1 西行寺その一(町尻二条北)
この大路は、二条大路であり、西洞院大路と東洞院大路の間に有る町尻、室町、烏丸小路から、町尻は今の新町通に当たる。
町尻を調べると、平安時代は、町尻小路、町小路、町口小路と呼ばれ、およそ元亀の頃から天正初年頃の1570年代前半頃に新町通名称が変わったと推計されている。
西行寺の東向には、大恩寺と言う寺が有り、これは今も町名として残っている。
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従って、西行寺はその西向と言う事になり、現在は次の写真の通りである。
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2 西行寺その2(三條坊門室町西)
同じ通に三条坊門内裏が有り、南東はす向の円福寺は今も町名が残っており、御池通と分かる。
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西行寺の向は「二条ドノ下亭」とあり二条殿の事。
従って、室町通の西側となる為、下の写真の場所となる。
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しかし、以前調べた西行水は円福寺町に有るため、その近隣に寺を建てたのかも知れない。
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3 西行寺その3(鳥羽)
鳥羽院の北面の武士であった西行も鳥羽離宮に出向く必要があったと考えられ、多くの近臣と同じく鳥羽にも屋敷を構えたであろう。
その時代の歌に、
伏見過ぎぬ岡の屋になほとゞまらじ日野までゆきて駒こころみむ
と鳥羽から日野までの乗馬の武勇を歌にしている。
鳥羽の西行寺跡は、石碑になっており、京都市の碑紹介の西行寺址で詳しく記載されている。
現在は、阪神高速道の西で、自動車の騒音が激しい。
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4 西行庵
出家後は、京都近郊の寺で修業している事が山家集の記載で分かっている。大原、嵯峨野、嵐山は鞍馬山等であるが、西行物語では、東山の雙林寺で亡くなった(実際は河内の弘川寺)と有る。
江戸時代に刊行された京羽二重、巻二には、
西行法師屋敷 嵯峨法輪寺の南に山田と伝へる所是也。今に泉水の跡あり。又二尊院惣門の入口藪の内をも古へ西行住し所となん。
と有る。
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二尊山西光寺
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二尊院西行庵
秋の末に法輪寺にこもりてよめる
我がものと秋の梢を思ふかな小倉の里に家居せしより
江戸時代の文化人にとって西行は、特別な存在として、興味深く調べ、伝承を探して、残して来たのであろう。