「比叡山延暦寺は、平安京の表鬼門に当たり、鬼門を護る鬼門封じの王朝鎮護の道場」と言う事がよく云われる。
しかし、平安京は、延暦十二年(793年)1月、和気清麻呂の建議が有り、桓武天皇は長岡京から遷都を宣言して造営が始まって、延暦十三年十月(794年11月)の桓武天皇入京した。
一方、延暦寺は、延暦七年(788年)、最澄が比叡山に「我が立つ杣」として草庵を作り、延暦寺を創建しており、平安京遷都前となる。
平安京の中心は、言うまでもなく大極殿で、今の千本丸太町通り小山町の付近(北緯35.019007,東経135.742182)であり、平安京の四角形の中心地を示す事は無い。。
一方、延暦寺(北緯35.070494,東経135.841038)は、大極殿から方位角57.726°にあり、鬼門(艮(丑寅))と云うより寅の方角になる。
又、鬼門には裏鬼門(坤(未申))と云うものがあり、これを封じていると云われる寺院は無い。一方だけ封じると云うのは、陰陽のバランスを重視する陰陽道に於いて欠く事となる。猶、坤の方角には、大原野神社が有るが、この神社の創建は、延暦三年は、長岡京遷都と同時であり、平安京との位置関係は無い。
延暦寺が創建時は、長岡京時代となるが、長岡京大極殿(向日市鶏冠井町北緯34.943217,東経135.703249)からは、方位角41.65°となり、艮の方角と言って良い。
角度を測るために直角三角形の距離を測定したのだが、長岡京大極殿のほぼ真西、延暦寺のほぼ真南には、醍醐寺開山堂(北緯34.944682,東経135.840826)が有る。つまり、醍醐寺の位置も長岡京大極殿との関係が有りそうであるが、醍醐寺の創建は貞観十六年(874年)であり、平安京遷都からずっと後になる。
しかし、比叡山も醍醐山も当然長岡京遷都前から有り、長岡京大極殿の位置決定に影響した可能性も有る。両山とも目印のランドマークとして十分な標高に有る。
平安京大極殿と比叡山には、もう一つの奇妙な関係に有る。夏至の太陽は、比叡山から上り、愛宕山に沈む。
太陽のエネルギーを両山が受け止め、大極殿に集める。そんな意図で、大極殿の位置を決定したのかも知れません。