前述の嵯峨天皇の行幸について、日本後記弘仁六年四月十二日の条には、
近江國滋賀韓崎に幸す。便ち崇福寺を過ぐ。大僧都永忠護命法師等衆僧を率い門外に迎え奉る。【皇帝輿を降り】堂に昇り佛を禮す。更らに梵釋寺を過ぐ。【輿を停めて】詩を賦す。
とある。
天皇の乗る輿は、鳳輦と言い、多くの人が担ぐ。延喜式 左右近衛府に因ると、「凡供奉行幸駕輿丁者、駕別二十二人(十二人撃御輿、自余執御輿綱)」と「轢には、前後に副轢(そえながえ)を加えて緋綱で結び、駕輿丁十二人で奉昇し、さらに軒先の四隅から垂らした緋綱を駕輿丁前三人・後二人ずつで奉持して、屋形が進行して左右に動揺しないための用意とした。」(国史大辞典 鳳輦の項)となっている。
嵯峨天皇の唐崎行幸も鳳輦に乗って行った事が分かり、担ぎ手の数を減らす事は無い。又、坂が急だからと言って天皇が降りて歩く事も無い。
この前提が、この通称「七曲」では、不可能である。
この為、「唐崎の歴史」( 松野孝一ほか著 2013年)の「志賀越え平安時代初期 嵯峨天皇「唐崎祓」想像記」では、行幸の行程を山中から田の谷峠から志賀峠を通って、「志賀峠は道険しく、牛車では無理で馬に乗り」としている。(11頁)
又、前述の足利義満の参詣を考えても、将軍ともなれば、数千騎、数万人の行軍となる。南朝の残党が潜んでいるかも知れない所に、馬1頭も楽には通れない道は選ばない。もっと安全な逢坂越を選ぶ。
これは、応仁の乱の細川軍も同じである。
そして、平安時代は、崇福寺に多くの女性が参詣した訳でも有るから、藪の中に山賊が潜むような道は選ばない。
最新の画像もっと見る
最近の「その他」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事