明月記 正治元年七月
十八日天晴る。辰の時許り、大臣殿に參ず。巳の一点に御出。院に參ぜしめ給ふ。地下進退谷まると雖も、應ひて參入す。昇らしめ給ふの後、下侍《殿上の下》の縁の邊りに昇ると雖も、日影の暑氣堪へ難し。仍て私に退出し、大炊殿に參ず《資家少將同じく御供にあり。仍て事闕べからず。》。良々久しくして雑色奔り來たり、御退出の由を告ぐ《御所に參ぜしめ給ふと云々》。即ち車に乗り、大炊御門を西行、二條壬生に於て御車を待ち奉る。殷富門院に御供《仁和寺・安井殿》。小時にして御退出。暫く西日に及ぶ。車中燒くるが如し。大宮を南行し、八條院に參ぜしめ給ふ。又、程なく還りおはします。宮御所より退下す。暑氣堪へ難きに依るなり。
人云ふ、出羽守基定の細君代《院の御時に髪上げ》、嫉妬に依り、常光院に行き向ひ《齋院の御預り》、件の女を引き入れ、打ち調ず。件の女、女に從ひ、齋院に參ず。并びて、此の子細を訴へ申す。民部卿之を聞き、執行に仰せ、彼の院の預りを召し出して勘発、検非違使に及ぶと云々。刑罰、法に過ぐるか。共に以て不思議なり。下女と雖も、心操弾指すべし。女の髪、多く彼の御堂の廊に落ち散ると云々。
※民部卿 吉田経房 建久元年8月13日より民部卿