日たけゆきて、儀式もわざとならぬ樣にて、出で給へり。隙もなう立ち渡りたるに、よそをしう引き続きて立ち煩らふ。よき女房車多くて、雑々の人なき隙を思ひ定めて、皆さし退けさする中に、網代の少し馴れたる下簾の樣などよしばめるに、いたう引き入りて、ほのかなる袖口、裳の裾、汗衫(かざみ)など、物の色、いと清らにて、殊更にやつれたる気配しるく見ゆる車二つあり。「これは、更に、さやうにさし退けなどすべき御車にもあらず」と、口ごはくて、手触れさせず。いづ方にも、若き物共、酔ひ過ぎ、立ち騒ぎたる程の事は、えしたためあへず。大人おとなしき御前の人々は、「かくな」など言へど、え止めあへず。斎宮の御母御息所、物おぼし乱るる慰めにもやと、忍びて出で給へるなりけり。連れなし作れど、自づから見知りぬ。「さばかりにては、さる言はせそ。大将殿をぞ豪家(かうけ)には思ひ聞こゆらん」など言ふを、その御方の人々も混じれれば、いとおしと見ながら、用意せんも煩はしければ、知らず顔を作る。
遂に、御車共、立て続けつれば、ひとだまひの奥に押しやられて、物も見えず。心疾しきをばさる物にて、係るやつれをそれと知られぬるが、いみじうねたき事限り無し。榻なども皆押し折られて、すずろなる車の筒に打ち懸けたれば、又なう人悪く、悔しう、何に来つらんと思ふに甲斐無し。
六条御息所車
葵の上随身(若き物共)
葵の上随身(大人おとなしき御前の人々)
(正保三年(1647年) - 宝永七年(1710年))
江戸時代初期から中期にかけて活躍した土佐派の絵師。官位は従五位下・形部権大輔。
土佐派を再興した土佐光起の長男として京都に生まれる。幼名は藤満丸。父から絵の手ほどきを受ける。延宝九年(1681年)に跡を継いで絵所預となり、正六位下・左近将監に叙任される。禁裏への御月扇の調進が三代に渡って途絶していたが、元禄五年(1692年)東山天皇の代に復活し毎月宮中へ扇を献ずるなど、内裏と仙洞御所の絵事御用を務めた。元禄九年(1696年)五月に従五位下、翌月に形部権大輔に叙任された後、息子・土佐光祐(光高)に絵所預を譲り、出家して常山と号したという。弟に、同じく土佐派の土佐光親がいる。
画風は父・光起に似ており、光起の作り上げた土佐派様式を形式的に整理を進めている。『古画備考』では「光起と甲乙なき程」と評された。
27.5cm×45cm
令和5年10月29日 七點七伍/肆