舎衛國老翁不顯宿善事
昔釈迦如来舎衛國にをはしましゝ時、阿難尊者と申
す御弟子を具し給ひて城の邊を出給にあやしけ
なりける翁女と二人具て道にて逢たてまつる。ともに頭の
かみ白く面のしはたゝみて骨と皮とくろみをとろへた
り。身にはきたなげなる物をわづかに結び集めつゝきたれ
ど、はだへもかくれず。聊あゆみにては大にあへたきひまなく息む。佛
此を御覧じて阿難これは見るや。此翁大なる宿善あり。
年はじめて盛なりし時つとめ行ひて此世をらましかば、舎
衛國の第一の長者とは成なまし。出離の為につとめましかば、
三明六通の羅漢とは成なまし。次さかりなりし時つとめましか
ば、第二の長者となり。得脱を思はゞ阿那含の聖とは成
なまし。次さかりなりし時つとめましかば、第三の長者となり、
證果を志ば斯陀含の聖とはなりなまし。愚にものうくして
其盛をすぐして宿善を持ながら願ざりし故に、今つたなき
身として、受がたき人界の生を空すごしつる也と仰
られき。我たま/\法華經に値たてまつり、弥陀佛の悲願を
聞ながら、つとめ行ずして徒にあたら月日をすごす。露もたが
はず乞者のをきな也。
※舎衛国 古代インドのコーサラの国。シュラーヴァスティーの音写。祇園精舎があった。
※阿難尊者 阿難陀。アーナンダの音写。釈迦の側に仕えて、身の回りの世話をしたので、多くの説法を聞き、多聞第一と言われた。仏典の如是我聞は、阿難陀の詞。
※宿善 前世に積んだ善根。
※三明六通 並外れた能力。宿命通、天眼通、漏尽通の三明と神境通、天耳通、他心通の合せた六通をいう。