新古今和歌集の部屋

山槐記 元暦大地震 七月九日

元暦大地震

山槐記
元暦二年(1185年)
○七月 小
九日庚丑
午剋地震。五十年已來未覺悟。家中上下男女皆衆居竹原下。自去此居住中山蝸舎也。
法勝寺九重塔頽落重々。垂木以上皆落地。毎層柱扉連子被相殘。露盤八殘其上折落。阿彌陀堂并金堂之東西廻廊、鐘樓、【常行堂】之廻廊、南大門西門三字(宇の誤字?)、北門一宇、皆顛例(倒の誤字?)、無一宇全。門築垣皆壊。南北面少々相殘云々。遣人令見之處、申旨如此。聞得長壽院(千軆正觀音鳥羽院御願)顛倒云々。獻使者於入道大相國(花山院)、尋申御所安否。東中門廊頽危、東子午透廊北車寄顛倒、四面簀垣大略破壊。使者順路見之申云、築垣等皆壊。法成寺内廻廊皆顛倒。東塔(西塔未造畢。但有組物許不傾)北傾、東面築垣皆壊。諸門無事。南門築垣近日皆修理。十本許壊。
又自京來人曰、五條攝政亭(當時坐近衞亭)寝殿棟平伏、西子午透廊顛倒、四面築垣皆壊。凡京中築垣皆壊、舎屋多顛倒。
又曰、主上先駕腰輿御庭、次駕鳳輦御中島、次依攝政被申云呼帳、於庭中供大床子、終日御坐。于時皇居閑院也。
又東隣入道殿(松殿御坐)奉尋之處、御車宿顛倒、御車打厭、北對贄殿傾危、上下又出庭云々。
凡未曾有震動也。終日終夜猶有小動。上下或乗車、或構屋形在庭中。法皇構竹屋御坐庭中云々。
目眩頭痛、心神違亂、肖乗船樣。天下破滅已在此時歟。
近年兵革、上下無安。今又有此譴、濁世惡業、衆生苦患、無休之時。可悲々々。此家舎屋無殊損亡、壁上塗倍落、築兩三本壊許也。
北隣少將公衡朝臣送使、驚示震動事、後聞、宇治橋皆以顛倒、于時渡之人十餘人乗橋入水、其中一人溺死云々。
又聞、近江湖水流北、水域自岸或四五段、或三四段、于後日如元滿岸云々。同國田三丁地裂爲淵云々。
又、自美濃伯耆等國來之輩曰、非殊之大動。
又後日聞、京中築垣東西殊壊、南北面頗殘云々。

承平八年(938年)四月十五日、亥時地震。宮城諸司京中舎屋多顛倒。十八日自早旦至于黄昏十一度地震、有響。五月廿二日改元。八月三日大地震。六日亥時兩度大地震。粧御座於常寧殿前地。天皇乗輿遷御、諸卿以下參入祗候。
天延四年(976年)六月十八日大地震。立幄於南庭御在所。天皇駕御輿遷
。中宮聽前又構幄、爲女房候所、諸卿以下參陣祗候。

大動大略如此。


山槐記(さんかいき)は、平安末期から鎌倉初期の公卿で内大臣を勤めた中山家の祖、中山忠親の仁平元年(1151年)から建久五年(1194年)までの40年間あまり日記で、書名の「山槐」とは中山と、大臣家唐名(槐門)を合わせたものに由来する。

史料
増補史料大成 第二十八巻 山塊記三 増補史料大成刊行会 臨川書店

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