新古今和歌集の部屋

源氏物語 湖月抄 手習 中将横川の僧都の坊へ

   中将の供の人のいふ也
して、雨もやみぬ。日も暮ぬべしといふに、
そゝのかされて出給ふ。まへちかきをみなへ
しをおりて、√なににほふらんとくちずさ
みて、ひとりごちたてり。人のものいひを
さすがにおぼしとがむるこそなど、こだいの
                中将のよく成り立
人どもは物めでをしあへり。いときよげに
たるほどに同くは婿君にしたきと也
あらまほしくも、ねびまさり給にけるかな。
おなじくは昔のやうにてもみたてまつ
らばやとて、藤中納言の御あたりにはたえ
ずかよひ給やうなれど、こゝろもとゞめ
    中将のおやの事也
給はず。おやの殿がちになんものし給と
                   尼君手習
こそいふなれと、尼君゙もの給て、心うく
 
 
頭注
なににほふらん 手習
君かゝる所に住給あや
しきと也。√こゝにしも
何ににほふらん女郎花人
の物いひさがにく世に
孟こゝにしもといはんと
てなり。
人の物いひ 人々のいへ
るなり。小野の人々
中将の人のものいひを憚
給をほめたるよしに
いふ也。
とう中納言 中将のか
よひし所と也。河海にひ
げぐろの息の事かと
云々。誰ともなき可然歟。
髭黒の息と云々。又
別人共いへり。いづれにて
も也。
 
君にいへる詞也
物をのみ覚しへだてたるなんいとつらき。
いまはなをさるべきなめりと覚しなして、
               むすめにはなれて
はれ/"\しくもてなし給へ此五とせ六年時
五六年也 わすれ 尼君のむすめの事也
のまも忘ず戀しかなしと思へる人のう
へも、かくみたてまつりて後よりは、こよなく
思わすれにて侍る。思きこえ給べき人々世
におはすとも、今は世になきものにこそ
やう/\おほしなりぬらめ。よろづのこ
とさしあたりたるやうにはえしもあ
                   手習
らぬわざになんといふにつけてもいとゞ
君なり   手習の君の詞
涙ぐみて、へだてきこゆる心は侍らねど、
あやしくていきかへりけるほどに、よろづ
 
頭注
いまは猶ざるべきなめりと
今は前世の宿縁にて
此尼のもとにある事と
おぼしなしてと也。
 
 
思ひきこえ給ふべき人々世
におはすとも 浮舟
親類其外したしき人々も
世になき人と思定めんほど
に、今はかくてあらんとおぼせ
と也。
よろづの事さしあたりた
るやうには 月日をふれば
眼前のやうにはなき物ぞ
と故郷を忘れさせんとて
いひなす也。
いとゞ涙ぐみて 故郷の人
とやう/\思ひ忘れんなど
いふに弥催されて浮舟の

頭注
なみだぐむ也
のこと夢のやうにどられて、あらぬ
世にむまれたらんひとは、かゝる心ちすらん
とおぼえ侍れば、今はしるべき世にあらん
       一向と也 浮舟の尼君を思ふ心也
とも思出ず。ひたみちにこそむつまし
                尼君のうれしく
く思きこゆれとの給さまも、げになに
思ふ也
心なくうつくしくうちゑみてぞまもり
ゐ給へる。中将は山におはしつきて、僧都も
めづらしがりて、世中の物語゙し給。その夜
はとまりて、こゑたうとき人々に經など
                 中将の弟也
よませて、夜ひとよあそび給。ぜんじの
                    中将
君、こまかなり物語゙するついでに、小
の詞也
野にたちよりて、物哀にも有しかな。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
頭注
こゑたふとき人々に
抄中将の横川
にとまりてのさま也。
 
 
小野の尼君の事をほめたり
世をすてたれど、なをさばかりの心ばせあ
                     中将の禅師
る人かたうこそなどの給ふついでに、風の
君にいへる詞也        尼君どものあたりなれ
吹あげたりつるひまより、かみいとながくお
ばかくいふ也 浮舟の事歟
かしげ成人こそみえつれ。あらはなりとや
思つらん。たちてあなたにいりつるうしろで、
なべての人とはみえざりつ。さやうの所に、
よき女はをきたるまじき物にこそあめ
れ。明くれみる物は法しなり。をのづからめ
           法師ばかりの所に女の侍るはと也
なれておぼゆらん。ふびんなることぞかし
            禅師の詞也
との給。ぜんじの君、この春はつせにまう
でゝ、あやしくみ出たるひととなんきゝ侍
し。とてみぬことなればこまかにはいはず、
 
 
頭注
よき女はをきたるまじ
きものにこそ
出家のあたりには
女はをくまじきき事な
るにさる人の見えしこ
とよと也。をのづから
めなれてとは法師を
めなるゝにつけてさし
て殊勝の心もなくなる
べきかと也。
 
 

して、
「雨も止みぬ。日も暮ぬべし」と言ふに、そそのかされて出で給ふ。
前近き女郎花を折りて、
「√何匂ふらん」と口ずさみて、独りごち立てり。
「人の物言ひを、さすがに思し咎むるこそ」など、古代の人どもは、
物めでをしあへり。
「いと清げに、あらまほしくも、ねびまさり給ひにけるかな。同じ
くは、昔のやうにても見奉らばや」とて、
「藤中納言の御あたりには、絶えず通ひ給ふやうなれど、心も留め
給はず。親の殿がちになん、物し給ふとこそ言ふなれ」と、尼君も
宣ひて、
「心憂く、物をのみ覚し隔てたるなん、いと辛き。今は、猶さるべ
きなンめり」と思しなして、晴れ晴れしく、もてなし給へ。この五
年六年、時の間も忘ず、恋し悲しと思へる人の上も、かく見奉りて
後よりは、こよなく思ひ忘れにて侍る。思ひ聞こえ給ふべき人々、
世に御座すとも、今は世に無き物にこそやうやう思しなりぬらめ。
万づの事、さしあたりたるやうには、えしもあらぬわざになん」と
言ふに付けても、いとど涙ぐみて、
「隔て聞こゆる心は侍らねど、あやしくて生き返りける程に、万づ
のこと夢のやうに辿られて、あらぬ世に生まれたらん人は、かかる
心地すらんと覚え侍れば、今は知べき世にあらんとも思ひ出でず。
ひたみちにこそ、睦ましく思ひ聞こゆれ」と宣ふ樣も、げに何心無
なく、美しく打笑みてぞまもりゐ給へる。
中将は山におはし着きて、僧都も珍しがりて、世の中の物語し給ふ。
その夜は泊りて、声尊き人々に經など読ませて、夜一夜遊び給ふ。
禅師の君、細やかなり物語する序でに、
「小野に立ち寄りて、物哀にも有しかな。世を捨てたれど、猶さば
かりの心ばせある人難うこそ」など宣ふ序でに、
「風の吹き上げたりつる隙より、髪いと長くおかしげ成る人こそ見
えつれ。あらはなりとや思ひつらん。立ちて彼方に入りつる後ろで、
なべての人とは見えざりつ。さやうの所に、良き女は置きたるまじ
き物にこそあンめれ。明け暮れ見る物は法師なり。自ら目馴れて覚
ゆらん。不便なる事ぞかし」との給ふ。禅師の君、
「この春、長谷に詣でて、あやしく見出でたる人となん聞き侍りし。
とて見ぬ事なれば、細かには言はず、
 
 
引歌
※√何匂ふらん
拾遺集 雑秋
 房の前栽見に女どもまうできたりけれは
                僧正遍昭
ここにしも何にほふらんをみなへし人の物いひさかにくきよに
 
略語
※奥入 源氏奥入 藤原伊行
※孟 孟律抄  九条禅閣植通
※河 河海抄  四辻左大臣善成
※細 細流抄  西三条右大臣公条
※花 花鳥余情 一条禅閣兼良
※哢 哢花抄  牡丹花肖柏
※和 和秘抄  一条禅閣兼良
※明 明星抄  西三条右大臣公条
※珉 珉江入楚の一説 西三条実澄の説
※師 師(簑形如庵)の説
※拾 源注拾遺
 
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