前大僧正慈鎮
我恋は庭の
むらはぎうら
がれて
ひとをも身をも
秋の夕ぐれ
新古今和歌集巻第十四 戀歌四
戀の歌とてよみ侍りける
わが戀は庭のむら萩うらがれて人をも身をあきのゆふぐれ
よみ:わがこいはにわのむらはぎうらがれてひとをもみをもあきのゆうぐれ 定雅 隠
意味:私の恋は、庭の村萩の葉が末枯れて、あの人の訪れも無くなり、人を恨むのも、私自身の定めを恨むのも飽きて来た秋の夕暮れの樣で、恋の終わりだなと。
備考:治承題百首の逢不逢恋で、慈鎮和尚自歌合にも自撰。定家十体では濃様の例歌。本歌 逢ふことの絶えてしなくばなかなかに人をも身をも恨みざらまし(拾遺集 恋歌一 藤原朝忠)、参考歌 我が背子を我が恋をれば我が宿の草さへ思ひうら枯れにけり(拾遺集 恋歌三 人麿、万葉集巻第十一 柿本人麻呂歌集歌)。心(うら)と末(うら)、枯れと離れ、秋と飽きの掛詞。
廣幡中納言豊忠卿
寛文六年(1666年)―元文二年(1737年) 72歳
江戸時代前期から中期の公卿。官位は従一位・内大臣。
父は、 久我通名で広幡忠幸の養子となる。浄光院と号する。
1686 権中納言 ★
1687 正三位
1692-1704 権大納言 ★
1723 内大臣
1726 従一位
令和3年4月25日 弐點壱/12枚