「自分で気づくまで無理」
これはSアンチブログで、決め台詞のように使われている言葉である。
私もそう思う。
人が何と言おうと「自分でそうだな」と納得しない限り、自分の心は決まらない。
まして、一生懸命になんて絶対にできない。
それは教団にいた時も同じで、いくら誰から何を言われようと指導されようと「自分でそうだな」と納得しない限り、人は他人の考えは動かせないと思う。
先日書いた、
S活動は「必死になる使命」ではなく「善意のボランティアの範囲」で、必死になって責任感をもつべしは仕事や家庭と思った。それに差し障りがあることはノーと言った。
というのは、結局は「自分でそう思ったから」
私だって雨あられのように「そう指導された」という環境にいたのは違いないんだけど、いくら言われてたとしても自分でそう思わない限り、影響されないというか、身にはならないと思う。
「自分で気づくまで無理」と同じように。
私だって雨あられのように「そう指導された」という環境にいたのは違いないんだけど、いくら言われてたとしても自分でそう思わない限り、影響されないというか、身にはならないと思う。
「自分で気づくまで無理」と同じように。
気に入らないことは簡単に「やらされた」というけど、都合のいいことは「自分で気づくまで無理」となるのは何故だ?
「やりたい時はやって、やりたくない時はやめた」は不人気で、「コントロールされていた」が人気なアンチブログ。
でも、それが救いになることは解る。
それこそが大切にしなければならないことだとも、思う。
私も両方書いてみたけど、個人的に「好き」なのは前者。
不人気を受けても(笑)前者。