新古今和歌集の部屋

志賀越道の推定 吉田編

 崇福寺跡
古今和歌集
巻第二春歌下
しかの山こえに女のおほくあへりけるによみてつかはしける
             つらゆき
あつさゆみはるの山辺をこえくれは道もさりあへす花そちりける
巻第八離別歌
しかの山こえにていしゐのもとにてものいひける人のわかれけるをりによめる
             つらゆき
むすふてのしつくににこる山の井のあかても人にわかれぬるかな
志賀よりかへりけるをうなどもの、花山にいりて藤の花のもとにたちよりて、帰りけるに、よみておくりける
             僧正遍照
よそに見てかへらむ人に藤の花はひまつはれよ枝は折るとも
拾遺集 巻第三秋歌
西宮左大臣家の屏風に、しかの山こえに、つほさうそくしたる女とももみちなとある所に
したかふ
名をきけは昔なからの山なれとしくるる秋は色まさりけり
  志賀大仏
志賀越道は、京都から志賀の崇福寺、通称志賀寺に参詣する道として女人も多く通った峠として知られ、紀貫之も山の井戸で出会った女性に歌を贈っている。
又、以仁王が謀反発覚した時、女装して志賀越えし、三井寺にやっとの思いで駆け込んだ道でも有る。
しかし、遍照の歌に見られるように山科の花山を通過している例も見られている所である。
この志賀寺詣でを実際に峠越えを行い1100年前を検証してみる。

志賀越道は、古くは志賀山越、山中越や今道越とも呼ばれ、崇福寺に参拝する為の街道として、京都の荒神橋から鴨川を渡った所に始まり、京都には珍しく道が北東に斜めに走っている。
道標には、坂本、唐崎と有ることから、崇福寺が比叡山と三井寺の争いに巻き込まれて廃寺となった後も街道として利用されて来た事が判る。
しかし、途中京大キャンパス内で途切れているが、同敷地は旧尾張藩の屋敷跡とされ、既に江戸時代末期には同街道が余り利用されていなかったと推察される。
又斜めに通る道が残されたのは、先に畑の中を志賀越道が出来、大正後に洛内に合わせて近衛通等の縦横路が出来たとも考えられる。
    志賀越道の起点
   京都大学歩道道標
    西町道標
途中は、旧街道らしく、石仏が多く残され、西町の大日如来、子安観音、仕伏町の不動尊は、鎌倉時代と言われ、京都内を守るように、境として足利義政によって文明年間に奉遷されたと伝えられた北白川天神宮が祭られていた。
  吉田本町の大日如来

  子安観世音


参考
北白川百年の変遷 北白川小学校創立百周年記念委員会編
平安京創生館ジオラマによると法成寺から鴨川を渡って真っ直ぐ延びている。
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