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(播磨国と蘆屋道満 

2024-08-08 | ●北條語録

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北條俊彦
経営コンサルタント・前 住友電工タイ社長

■■播磨國と蘆屋道満
🔵 播磨國は山陽道に属する日本古来の地方行政区分の 令制
国の一つで、木簡では『針間国』『幡麻国』と表記するもの
もある。
播磨國風土記』冒頭には国名由来の記録があったと考えら
れるが、原本は遥か昔に失われ、唯一現存する写本も一部が
欠損し『播磨』という國名の由来は未だ分かっていない。

播磨國の国府は現在の姫路に置かれ、当時の国司であった巨
勢朝臣邑治か、石川朝臣君子が、播磨國風土記の編纂に携わ
ったと考えられている。
現存する風土記は全て写本で「出雲國風土記」は、ほぼ完本、
・「播磨國風土記
・「肥前國風土記
・「常陸國風土記
・「豊後國風土記
は、一部欠損した状態である。
編纂されている内容は
國郡郷名
産物
土地の状態(肥沃)
地名の起源
旧聞異事の伝承     
である。
 播磨國風土記は, 奈良時代初期には編纂されたが,  先述の通
り早くに喪失しその内容が現在まで残り得たのは, 風土記写
本の存在と江戸時代に加賀藩五代藩主前田綱紀が  三条西家
伝来の写本を発見し,解 読と修復に勢力的に取組んだ結果で
あると 云われている。
三条西家写本は,時代的には恐らく, 平安時代中期に写された
もので、現在、国宝に指定されている。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             また,兵庫県神崎郡福崎町出身の民俗学者 柳田國男の実兄国
文学者井上通泰が,『播磨國風土記新考』を 数年の年月を費
やして書き上げており, その著書が今、播磨國風土記研究の
ための必読書とされる。


                               (画像)柳田國男生家 出典:ニッポン旅マガジン

蛇足だが, 福崎町辻川山公園奥に柳田國男の生家が 今も保存
されている。國男は著書の中で「この日本一小さな家」が
民俗学研究の原点であったと語っているように, 茅葺き屋根
の簡素で小さな家は、厳しい自然や昔の日本人の暮らしぶり
を想起させ,我々を「懐古と郷愁そして「民話(伝説)の世界
へと 誘ってくれる。
中国縦貫道福崎I/Cを降りて10分程度の距離にあり,是非訪問
されることをお薦めしたい

🔵播磨國は国の等級では「大国」と位置付けられ,国司には
高位高官の者が補任される国であった。
また,交通上の要衝として大化前代以来、政治的,且つ,軍事的
に重要な役割を担ってきただけでなく,塩や鉄の生産,そして
様々な産業の先進地域でもあった。


                                               (画像)聖徳太子像 出典:産経新聞

また, 播磨國は聖徳太子ゆかりの地でもある。推古天皇の御
代、天皇の要請で聖徳太子は『法華経』(聖徳太子が著した
勝鬘教・法華経・維摩教の三経典を「三経義疏」というが)
を侍講した功で「播磨國に水田百町歩」を下賜された。

(現在の兵庫県揖保郡太子町とその周辺
太子はすぐさま法隆寺に寄進し,拝領地を『鵤荘(いかるが
のしょう)』と名付け,一つの伽藍を建立されたのが播州斑鳩
寺のはじまりである。

鵤荘』は, その後, 法隆寺の最も重要な荘園として 秀吉の
播磨平定までの約千年の間法隆寺寺領として繁栄、播州斑
鳩寺も秀吉の焼き討ちで焼失するまで  法隆寺別院として
太子信仰の一大拠点としてその隆盛を極めた。
法隆寺や再建された播州斑鳩寺には、当時の鵤荘絵図や 文
献など,古代史や中世史研究のための貴重な資料が,今も数多
く残されているそうだ。


🔵加古川に鶴林寺という聖徳太子ゆかりの寺がある。加古
川は播磨國風土記によればその地形が「鹿の児」に 似てい
たので「鹿児の郡(かこのこおり)」と名付けられたと 伝
わる。
高麗(こま)の僧侶恵便(えべん)が、排仏派の物部氏から
の迫害を逃れ、播磨國に身を隠していたが,恵便を慕う太子
は教えを乞いに恵便の許を訪ねている。
その後,秦勝川(はたのかつかわ)に命じて三間四面の精舎
を建立し 『刀田山四天王寺聖霊院』と名付けた。これが鶴
林寺のはじまりである。

聖徳太子は死後, 超人的能力をもつ存在(聖人)として伝説
化され崇敬信仰の対象となり、四天王寺、法隆寺は, 其々が
信仰の中心地として互いに競い、 信仰を広く世に流布させ
るが  播州斑鳩寺も法隆寺別院として, 播磨國の太子信仰の
聖地として特異な文化を興隆させていく。
後の世、太子信仰が庶民層に広まるなかで、他宗教の影響
も受け, 地方の風習と結びつくことで土着の宗教として, 太
子像を本尊とする多種多様な民間信仰に変遷していった。


🔵さて、陰陽師(おんみょうじ)とは?日本古代の律令制
下、中務省に属した官職で陰陽五行思想に基づく陰陽道に
よって占筮や地相などを職掌としており、朝廷に仕える陰
陽師は星の観察で吉凶を占い、暦づくりに携わるなど最先
端の科学者でもあった。
狂言役方泉流能楽者二世野村萬斎の演じた映画「陰陽師
は、記憶に新しいが、萬斎の演じた安倍晴明については誰
もがご存じのことと省略させて頂く。
同時代の代表的な陰陽師に本稿の主人公、蘆屋道満がいる。
生没年不詳といわれ、実在も含めその実像は不明な点が 多
いが、市井の陰陽師として病気を治すための 呪術的行為が
多かったようだ。
道満は播磨國岸村(現加古川市西神吉町岸)に生まれたと
され、民間の陰陽師集団の出身だと云われる。
加古川市正岸寺(しょうがんじ)に道満の屋敷があったと
もいわれ、今も境内には道満を祀る祠があり、道満の位牌
と小像が今も大切に祀られている。
位牌には天徳2年(958年)の生まれとあり 延喜21年
(921年)生まれの晴明よりも かなり若いのである。
多くの人は道満が晴明より 年長の老獪な法師のイメージを
持っておられたの
ではないだろうか?

道満が生まれた頃の播磨國は経済力だけでなく 太子信仰の
隆盛期にあり、太子の求めた政治理念(天皇親政)を守り、
また旧仏教勢力の中心として藤原政権(摂関政治・新仏教)
と対立の構図が出来上がっていたと考えられる。
また、播磨國国司の地位についても藤原氏が独占しており、
地方と中央の関係も穏やかではなかったであろう。 

                    (画像)蘆屋道満木像 出典:神戸新聞

宇治拾遺物語:御堂関白の御犬晴明等, 奇特の事』に陰陽
師道摩法師として語られているが, 左大臣藤原顕光の依頼を
受け時の権力者藤原道長の呪殺を計るが,安倍晴明によって
阻まれ播磨国佐用に追放された。
藤原顕光は関白太政大臣藤原兼通の長男で,最終官位は 従一
位左大臣であるが、政治的には無能者と謗られ、殿上では
失態を繰り返す等 失意のうちに死去したと云われ、死後、
道長の家系に祟りをなしたがために『悪霊左府』として畏
れられている。

この時代、陰陽師は権力者の道具として法力による悪霊封
じ、そして政敵を呪詛・呪い・調伏することも多々あった
ようである。
しかし、道満は藤原顕光の依頼と言うよりも、播磨の國人
として「天皇を蔑ろにし、私利私欲を貪る藤原道長に対す
る義憤から、道長呪殺を試みたのではないだろうかと私は
考える。

星のよく見える地域に陰陽師の伝承が多く存在するとの伝
承があるが、佐用も星がよく見える地域である。事実、自
宅から眺める夜空は透けるようで多くの星が煌めいている。
追放された道満は佐用の地においても、義憤止み難く、道
長の呪殺を謀ったのが(写真)道満塚のある草深い丘の頂
上であったそうだ。
佐用での道満の日常は薬草を栽培するなど 労を惜しまず、
病人への施薬、病気治療に尽くしたとの伝承もある。


                                                    (撮影)乙大木谷棚田

🔵佐用町乙大木谷はその数、数千枚とも云われる棚田が山
肌に連なり、「日本の棚田百選」に認定される美しい地域
である。棚田の中腹辺りの路傍に車を停めて そこから徒歩
で10分、まばらな人家の間を抜けて山道を上ってゆくと
鬱蒼と草の茂る小高い丘の上に辿り着くと、そこには蘆屋
道満塚宝篋印塔が建っている。

まさにこの地で最終決戦が 行われたとのだが、道長呪殺を
阻むため都から下ってきた 安倍晴明と法力の限りを尽くし
死闘を繰り広げるが、奮戦虚しく道満は 敗れ首を取られて
しまう。
両者が矢を放って戦った『やりとび橋』や道満の首を洗った
『おつけ場』などの闘いの跡が今も残されている。

以来、藤原政権の庇護の下、安倍晴明は英雄として称賛され
栄達の道を歩むが、道満は悪役の烙印を押され今に至る。
勝者の歴史と不条理、そして人の世の無情をつくづく感じる。
いつか実在上の人物として、客観的な歴史的考証がなされ、
いつか道満に対する正当な評価がなされることを期待したい。


                   (撮影)蘆屋道満供養塔

                                                                            (撮影)蘆屋道満供養塔

🔵今、道満塚と向かい合うように対峙する丘の上にいぶし
(猪伏)晴明塚宝篋印塔が建てられている
道満に勝利した後も晴明の法力が必要であったのか 『道満
死して後も、その怨霊と祟りを畏れるのか!』
以前は江川地域の人達は 晴明塚、道満塚いずれも、其々に
祀ってこられたようだが、今は晴明塚のみを祀っておられ
るようだ。
確かに、草木の鬱蒼と生い茂る様は道満塚を訪れる 人など
今は誰もいないのであろう。少し救われるとすれば, 加古川
市正岸寺境内の小さな祠を訪れ道満像と彼の位牌に手を合わ
せる人も、最近では増えたらしい。


追記
🔵江戸時代の浄瑠璃作品『蘆屋道満大内鑑は,安倍晴明と
対比させつつ、悪役とされてきた道満を「善人」として描い
ている。話は、忠孝の士道満が父殺しの悲劇を経て法師陰陽
師となる経緯を語り、道満父子の『心の情愛』を描いている。
但し、作品は全5段構成であるが全てを上演することは稀で、
特に道満が主役となる3段目の上演は殆ど無いらしい。
題名が何故「蘆屋道満大内鑑」なのか分からない。

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