしへざまにおよぶことに侍りけり。
しかあるに人の心のせきしなければにや。おのおのみづからの歌とのみおもひて、そのさましらぬもおほかりけるを、かしこきおろかなるをしらしめ後の世にもうらみあらじとて、みづからよめる歌のなかにもよろしきを十首たてまつらしめ給ひて、心心を見給ひけるに、まことに山人のたき木をおへるさまをのがれたれども、ゑにかけるすがたのまのめならず露をあざむく心のみおほかりけるに、御みづからのおほん歌をもこのついでに見せしらしめ給ひけるぞ、御めぐみの深さもすゑの世のまもりとまで見えける。
そのなかに、さくらさく遠山どりのながめよりはじめて、都も今は夜ざむのことばにうつりきて、神路の山の月影までも人のさきにかなはしめ、神の心もなごむらんものをとうちながむるをりをりは袖の上かわくまぞなき、その外のわたくしざまには神代の月かげのいさぎよく、北の藤なみ春にあふ色いとめづらかなるに、をとこ山あふぐ嶺よりいづる月、袖に朽ちにし秋の霜、いづれもさまことになさけあるを、むかしおもふ草のいほり、しのの葉ぐさの露かかる姿、いひしらずたぐひおよびがたきに、朝日影にほへる花もなつかしく、岩がねの床にあらしをかたしくらんもげにしのびがたき心ちするに、さののわたりの雪のうち、日も夕ぐれのみねのあらしは、世にまぎれぬあはれさも道しる御代のかひありて、いかにあはれもふかかりけん。さても猶夕時雨ぬれてや鹿のながめのすゑもをかしきに、月のかつらに木枯のかぜいかならむとゆかしのみならず、たかまのさくらのにほひ、まきの葉に霧たちのぼる夕の色もあはれなるに、しほみちくらしなには江のおもかげまでもおもひのこさぬ心ちするを、ふじのけぶりの空にきえてなどきくをりは、まことに手にしたがへるさまなりけり。この外はいづれも時の花に心をうつしてふかき事とのみおもへれども、さざれ石のとにかくにさだめなき事のみおほかりける。
その中によろしきふしあるをとりいでさせ給ひて時代不同の歌合にぞ入れさせ給ひける。しかあれば、みづから撰びおもひけるにはあめつちはるかにたがひければにや。いと心ゆかずおもひける人の夢に、柿のもとのまうち君このあつめられたる歌をうちずんじていと心よく物したまふと見てよりぞや。うたがひはとけにけるとなん。まことに君も臣も身をあはせたりけるとは、むば玉の夢にぞおもひあはせたりける。そもそも和歌のうらなみたちしはじめを思ふにも、したてるひめはあなたまはやみとながめ、すさのをのみことはいづもやへがきときこえしよりして、世中にいきとしいける物のまことなる心ざしをことのはにいひあらはせば、人あつく世すなほにしてみだりがはしからぬ道ありけり。このほかに雲きりへだてたるいにしへざまの事は、ひとごとにてのうちのかがみのごとくにのみなりぬれば、ちかき世より松の花、まれにあひ見るめづらしさも心にしみぬるあまりに、そのすがたをうつして、ふかき窓のうちのもてあそびとして、よそのあざけりをわすれ侍りぬるにこそ。
天の下、長閑にて浪の声静かなりし御代は、今は百年余りにやなりぬらん。万づの事のを捨て給はず、儚き節までも聞こし召しける中にも、大和歌は、彼の梨壺の志を恋ひ、柿本の姿をおぼし召しける御恵みの末にや。世に侍ふ人々は、畏こきも卑しきも、富士の高嶺のいきほひを学びて、わたつ海の深き心をのみ慕ひければ、この道、中頃よりも猶古へ樣に及ぶ事に侍りけり。
しかあるに、人の心のせきしなければにや。各々自らの歌とのみ思ひて、その樣知らぬも多かりけるを、賢き愚かなるを知らしめ、後の世にも恨みあらじとて、自から詠める歌の中にもよろしきを十首奉らしめ給ひて、心々を見給ひけるに、誠に山人の薪をおへる樣を逃れたれども、絵に描ける姿の、まのめならず露を欺く心のみ多かりけるに、御自らの御歌をもこの次いでに見せ知らしめ給ひけるぞ、御恵みの深さも末の世の守りとまで見えける。
そのなかに、桜咲く遠山鳥の眺めより始めて、都も今は夜寒の詞に移り来て、神路の山の月影までも人のさきにかなはしめ、神の心も和むらんものをと打ちながむる折々は、袖の上乾く間ぞ無き。その外の私樣には、神代の月影の潔く、北の藤浪春に逢ふ色、いと珍かなるに、男山仰ぐ嶺より出づる月、袖に朽ちにし秋の霜、何も樣異に情け有るを、昔思ふ草の庵、しのの葉草の露掛かる姿、言ひ知らず類ひ及び難きに、朝日影匂へる花も懐かしく、岩がねの床に嵐をかた敷くらんも現に忍び難き心地するに、佐野の辺りの雪のうち、日も夕暮の峰の嵐は、世に紛れぬあはれさも道知る御代の甲斐有りて、いかにあはれも深かりけん。さても猶、夕時雨ぬれてや鹿のながめの末もをかしきに、月の桂に木枯の風いかならむとゆかしのみならず、高間の桜の匂ひ、真木の葉に霧立ち昇る夕の色もあはれなるに、潮満ちくらし難波江の面影までも思ひ残さぬ心地するを、富士の煙の空に消えてなど聞く折は、誠に手に従へる樣なりけり。この外は、いづれも時の花に心を移して深き事とのみ思へれども、さざれ石の兎に角に定め無き事のみ多かりける。
その中によろしき節あるを取り出でさせ給ひて、時代不同の歌合にぞ入れさせ給ひける。しかあれば、自ら撰び思ひけるには、天地遥かに違ひければにや。いと心ゆかず思ひける人の夢に、柿本のまうち君、この集められたる歌を打ちずんじていと心よく物したまふと見てよりぞや。疑ひは解けにけるとなん。誠に君も臣も身をあはせたりけるとは、むば玉の夢にぞ思ひ合せたりける。そもそも和歌の浦波立ちし始めを思ふにも、下照姫は、あな玉は闇とながめ、素盞嗚の命は、出雲八重垣と聞こえしよりして、世の中に生とし生ける物の、真なる志を言の葉に言ひ表はせば、人厚く世素直にして、みだりがはしからぬ道ありけり。この外に雲霧隔てたるいにしへ樣の事は、人事にてのうちの鏡の如くにのみなりぬれば、近き世より松の花、稀にあひ見る珍しさも心に沁みぬる余りに、その姿を写して、深き窓のうちの弄びとして、他所の嘲を忘れ侍りぬるにこそ。
令和3年8月29日 弐 165枚