醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  299号  白井一道

2017-01-21 13:15:09 | 随筆・小説

 岐阜県多治見の酒「三千盛」の「小仕込純米」と
              新潟県塩沢のお酒「高千代純米大吟醸」を比べ楽しむ


侘輔 2017年一月の酒は、岐阜県多治見の名酒「三千盛」の熟成酒と新潟高千代酒造の新酒とを比べて味わってみようと思うんだけどね。
呑助 「三千盛」は岐阜県多治見の酒ですか。
侘助 多治見というと思い出すのが何かな。
呑助 それは何と言っても陶器の産地、多治見焼でしょうかね。
侘助 美濃焼と言われるものかな。特に志野とか、織部といわれる模様が有名かな。欧米にも知られる名品があるらしいよ。
呑助 織田信長の経済政策が生んだ陶器だったような記憶が薄っすらと残っていますよ。
侘助 高校生のころの日本史の記憶かな。古田織部が活躍するのは桃山時代だからね。
呑助 志野のぐい吞みでいただく、三千盛はきっとおいしそうな感じがしますね。
侘助 酒は酒器によって美味しさが違ってくるという人がいるからね。
呑助 お酒はイメージと雰囲気で味が変わると思いますよ。
侘助 確かにそんな気がするね。
呑助 ところで「三千盛」の熟成酒というのは何という銘柄のお酒なんですか。
侘助 「小仕込純米」という銘柄のお酒なんだ。
呑助 「小仕込」というのは何ですか。
侘助 「小仕込」というから四五〇ℓのタンクで仕込んだお酒なのかなと思うでしょう。
呑助 そうですよね。
侘助 そうではなく、「小仕込」とは大吟醸を三千盛さんにあっては、意味しているようなんだ。
呑助 へぇー、そうなんですか。
侘助 「小仕込純米」とは、三千盛さんにあっては、最高品質のお酒をいうらしい。一九七〇年代に造られた銘柄のようなんだ。そのころ大吟醸と銘打っても伝わらなかったから「小仕込」で丁寧に造られたお酒ですよと、言う意味を消費者に伝えようとしたようなんだ。
呑助 そうなんですか。最高品質ということは、何ですか。
侘助 まず、酒造米が兵庫県北西地区産の山田錦、精米歩合四〇%、炭による濾過はしていない。おおよそ十カ月寝かせて出荷している。雑味が落ち、味がのってくる。熟成し美味しくなったお酒ということのようだ。
呑助 「三千盛」のお酒は軽快ですっきり、切れのいいお酒という印象でしたよね。
侘助 そうだよね。大吟の酒であっても、飲み疲れすることのないお酒かな。
呑助 確かに大吟のお酒の場合、たくさん飲めないという印象がありますね。
侘助 うん、そうだね。だから「三千盛」の大吟「小仕込純米」という銘柄の大吟醸の酒は飲み飽きすることがないお酒なんじゃないかな。
呑助 最近、話題の少なくなってきた山口県岩国のお酒、「獺祭」と似たようなお酒なんですね。
侘助 きっと似たような味わいのお酒だとおもうけれどね。なにしろ、720mlで二千円もするお酒だからね。
呑助 「三千盛」のお酒は1.8ℓの大吟醸であっても割安感のあるお酒ですよね。
侘助 そうだよね。確かに割安感のあるお酒だから、その蔵が高い値段を付けているお酒だからね。

醸楽庵だより  298号  白井一道

2017-01-20 11:08:46 | 随筆・小説

 鷹一つ見つけてうれし伊良湖崎 芭蕉

句郎 芭蕉が伊良湖崎で詠んだ「鷹一つ見つけてうれしいらご崎」という句は、芭蕉の名句の一つとして挙げられているみたい。
華女 あら、そうなの。どこが名句なのか。ピンとこないようにも感じるけれど。
句郎 でもね、現在、日本にある俳句結社の主宰者三百十二人の俳人が選んだ芭蕉の俳句百五十七句の中で「鷹一つ」の句は三十五位に選ばれている。
華女 かなり高得点の句ね。どこがいいのかしら。
句郎 どこなのかな。「鷹一つ」という上五の力強さのようなものに説得力があるのかもしれない。
華女 そうね。今一つ分からないわね。
句郎 「鷹一つ見つけて」という言葉から寒風を思わせるとも言っている。
華女 「鷹一羽でなく」、「鷹一つ」と言っているからなのっ。
句郎 そうかもしれないな。「一つ」という表現にはいろいろな意味が込められているのかもしれない。
華女 伊良湖崎で芭蕉が見たものはいろいろあったでしよう。その一つが鷹だったということなんでしよう。
句郎 そうなんだよ。鷹は芭蕉が伊良湖崎で見つけたものの一つだったんだ。
華女 だから鷹一羽と言わずに「鷹一つ」といったのかしら。
句郎 「一つ」という言葉には孤高というイメージを引き出す力があるように思うんだ。鷹は大空に舞う孤高の鳥でしょ。群れて飛ぶことはない。一羽で悠々と舞い、高い空から地上目がけて急襲する。誇り高く頭を上げて睨みつける。戦国武将の兜の紋章になるような鳥だよね。
華女 芭蕉の句の特徴は力強さにあるのかしらね。
句郎 そういわれると「五月雨をあつめて早し最上川」にしても力強い句だよね。
華女 蟄居中の愛弟子杜国を訪ねて伊良湖崎まで厳しい寒さの中、行ったわけよね。何か、強い思いがあったのよね。
句郎 芭蕉の衆道の相手では、という話があるくらいだからね。
華女 ホントなのかしら。
句郎 あり得る話だとは思うけれど。そう、杜国が蟄居に参っていないことに安心したんじゃないのかな。元気にしていた。発句を詠み、滅入っていなかった。それでこそ、杜国だと芭蕉は思った。芭蕉は杜国が元気にしている姿を見て、喜んだ。杜国は鷹のように誇り高く孤高の存在だ。鷹の姿に芭蕉は杜国の見た。伊良湖崎への旅は杜国を訪ねることがすべてだった。その願いがかなった。その願いを「一つ」という言葉で表現した。
華女 「鷹一つ」とは伊良湖崎への芭蕉の旅の願いがかなったということを表現しているの。
句郎 そうなんじゃないのかな。「鷹一つ見つけてうれしいらご崎」。「みつけてうれしいらご崎」という中七と、下五の語句は「鷹一つ」を修飾する言葉になっている。「鷹一羽」と詠むと芭蕉の気持ちが表現されない。だから、「鷹一つ」と詠んだ。「鷹一つ」とは、芭蕉の願いだった。その願いをかなえた喜びの句が「鷹一つみつけてうれしいらご崎」という句なのではないかと思うんだけれどね。だから俳人といわれている人はほとんど皆、この句を名句だと言う。

醸楽庵だより  297号  白井一道

2017-01-19 11:52:01 | 随筆・小説

 冬の雨に笑いを見た

句郎 芭蕉忌のことを時雨忌と言うよね。どうしてかな。
華女 芭蕉が亡くなったのが冬だったからじゃないの。
句郎 確かに芭蕉が死んだのは元禄七年十月十二日だったからね。
華女 西暦で言うと何年になるのかしら。
句郎 一六九四年十一月二十八日になるみたいだよ。
華女 現代の感覚でいうと晩秋という感じだけれども、俳句的には冬よね。
句郎 でも、旧暦の十月の季節感を表す言葉は時雨の他にもあるような気がするけれどもね。
華女 そうね。新暦の十一月下旬の頃になると初時雨が降る頃なんじゃないかしらね。
句郎 そうだね。いつ頃から芭蕉忌を時雨忌というようになったのかな。
華女 もう江戸時代から芭蕉忌のことを時雨忌というようになったのかしらね。
句郎 そうかもしれないな。芭蕉は江戸時代から俳諧師の間では有名になっていたようだからね。「芭蕉会と申し初めけり像の前」と芭蕉の三回忌に史邦という門弟が師匠を偲び、詠んでいるしね。また、「芭蕉会に蕎麦切打たん信濃流(しなのぶり)」と云う句も文邦は詠んでいるからね。芭蕉没後すぐ芭蕉庵の前には像まであったようだから。
華女 芭蕉は生きているうちに功なり、名を遂げていたのね。
句郎 生前は名もなく貧しく、死後有名になった俳人じゃないんだ。生前に認められ、生活が成り立ち、当時にあっては考えられないような長期間にわたる旅をした。凄い人だよね。
華女 現代にあっても、芭蕉と同じくらい、旅をしている人というのは少なないのじゃないかしら。
句郎 そうだよね。いつごろから芭蕉忌を時雨忌と言うようになったのかは分からないけれども、俳句の古今集といわれる『猿蓑集』は春からではなく、冬の句から始まり、初めの句が芭蕉の「初時雨猿も小蓑をほしげ也」という句が掲げられているんだ。
華女 古今集にしても普通歳時記というアンソロジーは春から始まっているのに、冬から始めているのは何か、芭蕉には意図があったのね。
句郎 蕉門の人々は翁の句「初時雨猿も小蓑をほしげ也」を誇る気持ちがあったんじゃないかな。
華女 それはどんな気持ちなの。
句郎 それは其角の言葉に出ている。「猿に小蓑を着せて俳諧の神を入たまひければ、あたに懼(おそ)るべき幻術なり」とね。
華女 猿に小蓑を着せたら面白いじゃないかと言っただけの句じゃないの。
句郎 そうなんだ。和歌や連歌に詠まれた時雨に俳諧の時雨を詠んだと其角は胸を張った。和歌や連歌は時雨を寂しい、侘びしいものとして詠んだが、芭蕉は猿に小蓑を着せて時雨を楽しんだ。ここに俳諧の新境地を開いたと其角は主張している。俳諧の神を入れた幻術だと述べている。冬の雨を冷たく、寒い嫌なものとしてではなく、楽しむものとして受け入れた。笑い、諧謔を時雨に発見した。ここに翁と呼ぶ芭蕉の手柄を一番弟子であった其角は胸を張った。時雨に新しい冬の美を発見した。だから芭蕉忌を時雨忌というのかな。

醸楽庵だより  296号  白井一道

2017-01-18 11:11:35 | 随筆・小説

 面白いから芭蕉の紀行文を読む

句郎 芭蕉の紀行文を読む目的は何なのか。分からないとTさんが発言していたが、私には明確な目的がある。
華女 あらっ、そうなの。
句郎 うん、芭蕉はどんな人だったのかを紀行文や俳句を読んで知りたいと思って読んでいるんだけれどね。華女さんはどんな目的で芭蕉の紀行文を読んているのかな。
華女 そうね。私は幅広く日本の古典文学というか、文化に興味があるのかな。歎異抄や風姿花伝なんかも読んだ経験があるからね。
句郎 親鸞や世阿弥にも興味をもって勉強したんだ。
華女 市民参加の会に入って読んだだけなんだけどね。もちろん定年退職後のことよ。
句郎 でも、凄いよ。
華女 それから私は俳句に興味があるからね。芭蕉の俳句を読めば上達するかもしれないと思ってね。
句郎 そうなんだ。みなさん、それぞれ目的は違っていいと思うんだ。
華女 確かに私もそう思うわ。ただ、面白くなくちゃ、嫌ね。だって欠伸を我慢して読んでみたって意味ないと思うわ。
句郎 確かに、そうだよね。昔、何回か、この会に参加してくれたYさんという同年代の方がいたんだ。その頃は紀行文の朗読を参加者全員の方々に順々にしていただいてたんだ。学校の授業のようにね。だから勿論、Yさんにも読んでいただいたんだ。その後、飲み会で彼は言っていた。朗読するのは嫌だとね。だからそれからというものは、朗読は私のみがするようにしているんだ。
華女 あらっ、そうだったの。私も確かにちょっといやだったかな。そうでしょ。古文は詠みづらいのよ。普段使っている言葉と違うでしょ。つっかえたりすると恥ずかしいじゃないの。
句郎 そうだよね。だから、私も読む練習をして参加しているんだ。
華女 そうだったの。やっぱりね。誰でも練習しなくちゃね。
句郎 昔、現役の頃、父母の前で生徒の書いた作文を朗読したことがあるんだ。その時、父母の中に有名な放送局のアナウンサー経験者がいたんだ。その方が私の朗読を聞き、後で先生は朗読の訓練をどこかでされたことがあるんですかと、聞かれたんだ。
華女 へぇー、句郎君の朗読が上手だったのかしらね。まぁー、お世辞じゃないかとは思うけれど。
句郎 そうだよね。でもね、お世辞にしても、少し自信を得たような気がしたんだ。
華女 そういうものよ。けなされちゃ誰でもいい気持はしないわ。
句郎 そうでしょ。だからできるものなら、参加者全員の方々が充実した時間を共有できたらいいなぁーと思って読んでいるんだけれどね。でも笑いがあれば、いいのかというとそういうものでもないと思っているんだ。
華女 俳句は笑いだと言うじゃない。だから楽しい会であってほしいと思うわ。
句郎 そう、「笑い」、我々庶民にとって、高齢者といわれる年齢の者にとって笑いは大事だよね。普段の日常生活には笑いはないからね。
華女 夫婦喧嘩はあっても、笑い合う夫婦というのは、少ないのじゃないかと思うわね。

醸楽庵だより  295号  白井一道

2017-01-17 13:17:56 | 随筆・小説

 俳句はコトでなく、モノを詠む

句郎 先日、俳句はコトではなく、モノを詠むもの。こんな話を聞いた。
華女 私も聞いたことがあるわ。秋元不死男が言ったような話を聞いたことがあるわ。
句郎 「鳥渡るこきこきこきと罐切れば」が有名な句を詠んだ人かな。
華女 そうよ。戦前、治安維持法違反で弾圧された人よね。
句郎 「こきこきこきと」という言葉の響きに自由への万感の思いがこもっているということかな。
華女 そうかもしれないわね。囚われの身になった人だからね。
句郎 「紅梅の照り板の間に父の飯」という句と「紅梅や板の間に父飯を食ふ」では、どちらの句が余韻が深いかな。
華女 そりゃ、「紅梅の照り板の間に父の飯」の方なんじゃないかしらね。
句郎 そうでしよ。「父の飯」というモノを表現しているから余韻がある。それに対して「父飯を食ふ」ではコトを表現しているから俳句にはならないということを秋元不死男は言っている。俳句はコトではなく、モノを表現するもの。納得できる話なんだ。
華女 私も同感だわ。
句郎 敗戦忌や広島忌はコトであってモノではないから季語としてはどうかという話があった。
華女 歳時記には載っているわよ。でも確かに季語はモノよね。
句郎 そうだよね。しかし季節感はあるよね。広島忌にしても、敗戦忌にしても夏の季節感は定着しているんじゃないかな。
華女 芭蕉忌は時雨忌ともいうから冬よね。芭蕉の句全体に冬のイメージがあるみたいね。
句郎 コトではあっても季
節感があるから忌日というのは季語に収録されているんじゃないかと思うんだ。
華女 そうかもしれないわよ。
句郎 早稲田大学に堀切実という近世文学者がいるでしよ。
華女 あっ、そう。知らないわ。
句郎 堀切氏が「現代俳句にいきる芭蕉」という著書の中で「物」があって、そこに人の「心」がふれれば、おのずと「事」が発生する。「モノ」を描く俳句の表現は結果として「コト」を表現する。このようなことを述べている。「紅梅の照り板の間に父の飯」という秋元の句は父が紅梅の照る板の間で飯を食っている「コト」を表現しているとね。俳句は「モノ」を描いて「コト」を表現する文芸だとね。忌日というものには人々の深い思いが込められている。しかも忌日には季節感もあるから歳時記に載っている。季語にも人々の思いが込められているから忌語は季語だと長谷川櫂は主張している。大事なことは「モノ」を意味する言葉に人々の思いがどれだけ籠っているかいうことなんじゃないかな。
華女 季語には確かに人々の思いが籠っているように思うわ。同じように地名もそうなんじゃないかしら。今や「フクシマ」は全世界に知られるようになった地名よ。だから「福島忌」というような言葉が歳時記に掲載される時代がくるかもしれないわね。
句郎 芭蕉にとって近江がそうだったようにね。
華女 「行春を近江の人とをしみける」ね。春日部じゃ句にならないのね。

醸楽庵だより  294号  白井一道

2017-01-16 12:12:13 | 随筆・小説

 切字「や」を芭蕉は発見した

句郎 「おくのほそ道」、旅立ちの句を覚えている。
華女 「行春や鳥啼魚の目は泪」だったかしら。
句郎 しっかり覚えているなぁー。まだまだ頭は若いということなのかな。
華女 頭だけじゃないわよ。
句郎 身体年齢は五十台くらいかな。
華女 三十代と言いたいところだわ。
句郎 平泉で詠んだ「夏草や兵どもが夢の跡」、立石寺で詠んだ「閑さや岩にしみ入蝉の声」、象潟で詠んだ「象潟や雨に西施がねぶの花」。これらの句には句の構成が共通しているよね。
華女 そうね。体言の上五に「や」をつけて切り、下五を体言で結んでいるのよね。
句郎 このような句の構成法を二句一章というらしいね。
華女 そうよ。取り合わせの句の代表的な構成方法なのよ。
句郎 大須賀乙字という明治の頃の国文学者が俳諧を学び、代表的な俳句構成法を二句一章と言ったようなんだ。
華女 あっ、そうなの。じぁー、一句一章というのも乙字さんが言ったことなのかしらね。
句郎 違うみたいだよ。臼田亜波という俳人が「二句一章」という俳句構成法を受けて「一句一章」を提唱したようだよ。
華女 「えにしだの夕べは白き別れかな」亜波の知られた句の一つね。
句郎 この句は一句一章の句だね。
華女 そうね。
句郎 二句一章の句を構成する上五に切れ字の「や」をつけた句は最も俳句らしい俳句っぽい句になるからね。
華女 でも名句は一句一章の構成法の句にあるみたいよ。例えば蛇笏の「おりとりてはらりとおもきすすきかな」とか、「くろがねの秋の風鈴鳴りにけり」は誰もが名句だと言っているみたいよ。
句郎 そうなんだ。今日、僕がね、言いたいことは、俳諧の連歌が誕生してから「や」という言葉が発見されたということなんだ。「古池や蛙とび込む水の音」。この芭蕉の句が広く人口に膾炙されるようになって上五の体言に切れ字の「や」をつける。下五には同じ体言で結ぶ。芭蕉は二句一章という俳句の構成法について述べることはなかったけれども、この構成法は現代の最も初歩的な俳句の作り方になっている。和歌には俳句のような「や」はないようだよ。
華女 そうなの。
句郎 そうらしい。文芸評論家の山本健吉がこのようなことを述べている。蕉風の発句が切れ字「や」を発見したとね。三十一文字の和歌にたいして十七文字の俳句。文字数が十四字減少したことで全く別の文芸が誕生した。哲学的なことを言えば量的変化が質的変化を起こしたということになるのかな。芭蕉は現代社会に隆盛を誇る俳句を創造したと言えるのではないかと、思うんだ。古池という実在するものがイメージする世界の実在感を具象するものが「蛙とび込む水の音」なんだ。中七と下五は上五のリフレーンなんだ。二つのものを取り合わせ、一つの世界を構成する。これが俳句というもののようなんだ。二句一章も一句一章も同じ一つの世界を構成するものでなければ俳句にはならない。切れ字「や」は俳句を創造した。

醸楽庵だより  293号  白井一道

2017-01-15 12:59:04 | 随筆・小説

 俳句は浮世絵

句郎 図書館で木々康子著「春画と印象派」という本が目に留まった。
華女 淫らな気持ちがその本を取り出したのね。
句郎 まぁー、そうなのかな。春画とは浮世絵のことなんだ。浮世絵とは春画だと木々さんは述べている。ジャポニスムの研究家なんだ。
華女 俳句と何か、関係があるの。
句郎 俳句とは浮世絵だと思ったんだ。この世は憂世、憂世を浮世として絵画として表現したものが浮世絵だとしたら、憂世を浮世として文学として表現したものが俳句なのじゃないかと思ったんだ。
華女 なるほどね。
句郎 生きることは楽しい。食べることが何より楽しい。美味しいものを食べると生きている充実感が満ちてくる。満足感が生きている楽しさだとね。
華女 確かにそうよね。綺麗な服を着たり、お化粧したりするのは女の喜びだったりするわ。
句郎 そうでしょ。美味礼賛。仕立ての良い服を身にまとう。気持ちのいい家に住む。これが浮世だよ。ご飯が食べられない。身に着けるものは襤褸ばかり。住む家はあばら家。これでは憂世だよ。
華女 しかし、現実は厳しいものよ。今は働いても働いても十分な生活ができない若い人々が大勢いると言うじゃないの。
句郎 そう。だから現実は憂世。芭蕉三八歳の時の吟。「櫓の声波ヲうつて腸(はらわた)氷ル代なみだ」、今のような暖房器具のない時代、一人住まいの庵で真冬の夜を過ごす侘しさを詠んでいる。憂世をじっと見据えている。同じ時期、「芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉」とも詠っている。この句には笑いがある。浮世だと自分を笑っている。詫びて住む独り者の世界は一幅の絵、浮世絵になっている。そんなふうには感じないかな。
華女 そうね。そうかもね。
句郎 二〇一〇年代の日本と比べたら、元禄時代の日本は厳しい、厳しい時代だった。それでも徳川封建制社会の底辺に生きた平民たちの生活は豊かになった。金儲けに勤しむ町人たちは生活を楽しんだ。美味しいものを食べ、派手な衣装を身に着け、酒や煙草、謡、俳句を楽しんだ。
華女 生活を楽しむ庶民の姿を表現したものが浮世絵だったのね。
句郎 庶民の生活を表現したものだから、浮世絵は高等なものだとは誰も思わなかった。下品なものだとして人々は扱った。俳句もまた高等な文学だとは誰も思っていなかった。俳句をする人間は下等な輩だと蔑視されていた。下品な遊びとみなされていた。なぜなら浮世絵は春画にその本質が表現されているからね。生きる喜びとして性が表現されているからね。その喜びは美味しいものを食べる喜びに通じるものがある。金子兜太の句に「夏の山国母老いてわれを与太(よた)と言う」がある。医者の家に生まれた兜太は母に俳句をするもの、与太だと言われていた。俳句をするものは与太者だった。そのような意識が知識階級の一部に残っている。
華女 へぇー、そうなの。
句郎 俳句は春画のようなものだからね。この春画を高く評価したのが西洋近代の画家たち、印象派と言われたモネやゴッホ、マネたちだった。光に満ちた喜びを浮世絵に発見したからね。

醸楽庵だより  292号  白井一道

2017-01-14 12:11:01 | 随筆・小説

句郎 「家はみな杖に白髪の墓参」。元禄七年、芭蕉はこの句を詠んでいる。お盆の光景が瞼に浮かぶ。三百年前も今と同じような風景があったんだと身近に感じる句だよね。
華女 そうね。元禄七年というと芭蕉が薨った年じゃなかったかしら。
句郎 そうなんだ。元禄七年(1694)は芭蕉の晩年なんだ。
華女 確か故郷の伊賀上野に帰り、墓参した時の句なのかしらね。
句郎 そのようだよ。このとき芭蕉は若かった頃、一緒に生活したこともある女性、寿貞尼を追善する句を詠んでいる。「数ならぬ身となおもひそ玉祭り」とね。
華女 芭蕉は思いやりの深い人だったのね。
句郎 私などと自分を卑下することはないよ。あなたには本当にいろいろお世話になりました。ありがとうございました。そんな寿貞尼にたいする思いを詠んだ句がこの句なんじゃないかと思う。
華女 追善句のお手本ね。
句郎 そうなのかもしれない。亡くなった人を思う気持ちを詠んだ句が追善句というか、現在の忌日の句なのかもしれない。
華女 忌日は季語になっているわよ。時雨忌と言えば、芭蕉忌のことよ。
句郎 「芭蕉忌に蕎麦切打ん信濃流(しなのぶり)」と蕉門の一人、史邦(ふみくに)は芭蕉の三回忌に詠んでいるからね。
華女 史邦は信濃の蕎麦を打って、参会者とともにお蕎麦を食べて師匠、芭蕉を偲んだなのね。
句郎 芭蕉が亡くなった十月十一日に法要を行い、蕎麦を食べたというだけの句のようだよね。
華女 なんか、芭蕉への思いが詰まっている句とは言えないようにも思えるわね。
句郎 そうだよね。「うづくまる薬の下(もと)の寒さかな」という丈草の句には芭蕉への思いが籠っているよね。
華女 旅に病んだ芭蕉の枕元で詠まれた句なのかしら。
句郎 そのようだよ。十月十日、死の前日、芭蕉の枕元には看病の弟子たちが枕元を囲んでいた。そのとき、弟子たちはみな句を詠んだ。
華女 この丈草の句には心の奥底に沈んでいく寒さのようなものがあるわね。
句郎 この句は追善句だと言ったら間違っているような気がするとけれども芭蕉を思う気持ちの深さのようなものがあるよね。芭蕉が亡くなった後、丈草は義仲寺の無明庵で三年間一人で喪に服した。そんなことをした芭蕉の弟子は丈草だけだった。
華女 丈草の芭蕉への敬愛の念は深かったのね。
句郎 丈草は芭蕉の死後、「ゆりすわる小春の海や墓の前」という句を詠んでいる。この句には「言葉を超えた無言の悲しみ」があると長谷川櫂氏は言っている。芭蕉への思い、誠が芭蕉忌、時雨忌と言う言葉を季語にした力だと長谷川櫂氏は述べている。現代に生きる俳人たちにとって思いの丈の深い亡くなった人がいる一方寂れていく忌日がある。現代に生きる我々にとって思いの丈の深い言葉が季語というものなんだと長谷川櫂氏は主張している。仲間の一人が季語とはそのものの旬を表現した言葉と述べていた。ネギは一年中あるけれどもネギの旬は冬。冬の根深汁は実に美味しい。季語とは忌語である。

醸楽庵だより  291号  白井一道

2017-01-13 12:58:30 | 随筆・小説

 俳句は老後の楽しみ

句郎 「俳諧は老後の楽しみ」と今から3百年も昔に芭蕉さんは言っていたようだよ。
華女 へぇー、現代でも通じる言葉ね。
句郎 そうでしょ。さらに「予が風雅は夏炉冬扇のごとし。衆にさかひて用る所なし」とも言っていたらしい。
華女 確かに、そうよね。俳句を詠んで生活できるわけないものね。俳句は夏の火鉢、冬の扇子よね。だからといって世間様に背くようなことは何もありませんということかしらね。
句郎 生活のため、お米を得ることもしなければ、鍬や犂を作るともしなかった。ただ「四季の変化をしり、天地の本情」に遊ぶきっかけが提供できたかもしれないぐらいです、というようなことも言っているようだよ。
華女 芭蕉は自分がしていることは遊びだと思っていたのね。
句郎 生活のためにはならないということを知りながら俳諧の道に芭蕉は入っていった。そういう事って今でもあるんじゃないかな。ギターを弾いている男の子がいる。大学には行かない。ギターを弾き、曲を作っていくんだと大宮駅前のスロープの上で毎日、高校卒業後夕方になると自分の作った歌を唄っていた男の子がいた。アルバイトをしては夕方になるとギターを弾いていた。
華女 で、その子はその後、どうなったの。
句郎 一年間、ギターを弾いていたが、自動車整備学校に進学し、親父の跡を継いで自動車整備工場で仕事をするようになった。
華女 初志貫徹できなかったのね。
句郎 うん、でもね。彼がギターを弾いていると毎日、彼のギターを聞きに来てくれた女の子がいたそうなんだ。その彼女と彼は結婚し、真面目な自動車整備士として一家を構える常識人になった。
華女 ほほえましい話ね。
句郎 そうなんだ。彼には自動車整備士への道があったから良かったけれどね。芭蕉にはそのような道が何もなかった。
華女 江戸時代、農民身分の者が江戸に出て来てつける仕事というと何なのかしら。
句郎 丁稚がいいほうなんじゃないかな。丁稚になるには十歳ぐらいの子供からだろうから、芭蕉が江戸に出てきたのは二九歳だからね。ほとんど、仕事らしい仕事にはつけなかったんじゃないかな。
華女 だから、芭蕉は俳諧に命を懸けたのかもしれないわね。
句郎 生活のたしにならない俳諧の道に入っていった。元禄時代は商業が発展していた時代だったから、生業を息子に譲り、余暇を得た老人の遊び、俳諧宗匠として生きる道を切り開こうとしたんじゃないのかな。
華女 暇な老人の遊び相手になったのね。
句郎 まぁー、一種の太鼓持ちなのかな。悪く言えば男芸者。芸能者が俳諧師だった。今も昔も芸能の世界は身分差別は少ない社会だ。有名な女性の演歌歌手は芸能プロダクションの男の社長を首にする。力のある者が誰からも敬われる。これが芸能の社会だからね。俳諧の力を持った芭蕉は江戸時代の身分社会を生き抜くことができたのじゃないかな。「俳諧は老後の楽しみ」。芭蕉の言葉。

醸楽庵だより  290号  白井一道

2017-01-12 15:49:21 | 随筆・小説

  北方領土の島々がロシアから返還されなかった理由

 2016年12月15、16日、ロシア大統領プーチンが来日した。71年間、日本固有の領土歯舞、色丹、国後、択捉がロシアに併合されたままになっている。ヤルタ会談で米英の了解を得て、ソ連のスターリンが日本の領土を奪ったものである。
1945年、日本が連合国側に無条件降伏して以来、21世紀になった今になってもロシアとの講和条約が結ばれないまま、現在に至っている。本当に悲しい現実である。北方領土に住んでいた人々は老い、故郷を失ったままになっている。この人々の願いを実現するのが政治家の役割である。
 シベリアに抑留されている旧日本兵の帰国実現を悲願とした鳩山一郎首相は国交のないソ連に1956年、モスクワに乗り込み、抑留された旧日本兵帰国を実現させ、北方領土返還の交渉をした。その共同宣言では、「ソ連は歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」と明記されることになった。こうして北方領土の一部が返還される望みがかなったかに思えたが、このニュースを知った当時のアメリカ国務長官ダレスは重光葵外相に対し「二島返還を受諾した場合、アメリカが沖縄を返還しない」という圧力(いわゆる「ダレスの恫喝」)があった。
ソ連もまた北方領土を日本に返還した場合、そこに米軍基地が建設される可能性がある以上、北方領土の返還はしないという意思を表明した。
 日本固有の領土、北方領土が70年以上もの間、日本に帰ってこない理由は、米ソ冷戦があったからである。冷戦が終わった以上、米軍基地は縮小されていくものと思っていたがどうもそうではなさそうだ。沖縄では辺野古に米軍の新基地をなんと日本人の税金で日本政府が作ろうとしている。冷戦が終わるとソ連はワルシャワ条約機構軍を解体したが、アメリカはNATOを解体しなかった。
 プーチンの訪日が伝えられると日本のメディアは北方領土返還の実現を思わせるような報道が相次いだ。私も北方領土の一部でも返還されるのかと思っていたが実現しなかった。なぜ実現しなかったのか。デモクラテレビでの山田厚史さんの話を聞いて分かった。「ダレスの恫喝」が今もあったのだ。ウクライナ問題をめぐって日本はロシアに対して経済制裁をしている。にもかかわらず、安倍政権はロシアと交渉し、シベリア開発に協力したいと申し出た。その話にプーチンも乗ってきた。だから北方領土の返還が実現するかもしれないと憶測が生じたのだ。このような提案をしたのが今井尚哉、安倍首相の主席秘書官だった。このような官邸の動きに不快感を持ったアメリカの意を汲んだ外務省OBの谷内正太郎が2016年11月、ロシアに赴き、プーチン来日の予備会談の席で発言した。ロシアは日本側に確認した。北方領土を返還した場合、歯舞諸島や色丹島に米軍基地を作らせないと約束できるかとの問いに対して、谷内氏は「その可能性は否定できない」と返答した。日米同盟を至上命令とする日本の外務省が北方領土返還をぶち壊した。経済産業省の意向を受けた今井尚哉と外務省の意向を受けた谷内正太郎との間に齟齬が生じた。官邸に罅が入った。
プーチンは安倍総理との共同記者会見で述べていた。ダレスの恫喝に触れ、日本の国民のみなさん、と話かけた。ウラジオストックにはロシアの軍港があります。その先に米軍のレーダーや基地があったら、ロシアの軍艦は動きがとれなくなってしまうでしょう。ロシアは北方領土の返還はできません。これがプーチンの主張だった。
 安倍首相はプーチンにやられてしまった。3400億ドルを取られてしまった。北方領土返還を実現し、衆議院を解散。総選挙、自民党の圧勝。憲法改正の夢が吹っ飛んだ出来事だった。