■■■■■■■■■■播磨國と蘆屋道満■■■■■■■■■■
北條俊彦
経営コンサルタント・前 住友電工タイ社長
■■播磨國と蘆屋道満
🔵 播磨國は山陽道に属する日本古来の地方行政区分の 令制
国の一つで、木簡では『針間国』『幡麻国』と表記するもの
もある。
『播磨國風土記』冒頭には国名由来の記録があったと考えら
れるが、原本は遥か昔に失われ、唯一現存する写本も一部が
欠損し『播磨』という國名の由来は未だ分かっていない。
播磨國の国府は現在の姫路に置かれ、当時の国司であった巨
勢朝臣邑治か、石川朝臣君子が、播磨國風土記の編纂に携わ
ったと考えられている。
現存する風土記は全て写本で「出雲國風土記」は、ほぼ完本、
・「播磨國風土記」
・「肥前國風土記」
・「常陸國風土記」
・「豊後國風土記」
は、一部欠損した状態である。
編纂されている内容は
①國郡郷名
②産物
③土地の状態(肥沃)
④地名の起源
⑤旧聞異事の伝承
である。
播磨國風土記は, 奈良時代初期には編纂されたが, 先述の通
り早くに喪失しその内容が現在まで残り得たのは, 風土記写
本の存在と江戸時代に加賀藩五代藩主前田綱紀が 三条西家
伝来の写本を発見し,解 読と修復に勢力的に取組んだ結果で
あると 云われている。
三条西家写本は,時代的には恐らく, 平安時代中期に写された
もので、現在、国宝に指定されている。 また,兵庫県神崎郡福崎町出身の民俗学者 柳田國男の実兄国
文学者井上通泰が,『播磨國風土記新考』を 数年の年月を費
やして書き上げており, その著書が今、播磨國風土記研究の
ための必読書とされる。
(画像)柳田國男生家 出典:ニッポン旅マガジン
蛇足だが, 福崎町辻川山公園奥に柳田國男の生家が 今も保存
されている。國男は著書の中で「この日本一小さな家」が
民俗学研究の原点であったと語っているように, 茅葺き屋根
の簡素で小さな家は、厳しい自然や昔の日本人の暮らしぶり
を想起させ,我々を「懐古と郷愁」そして「民話(伝説)の世界」
へと 誘ってくれる。
中国縦貫道福崎I/Cを降りて10分程度の距離にあり,是非訪問
されることをお薦めしたい。
🔵播磨國は国の等級では「大国」と位置付けられ,国司には
高位高官の者が補任される国であった。
また,交通上の要衝として大化前代以来、政治的,且つ,軍事的
に重要な役割を担ってきただけでなく,塩や鉄の生産,そして
様々な産業の先進地域でもあった。
(画像)聖徳太子像 出典:産経新聞
また, 播磨國は聖徳太子ゆかりの地でもある。推古天皇の御
代、天皇の要請で聖徳太子は『法華経』(聖徳太子が著した
勝鬘教・法華経・維摩教の三経典を「三経義疏」というが)
を侍講した功で「播磨國に水田百町歩」を下賜された。
(現在の兵庫県揖保郡太子町とその周辺)
太子はすぐさま法隆寺に寄進し,拝領地を『鵤荘(いかるが
のしょう)』と名付け,一つの伽藍を建立されたのが播州斑鳩
寺のはじまりである。
『鵤荘』は, その後, 法隆寺の最も重要な荘園として 秀吉の
播磨平定までの約千年の間法隆寺寺領として繁栄、播州斑
鳩寺も秀吉の焼き討ちで焼失するまで 法隆寺別院として
太子信仰の一大拠点としてその隆盛を極めた。
法隆寺や再建された播州斑鳩寺には、当時の鵤荘絵図や 文
献など,古代史や中世史研究のための貴重な資料が,今も数多
く残されているそうだ。
🔵加古川に鶴林寺という聖徳太子ゆかりの寺がある。加古
川は播磨國風土記によればその地形が「鹿の児」に 似てい
たので「鹿児の郡(かこのこおり)」と名付けられたと 伝
わる。
高麗(こま)の僧侶恵便(えべん)が、排仏派の物部氏から
の迫害を逃れ、播磨國に身を隠していたが,恵便を慕う太子
は教えを乞いに恵便の許を訪ねている。
その後,秦勝川(はたのかつかわ)に命じて三間四面の精舎
を建立し 『刀田山四天王寺聖霊院』と名付けた。これが鶴
林寺のはじまりである。
聖徳太子は死後, 超人的能力をもつ存在(聖人)として伝説
化され崇敬信仰の対象となり、四天王寺、法隆寺は, 其々が
信仰の中心地として互いに競い、 信仰を広く世に流布させ
るが 播州斑鳩寺も法隆寺別院として, 播磨國の太子信仰の
聖地として特異な文化を興隆させていく。
後の世、太子信仰が庶民層に広まるなかで、他宗教の影響
も受け, 地方の風習と結びつくことで土着の宗教として, 太
子像を本尊とする多種多様な民間信仰に変遷していった。
🔵さて、陰陽師(おんみょうじ)とは?日本古代の律令制
下、中務省に属した官職で陰陽五行思想に基づく陰陽道に
よって占筮や地相などを職掌としており、朝廷に仕える陰
陽師は星の観察で吉凶を占い、暦づくりに携わるなど最先
端の科学者でもあった。
狂言役方泉流能楽者二世野村萬斎の演じた映画「陰陽師」
は、記憶に新しいが、萬斎の演じた安倍晴明については誰
もがご存じのことと省略させて頂く。
同時代の代表的な陰陽師に本稿の主人公、蘆屋道満がいる。
生没年不詳といわれ、実在も含めその実像は不明な点が 多
いが、市井の陰陽師として病気を治すための 呪術的行為が
多かったようだ。
道満は播磨國岸村(現加古川市西神吉町岸)に生まれたと
され、民間の陰陽師集団の出身だと云われる。
加古川市正岸寺(しょうがんじ)に道満の屋敷があったと
もいわれ、今も境内には道満を祀る祠があり、道満の位牌
と小像が今も大切に祀られている。
位牌には天徳2年(958年)の生まれとあり 延喜21年
(921年)生まれの晴明よりも かなり若いのである。
多くの人は道満が晴明より 年長の老獪な法師のイメージを
持っておられたの
ではないだろうか?
道満が生まれた頃の播磨國は経済力だけでなく 太子信仰の
隆盛期にあり、太子の求めた政治理念(天皇親政)を守り、
また旧仏教勢力の中心として藤原政権(摂関政治・新仏教)
と対立の構図が出来上がっていたと考えられる。
また、播磨國国司の地位についても藤原氏が独占しており、
地方と中央の関係も穏やかではなかったであろう。
(画像)蘆屋道満木像 出典:神戸新聞
『宇治拾遺物語:御堂関白の御犬晴明等, 奇特の事』に陰陽
師道摩法師として語られているが, 左大臣藤原顕光の依頼を
受け時の権力者藤原道長の呪殺を計るが,安倍晴明によって
阻まれ播磨国佐用に追放された。
藤原顕光は関白太政大臣藤原兼通の長男で,最終官位は 従一
位左大臣であるが、政治的には無能者と謗られ、殿上では
失態を繰り返す等 失意のうちに死去したと云われ、死後、
道長の家系に祟りをなしたがために『悪霊左府』として畏
れられている。
この時代、陰陽師は権力者の道具として法力による悪霊封
じ、そして政敵を呪詛・呪い・調伏することも多々あった
ようである。
しかし、道満は藤原顕光の依頼と言うよりも、播磨の國人
として「天皇を蔑ろにし、私利私欲を貪る藤原道長に対す
る義憤から、道長呪殺を試みたのではないだろうかと私は
考える。
星のよく見える地域に陰陽師の伝承が多く存在するとの伝
承があるが、佐用も星がよく見える地域である。事実、自
宅から眺める夜空は透けるようで多くの星が煌めいている。
追放された道満は佐用の地においても、義憤止み難く、道
長の呪殺を謀ったのが(写真)道満塚のある草深い丘の頂
上であったそうだ。
佐用での道満の日常は薬草を栽培するなど 労を惜しまず、
病人への施薬、病気治療に尽くしたとの伝承もある。
(撮影)乙大木谷棚田
🔵佐用町乙大木谷はその数、数千枚とも云われる棚田が山
肌に連なり、「日本の棚田百選」に認定される美しい地域
である。棚田の中腹辺りの路傍に車を停めて そこから徒歩
で10分、まばらな人家の間を抜けて山道を上ってゆくと
鬱蒼と草の茂る小高い丘の上に辿り着くと、そこには蘆屋
道満塚宝篋印塔が建っている。
まさにこの地で最終決戦が 行われたとのだが、道長呪殺を
阻むため都から下ってきた 安倍晴明と法力の限りを尽くし
死闘を繰り広げるが、奮戦虚しく道満は 敗れ首を取られて
しまう。
両者が矢を放って戦った『やりとび橋』や道満の首を洗った
『おつけ場』などの闘いの跡が今も残されている。
以来、藤原政権の庇護の下、安倍晴明は英雄として称賛され
栄達の道を歩むが、道満は悪役の烙印を押され今に至る。
勝者の歴史と不条理、そして人の世の無情をつくづく感じる。
いつか実在上の人物として、客観的な歴史的考証がなされ、
いつか道満に対する正当な評価がなされることを期待したい。
(撮影)蘆屋道満供養塔
(撮影)蘆屋道満供養塔
🔵今、道満塚と向かい合うように対峙する丘の上にいぶし
(猪伏)晴明塚宝篋印塔が建てられている。
道満に勝利した後も晴明の法力が必要であったのか 『道満
死して後も、その怨霊と祟りを畏れるのか!』
以前は江川地域の人達は 晴明塚、道満塚いずれも、其々に
祀ってこられたようだが、今は晴明塚のみを祀っておられ
るようだ。
確かに、草木の鬱蒼と生い茂る様は道満塚を訪れる 人など
今は誰もいないのであろう。少し救われるとすれば, 加古川
市正岸寺境内の小さな祠を訪れ道満像と彼の位牌に手を合わ
せる人も、最近では増えたらしい。
(追記)
🔵江戸時代の浄瑠璃作品『蘆屋道満大内鑑』は,安倍晴明と
対比させつつ、悪役とされてきた道満を「善人」として描い
ている。話は、忠孝の士道満が父殺しの悲劇を経て法師陰陽
師となる経緯を語り、道満父子の『心の情愛』を描いている。
但し、作品は全5段構成であるが全てを上演することは稀で、
特に道満が主役となる3段目の上演は殆ど無いらしい。
題名が何故「蘆屋道満大内鑑」なのか分からない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます