今昔物語集巻第二十四
藤原為時作詩任越前守語第三十
今昔、藤原為時と云人有き。一条院の御時に、式部丞の労に依て、受領に成らむと申しけるに、除目の時闕國無きに依て、不破成りけり。
其後、此の事を歎て、年を隔て直物被行ける日、為時博士には非ども、極て文花有る者にて、申文を内侍に付て奉り上てけり。其の申文に此の句有り、
苦学寒夜紅涙霑襟 苦学の寒夜紅涙襟を霑す
除目後朝蒼天在眼 除目の後朝蒼天眼ここに在り。
と。内侍此れを奉り上げむと為るに、天皇其時に御寝なりて不御覧成にけり。
而る間、御堂、關白にて御座ければ、直し物行はせ給はむとて、内に參らせ給たりけるに、此の為時が事を奏せさせ給けるに、天皇申文を不御覧るに依て、其御返答無かりけり。然れば、關白殿女房に令問給けるに、女房申す樣、
「為時が申文を令御覧むとせし時、御前御寝なりて、不御覧成き」
然れば、其申文を尋ね出て、關白殿、天皇に令御覧め給けるに、此の句有り。然れば、關白殿此の句微妙に感ぜさせ給て、殿の御乳母子にて有ける藤原国盛と云人の可成かりける越前守を止て、俄に此の為時をなむ被成にける。
此れ偏に申文句を被感る故也となむ、世に為時を讃めけるとなむ語り伝へたるとや。
訳(岩波文庫 池上洵一編より)
寒夜の辛さに耐えて学問に励んでいた時は、血の涙に襟を濡らしたが、
任国に恵まれなかった除目の翌朝には、空の青さが目にしみる。
※光る君へでは、「霑襟」を「霑袖」、「後朝」を「春朝」としている。
苦學寒夜 紅涙霑袖
除目春朝 蒼天在眼