こゝろのにごりもうすらぐかとみし程
に、月日かさなり年越しかば、後は言の
葉にかけていひ出る人だになし。すべて
世の有にくき事、我身と栖との、はか
なくあだなる様、かくのごとし。いはんや所に
より、身の程にしたがひて、心をなやま
すこと、あげてかぞふべからす。もしをのづか
ら、身かなはずして権門のかたはらに居
る者は、ふかくよろこぶ事はあれども
大にたのしふにあたはず。歎ある時も
聲をあげて泣く事なし。進退やすか
心の濁りも薄らぐかとみし程に、月日重なり、年越しかば、
後は言の葉にかけて、いひ出る人だになし。
すべて世の有にくき事、我が身と栖との、はかなくあだな
る様、かくの如し。いはんや、所により、身の程に従ひて、
心を悩ますこと、あげてかぞふべからす。もし、をのづか
ら、身かなはずして、権門のかたはらに居る者は、深く喜
ぶ事はあれども、大にたのしふにあたはず。歎ある時も、
声をあげて泣く事なし。進退やすか
(参考)前田家本
心の濁りも薄□□かとみ□□月日重な□□□
のちには言の葉に掛けて言ひつる人だにな□
すべて世中□ありにくゝわが身と□□□はか□きあたな
るさ□□かくの□□□いはんや、と□ろ□□□□□したかひつゝ
□□なや□□事はあけて数ふべか□す。□しおのが
身□して権門の□□におるは、深くよろ□
□事あれども、大きもおほに楽しむ事あたはず。嘆き切なる時も
声を上げて泣くことなし。進退やすか
注:□はかすれにより見えなくなったもの。
(参考) 大福光寺本
心ノニコリモウスラクトミエシカト月日カサナリ年ヘニシ
ノチハ事ハニカケテイヒイツル人タニナシ。
スヘテ世中ノアリニクゝワカミトスミカトノハカナクアタナ
ルサマ又カクノコトシ。イハムヤ所ニヨリ身ノホトニシタカヒツゝ
心ヲナヤマス事ハアケテ不可計。若ヲノレカ
身カスナラスシテ権門ノカタハラニヲルモノハフカクヨロコ
フ事アレトモヲホキニタノシムニアタハス。ナケキセチナルトキモ
コヱ ヲアケテナクコトナシ。進退ヤスカ
いさゝか すこしのこと也。
ふかくよろこぶことはあれども
大にたのしふにあたはず
ふかくよろこぶとは、身の與(トモ)
位のたかきことをいへり。大
にたのしぶとは、たらざ
るともたのみ侍られ
はましてあまりあるをや
なげきある時もといへる
よりないがしろにせると
いふまでとあるものゝ、お
ごりまづ、えきものへつ
らひ、いきどほるありさ
まなり。
平家物語熱田本 巻第十一