新古今和歌集の部屋

徒然草 正徹本奥書

正徹書写
徒然草奥書

兼好法師作也ト云云

此ノ草子一見之次、不ルノ堪ヘ感ニ余リ去ヌル
永享元年冬十二月中旬ノ比、書写シ
畢ンヌ。則チ両三本之取リ合セ校シテ以テ直シ付ケ畢。
雖モ然リト尚以テ非ル無キニ不審也。初書写之
本或ル仁依リ所望ニ与ヘ進ラセ重ネテ書写スル所也。
後日以テ能書ヲ誂フル清書ヲ者也。

永享三年卯月十二日巧終ヘ畢シス

        正徹 花押



永享元年(1429年)十二月
永享三年(1431年)四月(新体系)

正徹
永徳元年(1381年) - 長禄三年(1459年)道号(字)は清巌(岩)で、法諱は正徹、庵号は招(松)月庵。清巌正徹。俗名は正清。
和歌を冷泉為尹と今川了俊に学ぶ。応永二十一年(1414年)出家、京都東福寺の書記であったことから徹書記とも呼ばれた。6代将軍足利義教に忌避され謫居。義教の没後は歌壇に復帰し活躍。歌人のみならず古典学者としても評価をされており、8代将軍足利義政に『源氏物語』の講義を行っている事等が知られている。
歌風も際立って特色あり、二条派からは異端視されたが、藤原定家を尊崇し、時に前衛的、象徴的、夢幻的で、独自の幽玄の風体を開拓した。門下には心敬らがいる。家集に『草根集』、歌論に『正徹物語』がある。

冷泉持為
応永八年(1401年)-享徳三年(1454年)
冷泉為尹男。下冷泉家祖。
歌人として活躍し、門弟に一条兼良や木戸孝範、中原康富などがいる。また学問に秀で伯父為邦より多数の蔵書を譲られた。
後小松天皇や将軍・足利義持の寵愛を受けたが、次に将軍となった足利義教には忌避され、後小松院崩御後の永享六年(1434年)に出仕を止められた。
正徹と交際があった。

コメント一覧

kunorikunori
ありがとうございます。
自閑様

暑い中、足を運んでいただき、ありがとうございました。

なるほど、清原頼業。弟に祐安、妹に中原師業室がおりました。

また、祐安のところへ来てしまいました。

返歌
風そよぐ雲の流れに秋を見て

jikan314
Re:前回のコメント
まあ、しらべられること、調べられない事が在ります。
調べられる範囲内でしたら調べます。
気にする事は有りません。調べるのも、調べないのも私の自由。でも私としては、面白ので、機会が有ったら調べます。
拙句
緑あをく風より先に秋を見て
jikan314
Re:京都 九里荘
図書館の京都市地名辞典を調べました所、九里荘なる地名はありませんでした。
その代わり、車折神社は、清原氏(舟橋家)の菩提寺宝寿院の境内にあって、祭神は清原頼業(文治五年没)とのこと。
亀山天皇が、嵐山行幸の際、牛が糞をして動かなくなり、神社がある事を知り、車をおりたと言う故事があるそうです。
あまりお役に立てられるような情報ではありませんが。

京都は、33℃でやっと体温を下回る-3℃となりました。北海道の方には信じられないような気温です。(笑)
kunorikunori
前回のコメント
自閑様

記事に関係のないことを書き入れて失礼しております。
後で、コメント消しておいていただけますとありがたいです。
九里荘は、アパートの名前かもしれませんね。
天龍寺の近くに九里氏がいた文書が残っているものですから、ついつい・・・失礼いたしました~。kunorikunori
kunorikunori
京都 九里荘
自閑様

質問です。京都の車折神社から徒歩10分程度のところあたりに九里荘という地名があるらしいのですが、MAPではわかりませんでした。もしもご存知でしたら教えていただけますでしょうか?

また、吉田庄付近には何か情報はございましたでしょうか?押立神社に何かしら愛智新宮社と合祀したようなことがあったらしいのですが、詳しくはわかりませんでした。
何かございましたら、教えていただけますと嬉しいです。kunorikunori
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「その他」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事