新古今和歌集の部屋

三つの西行寺探訪

【九里】を探して三千里様のblogの西行寺 二つ地図の中にあります。で紹介されておりました古地図の現在の場所を訪ねます。

1 西行寺その一(町尻二条北)
この大路は、二条大路であり、西洞院大路と東洞院大路の間に有る町尻、室町、烏丸小路から、町尻は今の新町通に当たる。
町尻を調べると、平安時代は、町尻小路、町小路、町口小路と呼ばれ、およそ元亀の頃から天正初年頃の1570年代前半頃に新町通名称が変わったと推計されている。
西行寺の東向には、大恩寺と言う寺が有り、これは今も町名として残っている。

従って、西行寺はその西向と言う事になり、現在は次の写真の通りである。


2 西行寺その2(三條坊門室町西)
同じ通に三条坊門内裏が有り、南東はす向の円福寺は今も町名が残っており、御池通と分かる。

西行寺の向は「二条ドノ下亭」とあり二条殿の事。
従って、室町通の西側となる為、下の写真の場所となる。

しかし、以前調べた西行水は円福寺町に有るため、その近隣に寺を建てたのかも知れない。


3 西行寺その3(鳥羽)
鳥羽院の北面の武士であった西行も鳥羽離宮に出向く必要があったと考えられ、多くの近臣と同じく鳥羽にも屋敷を構えたであろう。
その時代の歌に、
伏見過ぎぬ岡の屋になほとゞまらじ日野までゆきて駒こころみむ 
と鳥羽から日野までの乗馬の武勇を歌にしている。
鳥羽の西行寺跡は、石碑になっており、京都市の碑紹介の西行寺址で詳しく記載されている。
現在は、阪神高速道の西で、自動車の騒音が激しい。


4 西行庵
出家後は、京都近郊の寺で修業している事が山家集の記載で分かっている。大原、嵯峨野、嵐山は鞍馬山等であるが、西行物語では、東山の雙林寺で亡くなった(実際は河内の弘川寺)と有る。
江戸時代に刊行された京羽二重、巻二には、
西行法師屋敷 嵯峨法輪寺の南に山田と伝へる所是也。今に泉水の跡あり。又二尊院惣門の入口藪の内をも古へ西行住し所となん。
と有る。

二尊山西光寺


二尊院西行庵
秋の末に法輪寺にこもりてよめる
我がものと秋の梢を思ふかな小倉の里に家居せしより

江戸時代の文化人にとって西行は、特別な存在として、興味深く調べ、伝承を探して、残して来たのであろう。

コメント一覧

jikan314
Shanxi様
西行は、武士から若くして出家し、生きている間からレジェンドとして、伝説化しました。
西行の物語も再開したので、お読み頂ければ幸いです。
拙句
遊女とは泊める方有り初時雨
3948Thankyoufoureight
先生ありがとうございます。

以前から西行法師が、元来、僧だとおもっていたのですが、鳥羽への言及された箇所で武士だとあり初めて知りました。

途中途中院や寺を建てて、どこかしら江戸への途上、あちこちに城を建てた徳川家康と似ていますね。

西行法師も権力も有ったのですね。

武士も修行の旅に出たと言われますが、法師のような僧でも修行の旅に出られたのですか?

突飛な素人質問で恐れ入ります。

西行日記も興味深いです。

Shanxi(394).
jikan314
Re:札幌にも関係が…
北海道開拓史に前田家も参加していたんですね。
2町も名前が残されているのは、前田家が地元の開拓者に愛されていたと言う証拠ですね。
kunorikunori
札幌にも関係が…
http://www.city.sapporo.jp/teine/tthanashi/honbun/hanashi02.html
わりと近いところに「前田氏」関係。↑
驚きです。
kunorikunori
面白いです!
自閑さま

お手数をおかけしてしまいました。ありがとうございました。
加賀藩主前田利常、とても興味深いです。徳川家の言いなりにはならないぞ、と。
お上品なだけではなかった加賀が、どちらかというと前衛的な加賀が見えてきました。

jikan314
Re:天下の書府とは、素晴らしい響きですね。
金沢の諺に「鼻毛を伸ばす」と言うのがあります。これは、前田利常が徳川家光に謁見した時、わざと鼻毛を伸ばして行ったところ、家光の警戒を解くことが出来たと言うもの。
文化には金を惜しまず、東寺の百合文庫の保存や国宝級ばかりの尊経閣文庫など歴代の当主が守って来ました。
百万石と北前船の交易とあって、財力を武力に使わないと言うカモフラージュです。
兼六園は、水利土木技術を使った金沢城の防衛の為の重要な施設なんですよ。
kunorikunori
天下の書府とは、素晴らしい響きですね。
自閑さま

「天下の書府」

お金もあったのでしょうが、文化に対する心意気が感じられますね。

九里の系譜もきちんと残っておりますし。(加賀藩のみの系譜)

明治になって、いろいろなものが古臭く見えてしまったのでしょうか。散佚とは、残念です。

今も「○○オークション」で、古文書が出ております。貴重本もあるのでは。。。

全く知らなかったお名前、ありがとうございました。「藤岡作太郎氏」を調べてみました!

jikan314
Re:西行さん
今は公開しているのですね。
加賀藩は天下の書府としていたのですが、散佚が激しく、博士が嘆かれ死後地元図書館に寄贈されたとの事。
jikan314
Re:加賀藩の西行さんの本
これは石川県立図書館が保有する李花亭文庫(國文学者の藤岡作太郎博士寄贈)の異本山家集と呼ばれるもので、新編国歌大観にも掲載されております。
図書館ですので、現物を見る事が出来て、やはり手が震えました。写真を許可頂いて感激でした。
kunorikunori
kunorikunori
加賀藩の西行さんの本
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori
自閑さま

調べものをしていたら、出てきました。

http://www.library.pref.ishikawa.jp/toshokan/dglib/saigyo/saigyo003.htm
kunorikunori
では、今度お茶に行ってみますね。
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori
自閑さま

いつになるかはわかりませんが、訪ねてみようと思います。茶道はできませんが、愛嬌で乗り切ってきますね。
jikan314
勿論知っておりますが、HPは初めて見ました。
kunori様
西行は、左近衛府尉と言うとても身分の低い武士であり、平清盛の同僚でした。清盛が二度の戦で官位を上げ、建礼門院を入内させ、安徳天皇を産むまでは、武士とは番犬程度にしか貴族からは思われていませんでした。忠盛が昇殿を許された時には、様々な嫌がらせを受けております。
下級貴族の定家ですらあちこちに家を構えていますから、則清も多くの家があったに違い有りません。
花輪家は同じ東北の寺の檀家なのでいつか訪ねろと兄から言われてますが、まあ家を継ぐ長男でもないし、茶道もしないので、入った事は有りません。
秀衡の命により義経に従って富士川まで行ったと伝承が有る名門ですし。
kunorikunori
二つは、元は大きな一つだったのでは…?
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori
自閑さま

この二つに分かれている「西行寺」はもとは大きな一つであったということは、無いでしょうか?
また、西行庵 円悟山というのを見つけました。
ご存知かもしれませんが、素敵なページでしたので。
http://www.saigyo-an.com/rekisi/index.html

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