ネットの「プレジデントオンライン」にアメリカ人ジャーナリスト、ケン・ベンシンガーの著書『レッドカード 汚職のワールドカップ』(早川書房)の一部を再編集した記事が載っていました。
著書のテーマは文字通り「なぜ今回のW杯は"ロシア開催"だったのか」であり、開催権獲得の裏には、ありとあらゆる不正な取引が行われていた。その背後にいたのは、ロシアの億万長者で、英チェルシーFCオーナーのアブラモヴィッチと、プーチン大統領だと、あぶり出しています。
FIFA(国際サッカー連盟)の腐敗については、今に始まったことではなく、ブラッター前会長、さらには、その前のアヴェランジェ会長時代から数々の不正疑惑が指摘されながら、その都度、代替わりによりリセットされてきたのではないかと思います。
特にワールドカップ開催地決定の問題は、国の威信を高めようとする権力者が絡むことから、表向きは公明正大な選出方法を装いながら、裏では利権と権謀術数が絡み合う、凄まじい戦いの世界が繰り広げられる問題です。
私たちは、日韓ワールドカップの開催地決定が行われた1996年に、釈然としない思いで決定を受け入れた記憶を持っています。
どの大会でも、開催地争いに敗れた国は、多かれ少なかれ苦い思いで受け入れざるを得ない経験をしています。
FIFA(国際サッカー連盟)を牛耳る幹部たちの世界が、いかにオモテとウラの世界の行ったり来たりしているかということなのだと思います。
それは、マフィア映画を見ると、わかりやすいと思います。マフィア映画にはオモテの部分とウラの部分が、実によく描写されています。オモテの部分は無垢な家族の姿を描く場面であり、ウラの部分は、まさにマフィアそのものの姿です。
サッカーの世界も、オモテの部分はフェアプレーアンセムに導かれて集う選手たち、サポーターたち、ジャーナリストたちの姿であり、ウラの部分は、今回紹介した書物に描かれているようなFIFA(国際サッカー連盟)と、それに連なる権力者たちの姿です。
前回書き込んだ「世界に示した日本人の国民性」といった部分は、マフィア映画で言えば、純真無垢な家族・子供といった場面であり、FIFA幹部たちから見れば、まさに「子供のような純粋無垢な存在」、言い換えれば「何も知らない無邪気な存在」ということではないかと思います。
世界最大のスポーツイベントを差配することができるFIFAという組織の幹部は、著者ケン・ベンシンガーが指摘するように「豊かで多様で非情な組織で勢力を保つための費用を熟知していた。世界で最も人気のあるスポーツを運営する巧妙なやり口をだれよりも知りつくし・・・」という特殊な能力に長けていることが不可欠です。
だからこそ、ブラッター前会長も、ジャンニ・インファンティノ現会長も、事務局長からの昇格という形で権力者に上り詰めているのです。彼らは組織のテクノクラートとして忠実に仕事をこなしてきた中で、権謀術数のすべを学び、少しづつ権力の階段を上がってきています。
したがってオモテとウラ、それぞれでの一挙手一投足の使い分けも見事なほどです。オモテでは、見事に演じきれるといったほうがいいのかも知れません。
そういう連中の差配のもとで、やれフェアプレーだの、やれ品格だの、やれマナーだのと言って満足そうにしている私たち日本人は、どう考えるべきなのでしょうか。
あくまで、それは別世界のこととして、純粋に誇りを持っていればいいのでしょうか。それとも、そういう魑魅魍魎の世界の中で、もて遊ばれることを快よしとせずにいくべきなのでしょうか。
そこが、私には永遠の課題のように思われるのです。
では、また。
著書のテーマは文字通り「なぜ今回のW杯は"ロシア開催"だったのか」であり、開催権獲得の裏には、ありとあらゆる不正な取引が行われていた。その背後にいたのは、ロシアの億万長者で、英チェルシーFCオーナーのアブラモヴィッチと、プーチン大統領だと、あぶり出しています。
FIFA(国際サッカー連盟)の腐敗については、今に始まったことではなく、ブラッター前会長、さらには、その前のアヴェランジェ会長時代から数々の不正疑惑が指摘されながら、その都度、代替わりによりリセットされてきたのではないかと思います。
特にワールドカップ開催地決定の問題は、国の威信を高めようとする権力者が絡むことから、表向きは公明正大な選出方法を装いながら、裏では利権と権謀術数が絡み合う、凄まじい戦いの世界が繰り広げられる問題です。
私たちは、日韓ワールドカップの開催地決定が行われた1996年に、釈然としない思いで決定を受け入れた記憶を持っています。
どの大会でも、開催地争いに敗れた国は、多かれ少なかれ苦い思いで受け入れざるを得ない経験をしています。
FIFA(国際サッカー連盟)を牛耳る幹部たちの世界が、いかにオモテとウラの世界の行ったり来たりしているかということなのだと思います。
それは、マフィア映画を見ると、わかりやすいと思います。マフィア映画にはオモテの部分とウラの部分が、実によく描写されています。オモテの部分は無垢な家族の姿を描く場面であり、ウラの部分は、まさにマフィアそのものの姿です。
サッカーの世界も、オモテの部分はフェアプレーアンセムに導かれて集う選手たち、サポーターたち、ジャーナリストたちの姿であり、ウラの部分は、今回紹介した書物に描かれているようなFIFA(国際サッカー連盟)と、それに連なる権力者たちの姿です。
前回書き込んだ「世界に示した日本人の国民性」といった部分は、マフィア映画で言えば、純真無垢な家族・子供といった場面であり、FIFA幹部たちから見れば、まさに「子供のような純粋無垢な存在」、言い換えれば「何も知らない無邪気な存在」ということではないかと思います。
世界最大のスポーツイベントを差配することができるFIFAという組織の幹部は、著者ケン・ベンシンガーが指摘するように「豊かで多様で非情な組織で勢力を保つための費用を熟知していた。世界で最も人気のあるスポーツを運営する巧妙なやり口をだれよりも知りつくし・・・」という特殊な能力に長けていることが不可欠です。
だからこそ、ブラッター前会長も、ジャンニ・インファンティノ現会長も、事務局長からの昇格という形で権力者に上り詰めているのです。彼らは組織のテクノクラートとして忠実に仕事をこなしてきた中で、権謀術数のすべを学び、少しづつ権力の階段を上がってきています。
したがってオモテとウラ、それぞれでの一挙手一投足の使い分けも見事なほどです。オモテでは、見事に演じきれるといったほうがいいのかも知れません。
そういう連中の差配のもとで、やれフェアプレーだの、やれ品格だの、やれマナーだのと言って満足そうにしている私たち日本人は、どう考えるべきなのでしょうか。
あくまで、それは別世界のこととして、純粋に誇りを持っていればいいのでしょうか。それとも、そういう魑魅魍魎の世界の中で、もて遊ばれることを快よしとせずにいくべきなのでしょうか。
そこが、私には永遠の課題のように思われるのです。
では、また。
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