新古今和歌集の部屋

長明発心集 第二 相真没の後袈裟を返す事

 

 

 

相真没後返袈裟事

津國の渡邊と云所にながらの別所と云寺あり。其に

近比暹俊と云僧有けり。若くては山に学問なむど

してありけるが自らこゝに居つきたりける也。此僧争で

か傳へもちたりけん、昔文殊の法説給ひける時の御

袈裟とて蓮の糸にてをれる袈裟也。もとは山の禅瑜僧

都の傳たりけるを、池上の皇慶阿闍梨の時乙護法

して無熱池にてあらはせ給ひける由傳へたる袈裟也。

此暹俊年八十計まで殊なる弟子なし。其あたり近

く柳津の別所と云處に相真と云僧あり。六十に

あまれり。此袈裟の傳へやむごとなき事を聞て、是を

譲得と思ひて弟子になりぬ選俊が云樣袈裟を

傳へむがために弟子になり給へる志し浅からず。然らば三

衣の内先五怙を當時譲り奉らむ。残をば死後に

傳へ取給へと云ふ。相真悦て是を得てかへりぬ。其後

思ひの外に相真先立て病をうけて死する時、此袈裟

をかけて弟子どもに云樣我死には此袈裟を必ず相具

てうづめと云をきて終にければ弟子ども云如くにして日比

すぎにけり。其後暹俊かの相真が出し中に云をくる

袈裟は皆亡者に譲申候べき由ちぎり聞へしかど、本意

ならず先立れぬれば具にはなれて有べきに非ず。返し給はむと云。

亡者の云をきし樣なむど有のまゝに云けれど、猶信ぜず重

て尋たりければ、此事をしなしとて相真が弟子ども誓文

をなむ書てぞ送たりける。其上にはとかく云べきならねばなげき

ながら年月を送る程に、中一年をへて長寛二年の秋暹

俊夢に見るやう、亡者相真來て云く我此袈裟をかけた

りし功徳によりて都卒内院に生たり。但し袈裟をば我申

たりしまゝに具して埋たりしかど、不具に成事を深く

歎き給へば返し奉る。早く本の箱をあけて見給べし。

と云。夢覚て此三衣の箱をあけて見れば、もとの如くたゝ

みて箱の中にあり。實に不思議の事なれば涙を流つゝ

此を恭敬す。其後かの暹俊をはる時又此袈裟をかけて

往生す。其弟子に弁永と云僧是を傳へて又往生する

事先のごとし。かの弁永が往生せし事八十年の内の

事なれば皆人聞傳へける事也。昔物語なむどにはいみじき

事多かれど、其名残年にぞへてほろびうす。まれ/\に残たるも世

くだり人をとろへて不思議をあらはす事ありがたし。此

は濁れる世の末にたぐひなき程の事也。されば結

縁のため、わざとまうでつゝ、をがむ人をゝく侍べるべし。

 

 

※津國の渡邊 大阪市の大阪城辺り。

※ながらの別所 渡辺の異名の長柄で、四天王寺の別所。

※暹俊 伝不詳。

※禅瑜僧都 延暦寺の学匠で権僧都。永延二年(988年)没。

※池上の皇慶阿闍梨 丹波の池上村、船井郡の旧八木町(今の南丹市)の大日寺にいた台蜜の学匠で、谷流の祖。橘氏で橘広相の孫。延暦寺東塔で永承四年(1049年)没。谷阿闍梨、池上阿闍梨などと称される。

※乙護法 護法童子の乙護王。皇慶によれば、性空の元より来たと言う。

※無熱池 仏典による大雪山の北、香酔山の南にあるとされる大池。竜王が住むとされる。

※柳津 不明だが、大日本地名辞典によれば、「今中谷村六瀬村(兵庫県川辺郡猪名川町)」とあるが、別所があったか不明。

※相真 伝不詳。文中に、長寛二年の前の中一年没とあるので、応保二年(1162年)没。

※長寛二年 1164年

※三衣の内先づ五怙。三種類の袈裟の内、五条の布を縫い合わせた袈裟。怙は條の誤字。

※都卒内院 兜率(都卒)天にある内院で、弥勒菩薩がここで説法を行っているとされる。

※弁永 伝不詳。弁承とも。発心集執筆(建保四年以前)の10年前没となる。

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