こちしていとかなし。有し世のこと思いづ
れど、すみけん所、たれといひし人とだに、
たしかにはか/"\しうもおぼえず。たゞ我は
かぎりとてみをなげし人ぞかし。いづくに
孟浮舟の
きにけるにかとせめて思いづれば、いとい
うかせたりし時の事を思ひ出る也。
みじとものを思なげきて、みな人のねた
りしに、つま戸をはなちて出たりしに、風
はげしう川波もあらう聞えしを、ひとり
物おそろしかりしかば、きしかた行さきもお
ぼえで、すのこのはしにあしをさしおろしな
がら、いくべきかたもまどはれて、かへりいらん
もなかぞらにて、こゝろづよくこの世にうせ
頭注
すみけん所てといひし人
とだに 宇治といふ事
も我身をも忘れたると
なり。本性になり給へる
當意猶忘然あるさま也。
なんと思たちしを、おこがましうて人に
みつけられんよりは、鬼もなにもくひて
うしなひてよといひつゝ、つく/"\とゐたり
おとこ
しを、いときよげなる男のよりきて、いざ給へ
をのがもとへといひて、いだくこゝちのせしを
細匂宮と思ひし也
宮ときこえし人のし給とおぼえしほどよ
り、心ちまどひにけるなめり。しらぬとこ
ろにすへをきて、このおとこはきえうせぬと
細入水の事也
みしを、つゐにかくほいのこともせずなり
ぬると思つゝいみじうなくと思し程に、そ
のゝちのことはたえていかにも/\おぼえずひ
とのいふをきけば、おほくの日比゙もへにけり。
頭注
いときよげなるおとこの
よりきて
孟霊の人に現じて見え
けるを匂と見し也花
いかにうきさまを、しらぬ人にあつかはれみえ
つらんと、はづかしう、つゐにかくていきかへり
ぬるかとおもふもくちおしければ、いみじう
おぼえてなか/\しづみ給へる日ごろはうつ
しごゝろもなきさまにて、ものいさゝかま
いることも有つるを、露ばかりのゆをだに
抄尼公の詞也
まいらず。いかなればかくたのもしげなくの
みはおはするぞ。うちはへぬるみなどし
たまへることはさめ給て、さはやかにみえ
抄尼君の思ひあつ
給へば、うれしう思きこゆるをと、なく/\た
かふさま也
ゆむおりなくそひゐてあつかひ聞え給。
ある人々もあたらしき御さまかたちを
頭注
露ばかりのゆをだに
孟前は湯もまいりたる
が心のつきてよりと也。
三浮舟の本心になりて
から食時をも用ひず
と也。
うちはへぬるみなくし給へ
る事はさめ給ひて
孟執氣さめたるなり。
三煩ひのかたはよく見ゆ
る也。
※執氣→熱氣の誤字
(心)地していと悲し。有りし世のこと思ひ出づれど、住みけん所、
誰と言ひし人とだに、確かにはかばかしうも覚えず。ただ我は限り
とて身を投げし人ぞかし。いづくに來にけるにかとせめて思ひ出づ
れば、いといみじと物を思ひ歎きて、皆人の寝たりしに、妻戸を放
ちて出でたりしに、風激しう川波も荒う聞えしを、一人物恐ろかり
しかば、來し方行く先も覚えで、簀の子の端に足をさし下ろしなが
ら、行くべき方も惑はれて、帰り入らんも中空にて、心強くこの世
に失せなんと思ひたちしを、烏滸がましうて人に見付けられんより
は、鬼も何も食ひて失ひてよと言ひつつ、つくづく居たりしを、い
と清げなる男の寄り來て、いざ給へ己が基へと言ひて、抱く心地の
せしを、宮と聞こえし人のし給ふと覚えし程より、心地惑ひにける
なンめり。知らぬ所に据へ置きて、この男は消え失せぬと見しを、
遂にかく本意の事もせずなりぬると思つつ、いみじう泣くと思し程
に、その後の事は絶えて、いかにもいかにも覚えず、人の言ふを聞
けば、多くの日比も経にけり。如何に憂き樣を、知らぬ人に扱はれ
見えつらんと、恥づかしう、遂にかくて生き返りぬるかと思ふも口
惜しければ、いみじう覚えて中々沈み給へる日比は、現し心も無き
樣にて、物聊か參る事も有つるを、露ばかりの湯をだに參らず。
「如何なれば、かく頼もしげ無くのみはおはするぞ。うちはへ、ぬ
るみなどし給へる事は、醒め給ひて、爽やかに見え給へば、嬉しう
思ひ聞こゆるを」と、泣く泣くたゆむ折無く添ひ居て、扱ひ聞こえ
給ふ。ある人々も、新しき御樣、姿(かたち)を
※うちはへ【打ち▽延へ】[副]《動詞「うちはう」の連用形から》ある動作が長く続くさま。引き続き。ずっと。
※ぬるみ (病気で)熱っぽくなる。源氏物語 若菜下「御身もぬるみて、御心地もいと悪しけれど」
略語
※奥入 源氏奥入 藤原伊行
※孟 孟律抄 九条禅閣植通
※河 河海抄 四辻左大臣善成
※細 細流抄 西三条右大臣公条
※花 花鳥余情 一条禅閣兼良
※哢 哢花抄 牡丹花肖柏
※和 和秘抄 一条禅閣兼良
※明 明星抄 西三条右大臣公条
※珉 珉江入楚の一説 西三条実澄の説
※師 師(簑形如庵)の説
※拾 源注拾遺