權中納言定家の話
奉られたるよし明月記にみづからしるされたり。さて元久のはじめ上皇の
勅によりて源通具藤原有家家隆雅経等とゝもに新古今集を
撰せらるゝにはじめは四季恋雑の部いづれも巻頭には古人の歌を
おかれたるを上皇勅諚ありて定家々隆の歌を巻頭に入かへさせたまふ事あり。承元のはじめ上皇の仰にて當時和歌に名ある
扠定家卿小倉山荘にて百首の和歌を撰ばれるを世にいひ傳へたる
説は東野州宗祇法師○○へるは新古今は通具有家定家々隆雅経
等に仰下りて撰びて奉りたれど此時定家卿は父俊成卿の喪にこも
りて其撰に預られざりければ此集なりて後花やかなり歌多く入て実
なる歌のすくなきを見て定家卿心ゆかずおもひて小倉の山荘に
隠居せられし後実なる歌どもを百首撰びて山荘の障子に色紙に
書ておされたるなりといへり。しかれども新古今集は建仁元年十二月に
院の勅を承り同じき三年四月に其書成て奉りたるに後鳥羽
院御撰みにて或は外の歌を加へ又削などしたまひければ年月を
経て元久二年四月に竟宴ありて承元々年六月初て彼集を世に
行はせたまへり。俊成卿は右の元久元年十一月に薨ぜられたれば彼集撰
定より後の事也。歌の花実の事も定家卿の心にさも思ひたまはじ。貞
永元年に一人して撰ばれたる新勅撰集にてその心足りぬべき事なるに
それより後文暦の比書れし百人一首を待ていふべき事にあらねば此
東野州の説はうけがたき事なり。又百人一首を文暦の比かゝれしといふ證は
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