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■三日月藩と西播磨風土記

2024-07-08 | ●北條語録

■■■■■■■■■■三日月藩と西播磨風土記■■■■■■■■■■■

北條俊彦
経営コンサルタント・前 住友電工タイ社長

■■「三日月藩と西播磨風土記」
🔵佐用町は平成17年, 佐用郡の佐用町, 上月町、南光町, 三日月町
の4町が合併し,新しい佐用
町として誕生している
古代播磨國佐用郡中心
部の本位伝甲(ほんいでんかぶと)には,延喜
式内
社佐用都比売賣神社が鎮座する。


                         ●(撮影)佐用都比賣神社本殿
佐用都比売賣(玉津日女命)は『播磨國風土記に登場される神さ
まで、我々,大願寺地域の住民
はその佐用都比賣神社の氏子である。
神社は、宮
本武蔵との繋がりも深く色々な伝承が残る。
武蔵が最初の決闘を終え、諸国修行の旅に出る時木刀二振りを 神社
に捧げ参籠、武運長久の祈願を
したと言われる。
因みに, 佐用町平福金倉橋のたもとが有田喜兵衛に勝利した武蔵最初
の決闘の地として伝わる。
 
🔵西播磨の地, 佐用郡佐用町佐用に, この5月から家内と愛犬お江の
3人で田舎暮らしを始めた。
いつか田舎で  晴耕雨読の悠々自適の暮
らしを始め
てみたいというのが昔からの願望であった。
子供の頃
に父の郷里に帰省しては、海や川, そして山と自然の中で思
いきり遊んだ。祖父母, 父、叔父、従兄弟
達と楽しく過ごした記憶が
今も鮮やかに残っている。

『敬神崇祖』,故郷は累代、霊統、血統の秩序によって続いてきた我
が北條名跡の拠り所として,
我々を暖かく守り続けてくれたのである。
田舎暮らしの原点には『崇祖、即ち先祖への感謝報恩』の思い
が 働いたのかもしれない。

大黒柱と頑丈な梁は、長年空き家にしてきた 我が屋敷をしっかりと
守ってくれていた。おかげですんなり
馴染むことができている。
心から感謝である。
しかし, 築年数の古さと長年空き家にしていた事
あり、あちこちに傷みもみられ、日々慣れぬDIYに励んでいる。
但し,いずれもその結果、私達の生活
をより豊かに、且つ,快適にして
くれている。

お風呂のタイル目地の補修の時は、近くの温泉に浸かり疲れを癒し、
補修後は広々とした我が
家の湯船に、のんびり浸かる心地よさは 格
別で、
湯船では謡に興じる毎日である(快哉)。

🔵本日は蕎麦を目当てに佐用町三日月に出かけた
『名月や地は朧なる蕎麦畠(芭蕉吟)』福仙寺山手にある福森稲荷
の横に立つ芭蕉の句
碑である。福仙寺の地所は、かつて後醍醐天皇
旧跡鶴林庵のあった所で、鶴林庵が火災で焼失した後、佐用町平
福にあった廃寺福仙寺を建物・
寺号共に引き継ぎこの地に移築再建
されたもので
ある。福仙寺は, 三日月藩森家の寄進を受け,代々,三日
月藩士の菩提寺となっている。

三日月の地に 松尾芭蕉が訪れたかどうかは不明であるが、三日月の
蕎麦は実に美味かった。

写真)●三日月地産蕎麦100%の盛り蕎麦)味わいの里三日月”の天笊蕎麦地産野菜の天ぷら)
道の駅“味わいの里三日月”近くに、播磨国佐用郡三日月を領した
三日月藩(乃井野藩)の陣屋
表門跡が今も残されている。
三日月藩は、宗家である美作國津山藩十七万石森家の改易により、
分家の津山竹田藩主森長俊が
同じ石高の一万五千石を与えられ立藩
したもので、
幕末迄の174年間、乃井野地区を城下として 存続し
ている。

三日月は交通の要衝として 山陰地方の大名家の参勤交代の宿場町と
して栄え、藩は大いに潤った
そうだ。また三代藩主俊春の代には、
美作地方の幕
府領七万石の管理を命じられ, 預り地としてその後40
年にわたり領している。乃井野地区には 当時の
町割りや武家屋敷が
残されており、往時の繁栄を
偲ばせてくれる。
ご承知の通り,森家は源義家を祖(義家六男義隆の子孫)に持ち, 織田
信長に仕え岐阜の五人衆と
いわれ後に本能寺の変で信長と共に 討死
を遂げた
森蘭丸も一族である。その蘭丸の弟忠政が 美作國津山藩森
宗家の祖である。
      
           (写真)雨曇りの三日月陣屋表門跡
🔵蕎麦を堪能した暫く後,三日月陣屋跡を訪ねる。陣屋の概念は様々
だが、三日月藩の陣屋につい
ては、大名のうち家格が  国主や城主格
でないもの
(無城の小大名や交代寄合)の屋敷に相当する。

佐用町にはもう一つ平福に陣屋跡がある。平福は利神城主池田輝興
が移封で廃城後、旗本5千石
松平氏の所領になる。その後,代官支配
(幕領)と
なったが、そのまた後に 旗本松平氏領に戻り幕末迄続い
ている。
因みに佐用町だけで40近くの城跡が残っているが, それだけ西播磨
は豊かな地域であり赤松円心の支
配や小豪族の乱立と、後の 上月城
攻防戦のよう
に、織田と毛利の大勢力の係争地として,常に戦の絶え
ない地であった。


         (写真)雨上がりの陣屋表門跡と中御門
三日月藩陣屋表門 跡は, 殆ど再建されたものらしいが, 一部現存する
箇所もあるそうだ。なかなか立派
な佇まいで, 正しく一国一城の門構
えと同じである。
           
           (写真)三日月藩森家甲冑
🔵実際に住むことで見えてくる地方の現実、それは西播磨でも確か
に過疎化が進み,街では閉店
した商店、集落には多くの空き家が点在
している。

しかし,住んでみて実感したことは『豊かな自然の恵みと農業に支え
られ(農業の付加価値を向上
させ、農業を 地域経営の柱とするため
にも、国の
減反政策は考え直す必要はあるも) 一定の収入があれば
豊かで健康的な生活を送ることがで
きる。』ということである。

地方の歴史と伝統のある文化や風習、人の温かみ等々・・ コロナ以
降の働き方の変化(在宅勤務等)や、クルマ
社会の発展もあり,現在、
地方では、Uターン者や
移住者など働き手が増え, 元気な高齢者と共
に地域
のコミュニテイを支えている。
地方の人達が,物心共に豊かで健康な一番の理由は『先祖伝来の地が
好きであること。そして何よりも,
自分と地域を大切に思う心と,自分
達の時間軸で
日々しっかりっと生活していることであろう。』
それが、人として最も大切なことだとつくづく思う。

                       (撮影)兵庫県立大学西はりま天文台から市街を臨む

確かに公共交通機関は縮小され、社会インフラの脆弱性は 高齢者に
は不便であり,病院や診
療所の減により医療サービスを十分に受けら
ない。
しかし,地方は地方のライフスタイルを維持しそれなりに循環してい
る。逆に受動的な便利さに胡座
をかいている,大都市圏の生活者の方
が、明らか
にいざという時の脆さを見せるのではないか。
  
都市部に生きる人こそが, 足下の脆弱性を意識する必要がある。過疎
化も同じ,大都市部でも
既に過疎化が起きているではないか。

東京の人口も昼と夜とでは大いに違う。東京下町では,空き家が多く
みられるようになった。貧富の差が
広がれば空き家は増え, 街はスラ
ムと化す。

今この情報化時代に 東京一極集中など時代遅れなのだ。IT技術も進
化したこの情報化の時代,どこ
でも仕事はできる。企業は本社機能を
東京に集中
するのではなく、地方都市に配置すれば良い。
そうすれば地方の税収も増え,社会インフラも均等に整備されてゆく
であろう。
何よりも社員(若者世代)にゆとりのある 生活環境を
える事で,出生率も上がってゆく筈である。

田中角栄の日本列島改造論ではないが、国家プロジェクトとして 名
古屋(日本の臍)ぐらいに首都圏を移
し,企業の地方分散配置を産官
学民連携で大胆に
取組むべきではないだろうか?

       (撮影)千種川沿いを走る智頭急行線列車

🔵さて三日月藩陣屋跡の後、最明寺を辿ってみることにした。以前、
別稿でご紹介した春哉の地北條時頼
隣国伝説のある地区である。
車で10分程度の移動
である。県道を抜け,田植を終えたばかりの水
田に
挟まれた細い道を真っ直ぐに進み,人家を抜けると最明寺に到着。
お寺とは名ばかりで小さなお堂で,
横に頑丈に作られた倉庫のような
ものが並んでいる。
重要文化財である時頼坐像が収納されているの
だ。
施錠されていたため、時頼像を是非,拝観したいと近隣の方にお
願いし,鍵の管理されている方に連絡
を取って頂き、急遽ご開帳頂い
た。

船曳さま、ありがとうございました。』
眼前に現れた現物大の時頼座像は立派で、初見で 圧倒されてしまっ
た。
鎌倉様式の時頼像、その大らかな優しさと眼光の鋭さからは威
厳を感じる。明治になって国宝に指定され
ていたが、先の大戦後文
化財保護法の改正で国宝
から『国の指定重要文化財』に指定された
そうだ。
快慶作とも伝わる『幻の国宝』である。

鎌倉時代の作品であることは学術的にも検証されており,全国にある
数体の時頼像の中でも最も荘厳で
品格のある時頼像と言われている。
改めて、時頼の隣国伝説は事実であったと確信する。
伝によれば、最明寺入道(覚了坊道崇)として 諸国行脚の旅に出3
年後の11月、下志文の小さな集落
で病に斃れる。村人に助けられ
ながら時頼は、この地
に3ヶ月間滞在し養生するのである。

因みに,下志文周辺は時頼の曽祖父北条義時の荘園であったと云われ
ている。
時頼は静養中に川の水面に我が姿を映し,一体の木像を彫り
上げており、この地を離れる翌年2月14
日に,和歌2首とこの木像
を村人に残して下志文を
去った。
      
                      (写真)三日月春哉最明寺時頼坐像
深雪にもあさる雉子の声聞けばおのが心はいつも春哉
この和歌の下句から集落名が下志文から春哉になったと云われる。
もう一句は、
何國とも知らで道にぞ病みぬべき 
晴間も見えぬ佐用の朝霧
である。
後に,鎌倉からの達しで旅の僧が時頼であったことが分かり、
村人はお堂を建て『最明寺』と名づけ木像を納め,
爾来,770有余年
今日迄大切に守られてきたのである。
感謝』である。

  
                    (写真)三日月春哉最明寺時頼坐像)


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