新古今和歌集の部屋

山城名勝志巻第十七 外山方丈石


山城名勝志巻第十七

○外山方丈石 〔鴨長明菴室舊跡也。在日野村東山中當村民神社萱尾(カヤヲ)明神傍ヨリ東へ山中ニ入事六七町許。〕
方丈記云その家の有さまよのつねならず。廣さは僅に方丈高さは七尺がうち也。土居をくみうちおほひをふきてつぎめごとに懸金をかけたりし積所わづかに二兩なり。車の力をむくふ外はさらに他の用途いらず。今日野山の奧に跡を隠して南に假の日がくしをさし出して竹のすのこをしき其西にあか棚をつくり中には西の垣に添てあみだの畫像を安置し奉りて南に懸樋あり。林のき近ければ妻木を拾ふにともしからず。名を外山といふ。
于時建暦二年彌生晦日比桑門蓮胤外山の庵にて記之。云云。
心敬僧都私語云鴨長明が石床には二度御幸〔後鳥羽院〕ありしとなり。〔或云外山有石床俗名方丈石或云千人石高二丈許其上平座數十人〕
方丈石にて
雪玉            逍遙院
かろき身は車ひとつのぬしなれど
     ちひきの石に名は残りつゝ
日野といふ所にまかりける次に長明といひし人浮世をはなれて住居せしよし申傳へ侍るに大きなる石の上に松の年ふりて水の流いさぎよき心の底さこそとおしはかられ侍るむかしのことなど思ひ出て
衆妙集           玄旨法印
岩がねにながるゝ水も琴の音の
     昔おぼゆるしらべにはして

※後鳥羽院が日野を二度訪れたと言う記録はない。後嵯峨院が日野周辺を訪れた記録は増鏡に見える。後鳥羽院は建久の頃宇治を訪れた事が有るが、その時は長明は出家していない。
※三条西実隆(逍遙院)歌集の雪玉にはこの歌は無い(新編国歌大観)。千引の石とあっても根拠は無い。
※細川幽斎(玄旨)が訪れた方丈の庵跡には石の上に松が生えていたとあるが、現在の方丈石にはその痕跡は無い。
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