観音堂再建記念碑
武蔵野…桃源郷…新久…生業盛…其龍圓寺の
観世音は由緒詳ならねど古老の口碑には…行基菩薩の作りし堂宇は土御門
帝の建仁元年六月寂蓮法師が巡行の節建立したるものなりと○爾来星移り物換
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大正四年五月
寂蓮は、建久の比、東国に修行に出ていた。
寂蓮法師 千人万首には「建久元年(1190)には出雲大社に参詣、同じ頃東国にも旅した。」とある。
寂蓮法師集 詞書(新編国歌大観番号)
三輪の社に詣でて…74
いはれの池を過ぎけるに…75
磯の上寺にまうでて…76
みやこうつりの比…82
高野にしばしこもりたりける比…84
出雲の大社より下向して侍りける比…123
鳥羽殿御遊 建仁元年四月…149
すゑの秋あづまの道にて手越はつくらと云ふ所を…154
越えてこしうつの山ぢにはふつたもけふやしぐれに色は付くらん
あづまのかたに侍りける比十月ばかり
閑居虫…156
よそにおもふ人めのみかは虫のねもかれのの末の庵りなりけり
海辺冬月…157
きよみがたかへりし秋はとどまらで月は関ぢに有明の空
えしまを見にまかりて…158
名にたかき江島のいそを今日みれば跡もとどめず浪ぞかくなる
旅宿虫…159
きりぎりすまぢかき声を故郷のかべに聞きなすね覚なりせば
定家少将になりたりけるに…173
寂蓮法師十月ばかりにあづまのかたへまかりける
に、はこねと云ふ山をなむこえけるところのあり
さま、あやしくよのつねにはかはれりけり。はる
かに嶺にのぼりてはうみをわたり、たにににくだ
りては雲をふむ。さほどにかぜは木のはをまくり
あげて、時雨のふもとよりのぼりければ、よめる…316
旅の空雲ふむみねを分けゆけばしぐれは袖の下よりぞする
出雲のさつきの宮にまゐりて…320
寂蓮法師集によると、東国に行く途中、静岡市手越、箱根、江ノ島に寄り、歌を作っている。
149番の建仁元年四月の後に154、156~159番の東国の歌が入っているが、その後に定家の少将補任の歌があり、同じ歌がいくつも出るなど、錯綜し、二つの家集を書写したものと思われる。
時期は、「末の秋」、「十月ばかりに」から九月から十月に駿河、箱根、江ノ島を旅している。詞書に「寂蓮法師」とあるが、家集には相応しくなく、他の撰集を書き入れたものと思われる。
建仁元年の歌年表は、
建仁元年(1201年)
2月16~18日 老若五十首歌合 ◎
3月16日 源通親家影供歌合
3月29日 新宮撰歌合 ◎
3月 後鳥羽院 伊勢神宮内宮、外宮百首
7月27日 和歌所設置
8月3日 和歌所影供歌合
8月15日 八月十五夜撰歌合 当座歌合 ◎
8月25日 北面歌合
11月3日 新古今和歌集撰進下命 ◎
冬 仙洞句題五十首 ◎
12月28日 石清水社歌合
12月 藤原公継伊勢勅使
となっており、寂蓮はその歌合に出詠等(◎印)しており、そんなに長い期間京都を離れていない。
龍円寺の口伝による建仁元年六月とすれば、その間動向は不明であり、可能性はあるが、秋冬歌と矛盾はある。
もっとも何度も東国下向があったとすれば筋は通る。
龍円寺
埼玉県入間市新久
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