鴨着く島

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スーパーボランティア・尾畠春夫氏

2018-09-24 09:30:41 | 母性

8月のお盆の頃、山口県の周防大島の実家に帰ってから行方不明になった2歳児を、地元挙げての二日間にわたる大捜索で見つけられなかったにもかかわらず、3日目の早朝に大分県日出町の自宅から出発して3時間後、たった20分で捜し出してしまった尾畠春夫さん。

これも快挙だったが、彼のボランティア活動のすさまじさが知れるにつれて、世間ではそっちの方こそ興味津々といった報道がなされるようになった。

まず、年齢。2歳児を救助した時点で御年78歳、この10月で79歳になるそうだ。

東日本大震災では数か月も自分の軽ワゴン車で寝泊まりして、ボランティア活動をしている。今から7年前だから、その時すでに71歳だった。多分、最年長、最長期間のボランティアだったろう。

風貌も人目を惹く。工事現場のとび職のような赤いつなぎの服に赤いタオルのねじり鉢巻き。

人柄も強烈なキャラクターでありながら謙虚そのものなのは、多くの報道のインタビューでそれと知れる。

 

ゆうべのテレビ番組《情熱大陸》では、この尾畠さんの特集を放映していた。

尾畠さんは65歳の時に、それまで繁盛していた鮮魚商をやめ、本格的にボランティアの道に入ったそうだ。

鮮魚商を営んでいるうちに、登山を趣味として始め、登山道の整備などのボランティア活動を開始し、地域の中でも数々のそういった活動に取り組んだという。

趣味の活動に付随して登山道や道しるべなどの整備をしたり、子供がまだ小中学校に通っていればPTA行事や子供会育成活動の中で道路清掃とか登下校見守り活動などをするのは(特に地方では)珍しいことではないが、災害復旧など余所に出てのボランティア活動はそうそう誰でもできるというものではない。

尾畠さんは65歳で惜しまれながらも鮮魚商をきっぱりと廃業し、その後は年金のみの生活の中でボランティア活動に生きがいを見つけて今日まで来た。

番組でもそれ以前の報道でもいまいち明確ではないのだが、二人の子供がいてそれぞれ独立していることと、奥さんとは5年前に別居したままだということは窺い知れた。ただ、気になるのは奥さんとの別居の理由だが、悪い別居の仕方ではないだろうとは忖度できる。

子供時代はひどく貧困だったようで、「道に落ちていた食べ物を拾って食べたこともある」「カタツムリを焼いて食べたりした」と本人が語っていた。

12歳の時に母親を亡くし、中学へは上がったものの近隣の農家の手伝いをして糊口をしのいでいたため、まともに通ったのは4か月くらいだったそうだ。

中学を卒業するとすぐに鮮魚商の見習いに入り、数か所を修業して歩いたあと、さらに開業資金を貯めるために工事現場で働き、10年後に地元に帰って念願の鮮魚商を始めた。

その後の結婚、子育て、そして数々の地域活動と順調な人生を歩んだのだが、40年後の65歳になった時、せっかく地域の人気店として繁盛していた店を閉めることにしたのである。ここは誰しも首をかしげるところだ。

報道では本格的なボランティア活動をするため、というようなことだったが、自分もやや納得のいかない商売の閉じ方だと思った。

おそらく、まず、後継ぎがいなかった。これが最大の理由だろう、と感じた。次に繁盛していたから相当な蓄えができて、いわゆる「楽隠居」のような心境になったからだろう、とも思ってみた。

しかし後者はすぐに否定されなければなるまい。貯蓄云々について、それは多少は無いわけはないだろうが、何よりも現時点で「楽隠居」ではないではないか。

本人も、「今は月に6万くらいの年金収入だけだよ」とあっけらかんと言うが、その言外に「実は預貯金や株式など資産は暮らしに困らないほどある」という現実があるようにはどうしても見えない。真っ正直な人柄だからだ。

 

昨日の《情熱大陸》で、尾畠さんの次のように語った場面がすべての懸念(忖度)を晴らしてくれた、と思う。

テレビカメラが尾畠さんの家の内部に入りかけた時、居間の入り口に誰かからの(おそらく子供の誰かの)差し入れが置いてあった。

尾畠さんは、ああ、と言いながら、それを持って仏間に行き、仏壇の上に置いてある母親の遺影に供え、「母ちゃん、差し入れがあったよ」と手を合わせた。

尾畠さんがまだ12歳の時に亡くなった若い母親(母○○さんのテロップが流れたがその名前を失念した)の姿が垣間見えたが、別の場面で尾畠さんはしみじみと涙を浮かべながら、

「母も俺があちこち行ってボランティア活動をしているのを見ていてくれると思う。俺が向こう(死後の世界)に行ったら、母に会えて、その時に、よくやったね、偉かったねと抱きしめてくれたら、と思う。本当に強くだ、ろっ骨が折れるくらいにね」

これで尾畠さんのボランティア活動への情熱のモチベーションが判明した。

ひとことで言えば、「母への恩返し」。

尾畠さんが12歳の時に死んでしまった母への強い思慕もだが、戦後の極貧の生活の中で母が自分たちに尽くしてくれた姿を見ていて、「俺は大きくなったら一生懸命仕事をしてお母さんを楽にしてやりたい」とは子供ならほとんどがそう思う。

尾畠さんの場合は、多分「俺は将来頑張って母を楽にさせるぞ」という思いがふつふつと湧き上がって来たのだが、その矢先に、楽をさせてやりたい当の母が死んでしまった。

母の死による自失感と、母への孝行という目標の喪失感とが二重に襲って来たに違いない。

しかし、茫然自失しているわけにはいかない。それでも生きていかなければならないので、学歴も何も要らない腕一本で生きられる鮮魚商の道を邁進した。

資産も潤沢な時があったのだろうことは、自宅の構えでわかるし、それなら超立派な墓を母のために建てて「めでたし、めでたし」という行き方もあったろうが(母親の墓について格別に云々は番組の中ではなかったが)、尾畠さんは違う道を選んだ。

尾畠さんが最大残念に思うことは、俗にいう「孝行をしたいときには親は無し」で、いくら自分が資産家になり世に出ても、恩返しをしたい母がいなければ何の意味もないーーという地団太を踏みたい思いだろう。

この思いが鮮魚商として成功しても、どこか胸の片隅にやり切れぬ想いとして常にあったことは容易に想像できる。

そこで選んだのがボランティア活動による「社会への恩返し」で、尾畠さんは母親が極貧の中で自分たちに尽くしてくれたあの姿を、今度は災害にあえぐ地域の中で再現しているのだろう。

母親との共有感覚というより一体感が尾畠さんを衝き動かしているように思われる。特に印象付けられたあの2歳児のあっという間の発見は、尾畠さんの中の「母」の存在の賜物に違いない。

80歳近い老人にして「母に抱きしめられたい」と語るあの言葉。ああ、母よ、汝は偉大なり。