新古今和歌集の部屋

平家物語巻第十二 六 六代の事7

はからひなればいかゞ有んずらんと思はれけれ共、廿日の命の
のひ給ふにぞ。母うへめのとの女ばう、すこし心をとりのべて、ひとへ
にはせのくはんをんの、御たすけなればにやと、たのもしうぞ思
はれける。かくてあかしくらさせ給ふ程に、廿日の過るは夢な
れや。ひじりもいまだみえ給はず。是はされば何としつる事
共ぞやと、中/\心くるしくて、今更もだへこがれ給ひけり。ほう
でうもひじりの廿日と申されし、やくそくの日数も過
ぬ。今はかまくら殿、御ゆるされなきにこそあんなれ。さのみさい
京して、年をくらすべきにあらず。今はくだらんとてひしめ
きけり。さい藤五さい藤六も、手をにぎりきもたましゐをけし
て思へ共、聖もいまだ見え給はず。使者をだにものぼせねば、お
もふばかりぞなかりける。是ら又大かく寺へ參り、ひじりもい
まだみえ給はず、北でうも此あかつき、下かう仕り候とて、涙
をはら/\とながしければ、母うへひじりのさしもたのも
しげに申て、くだりぬる後は、母うへめのとの女ばう、すこし心
もとりのべて、ひとへにくはんをんの、御たすけなりと、たのもし
う思はれつるに、此あかつきにも成しかば、母うへめのとの女房
の心のうち、さこそはたよりなかりけめ。母うへめのとの女房に
宣ひけるは、あはれおとなしやかならんずる者が、道にて
行あらんする所まで、此子をぐせよといへかし。もしこひうけ
てのぼらんに、きられたらんずる心うさをばいかゞせん。さてや
がてこしなひげなりつるかと、とひ給へば、此あかつきの程と
こそ見えさせまし/\候へ。其故は此程、御とのゐ仕り候ひ
つる、北でうの家の子らうどう共も、世になごりをしげに
て、あるひは念仏申す者も候。あるびはなみだをながす者も
候と申す。母うへさて此子が有樣は、何と有ぞとゝひ給へば、
人の見參らせ候時は、さらぬていにもてなひて、御じゆずを
くらせまし/\候。又人の見參らせ候はぬ時は、かたはらにむか
ばせ給ひて、御袖を御かほにをしあてゝ、なみだにむせり
せ給ひ候と申す。母うへさぞあるらめ、としこそおさなけ
 

平家物語巻第十二
  六 六代の事
計らひなれば如何有らんずらんと思はれけれども、廿日の命の延び給ふにぞ。母上、乳母の女房、少し心をとりのべて、偏に長谷の観音の、御助けなればにやと、頼もしうぞ思はれける。
かくて、明かし暮らさせ給ふ程に、廿日の過るは、夢なれや。聖も未だ見え給はず。これはされば何としつる事どもぞやと、中々心苦しくて、今更悶へ焦がれ給ひけり。
北条も
「聖の廿日と申されし、約束の日数も過ぬ。今は鎌倉殿、御許され無きにこそあんなれ。さのみ在京して、年を暮らすべきにあらず。今は下らん」とて、ひしめきけり。
斎藤五、斎藤六も、手を握り肝魂を消して思へども、聖も未だ見え給はず。使者をだにも、上せねば、思ふばかりぞ無かりける。これら又、大覚寺へ參り、
「聖も未だ見え給はず、北条もこの暁、下向仕り候」とて、涙をはらはらと流しければ、母上、聖のさしも頼もしげに申して、下りぬる後は、母上、乳母の女房、少し心戻りのべて、偏に観音の、御助けなりと、頼もしう思はれつるに、この暁にも成しかば、母上も乳母の女房の心の内、さこそは頼りなかりけめ。母上乳母の女房に宣ひけるは、
「あはれおとなしやかならんずる者が、道にて行きあらんずる所まで、この子を具せよと言へかし。もし請ひ受けて上らんに、切られたらんずる心憂さをば如何せん。さて、やがてこしなひげなりつるか」と、問ひ給へば、
「この暁の程とこそ見えさせましまし候へ。その故は、この程、御宿直仕り候ひつる、北条の家の子郎党どもも、世に名残惜しげにて、或ひは念仏申す者も候。或ひは涙を流す者も候」と申す。母上、
「さてこの子が有樣は、何と有ぞ」と問ひ給へば、
「人の見參らせ候時は、さらぬていにもてなひて、御数珠をくらせましましまし候。又人の見參らせ候はぬ時は、傍らにむかばせ給ひて、御袖を御顏に押し当てて、涙にむせりせ給ひ候」と申す。母上
「さぞ有るらめ、年こそ幼け

コメント一覧

jikan314
@1kamakura 六代の母は、建春門院新大納言で、祖母は後白河院京極局です。
後白河法皇は清盛に鳥羽殿に幽閉されていたが、丹後局とともに法皇に近侍することが許されたそうです。
定家の日記にも、姉の後白河法皇に牛車で付き従う姿を、書いています。
1kamakura
江戸の秋

六代の君は俊成卿のひ孫ですか
教えてくださりありがとうございます😊
jikan314
@1kamakura 聖は、文覚です。鎌倉殿の十三人で、猿之介さんが、好演していましたね😃
jikan314
@1kamakura 江戸の秋様
コメント有り難うございます😃
武士は、戦において、敵大将の首を取り、主君からの恩賞で領地を得る、正に一所懸命だったのですが、無抵抗の幼い六代の殺めるのは、時政には無益な殺生と思っていたのでしょう。もっとも、平家物語の作者の創作ですので、本当に涙したかは、不明です😉
しかし、頼朝にとって、頼朝、範頼、義経ら兄弟を平家が命を助けた為に、滅んだと思っていますので、六代は生かしてはおけなかったのは、事実です。
六代って、藤原俊成のひ孫に当たりますので、俊成としても気が病んだ事かもしれませんね。
又御來室戴ければ幸いです😉
1kamakura
江戸の秋

北条時政も、こんな幼い六代の君をむざむざ亡き者にしてしまうのは忍びなかったのですね。
聖とは文覚上人の事ですよね。
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