尊良親王(たかよししんのう ?~1337 生年1306~11の諸説あり)は、「太平記」等が「一宮」と記していることから、後醍醐天皇の長子と考えられる。
母は二条為世の女の為子で、同母弟として宗良親王(むねよししんのう 尊澄法親王 1311~85)がいる。幼少時より吉田定房に養育された。
元弘の乱では父と共に笠置山に赴いたが、敗れて父と共に幕府軍に捕らえられ、土佐国に流された。その後脱出して九州に移り、京都に帰還した。建武2年(1335年)、足利尊氏が後醍醐天皇に反逆すると、上将軍として新田義貞と共に討伐軍を率いたが、敗退した。翌年、九州に落ちた尊氏が力を盛り返して上洛してくると、義貞と共に北陸に逃れた。しかし延元2年/建武5年(1337年)、尊良親王が拠った越前国金ヶ崎城に足利軍が攻めて来る(金ヶ崎の戦い)。尊良親王は義貞の子・新田義顕と共に懸命に防戦したが、敵軍の兵糧攻めにあって遂に力尽き、三月六日に義顕や他の将兵と共に自害した。
その後、親王の首が京都に送られ、夢窓疏石により、供養された。
写真京都市左京区南禅寺下河原町墓陵
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