新古今和歌集の部屋

翁草 洛陽(天明)大火1


翁草
○ 洛陽大火

抑々平安城の開けし事桓武天皇延暦十三年より天明八戊申年に至暦数九百九十五年其間に禁裏炎上数度。并保元・平治・寿永・元暦・承久・元弘・建武・明徳・応仁・永禄・元亀等洛の兵火にも京中焼亡の事なく就中応仁亂は前後十余年諸國の武士京師に屯(タムロ)して花洛の荒廃此時なれ共兵火の爲に京洛皆焦土と成し事を不聞。其證には洛内の老樹亂を避て存在(ソンザイ)せるもの多し。而して御当家御治世已後二百年の間に百有余年以前下京ダイスウ焼とやらん程の火事有しと聞傳ふれ共年久敷事故当時是を知る人なし。其後三月二十日焼是をだに慥(タシカ)に覺えたる人なし。
近くは八十一年已前宝永五子年三月八日の大火こそ古今稀有の事に申傳へたり。其時禁裏炎上町数四百二十九焼たり。又五十九年以前西陣焼は町数百二三十町なり。而るに今茲(コトシ)天明八戊申年正月晦日の火京洛十にして九ツの餘焼け畢りんぬ。
元禄年間於京都奉行所改之寫

とあれば其後百年を経る間に新地追々建続、當当時は凡京町二千有余と見えたり。然れば此度の大變町数凡二千町にも及べし。宝永の大火の五層倍成べし。誠に平安城開てより古今未曾有の變事後來又有べからず。

天明の大火
天明八年一月三十日鴨川の四条大橋南に有る団栗橋東詰付近の民家に放火があり、折からの東風に煽られ、鴨川を越えて広がり、二条城、御所と延焼し、京都1967町のうち焼失したのは1424町と京都の7割、洛内は8割消失した。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「方丈記」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事