クマソについて①では、記紀に描かれたクマソを取り上げ、②ではそれに基づいた解釈において「熊」という漢字の由来と原義を考察することにより、「熊」は決して単に動物の熊のような「獰猛・暗愚」を象徴する言葉ではなく、本場中国ではむしろ「高潔・賢慮」という意味の方が強いことを紹介した。
さらに熊の原義である「火を能くする」の「火」は、南九州においては文字通り火山活動の「火」であり、そういう環境の中で果敢に住み続ける畏怖すべき南九州人(曽人=そびと)に熊を冠して「熊襲(曽)」としたのであり、蛮族としての「熊襲」は誤りであるとした。
以上のように、私見では従来のクマソ解釈とは全く正反対の結論になったが、私の説にやや被さるような解釈を示した先人に、早稲田大学教授だった日本史学の水野裕がいるので紹介しておきたい。
水野裕はかって一世を風靡した「祟神天皇騎馬民族説」(江上波夫東大教授)の応神天皇版、俗に「ネオ騎馬民族説」を提唱している。記紀では第10代とされる祟神天皇が朝鮮半島を経由して日本列島に乗り込んで王朝を樹立したのが江上説なら、第15代とされる応神天皇が南九州から東征して王朝を樹立したのが水野説である。
水野はやはり神功皇后が応神天皇を出産するのと入れ違うかのように「熊襲」が史料上から消えてしまうのに目を付け、さらに魏志倭人伝の時代の倭国内の状況を勘案して次のような説を立てている。
<水野学説による応神東征>
水野によると、クマソは魏志倭人伝上の「狗奴国」であり、かって後漢に貢献して光武帝から金印をもらった九州北部の奴国が南部九州に移動して発展した国である。しかも九州島において騎馬で大いに駆け巡っていた。力を蓄えた熊襲勢力が南九州から中央へ進出し、新しく王朝を樹立した。
九州島における騎馬の証拠および史料は明らかではないが、推古女帝が蘇我氏に言ったという「馬なら日向(古日向)の駒」と、『肥前風土記逸文』の値賀嶋(ちかのしま)条に見える「隼人に似た白水郎が牛馬を大量に飼育し、騎射を好んいる」などの記事を参考にしたようである。
九州北部の奴国がなぜどのようにして九州南部に移ったのかの詳しい考察はないが、水野自身が九州南部の日向(古日向)から東征が行われたという史実はあったとみているから生まれた説である。「九州南部の遅れた地域からの東征によって大和の初代王権が樹立された、など金輪際あり得ない」とする現代の定説からすれば驚くほど大胆である。
さらに有名な学説が「三王朝交代説」だ。江上説では北部九州から東征して最初の王朝を打ちたてたのは祟神天皇であった。水野の説では東征の主人公は応神天皇で南九州から畿内へ入り、古来から大和に王朝を開いていた祟神天皇を打破して新しく王朝を樹立したのであった。
水野説では祟神王朝は大和土着の王朝であり、これを「古王朝」、応神天皇と時代の仁徳天皇の王朝を「中王朝」、継体天皇の王朝を「新王朝」と名付け、この王朝変遷を「三王朝交代説」として世に問うたのである。
この学説は江上波夫の「祟神天皇騎馬民族説」ほどセンセーショナルではなかったが、日本古代史学に大きな一石を投じ、今日でもよく引き合いに出されている。
だが残念ながら応神・仁徳天皇辺りまでは「史実の裏付けが乏しい」との理由で、実在をいぶかる立場をとる学者が多い。勢い、「神武東征は勿論だが応神東征もあり得ない」という結論になっている。
<魏志倭人伝とクマソ>
私見では魏志倭人伝上の「狗奴国」は今日のおおむね熊本県域(肥後)、その南部には「投馬国」があった。「投馬国」の領域は今日の鹿児島県と宮崎県を含む広大な領域(日向=古日向)で、戸数は5万戸もあり、当時としては大国であった。
古事記の国生み神話上の「熊曽国(別名:建日別)」は、魏志倭人伝上の「狗奴国」と「投馬国」とを併せた領域であり、どちらにも共通した地理的特殊性は巨大なカルデラ火山を有するということで括られる。
こういう地理的環境の中で暮らす南九州人は当然農地としては生産性が著しく低く、野山の幸を謳歌するよりも海路に道を見出した。漁労、海運に活路を見出したのである。この状況を反映した神話が「海幸・山幸」、つまり天孫二代目のホオリ・ホスセリの争い説話であった。
(※これはのちのハヤトの生い立ちにも関わってくるが、ハヤトについてはクマソの後に考察したい。)
さて私見では熊曽国のうちの狗奴国を除いた投馬国(日向=古日向)から2世紀代に大和へ東遷したと考えており(この意味ではクマソ東遷だが)、記紀が描く「神武東征」のような勇ましい物語ではなく、むしろ移住に近い大移動だったと見ている。
東遷の主導者は記紀の言う「神武天皇」ではなく、神武の息子とされる「タギシミミ」ではなかったかと考えている。神武東征後に向こうで新しく王妃をめとるが、その間に生まれた子たちにも「カムヤイミミ」「カムヌマカワミミ」と「ミミ」の付く名だが、「投馬国」の王名が「ミミ」であり、女王名が「ミミナリ」というのと完全に符合しているからである。
また古事記では神武にもう一人の皇子がおり、その名は「キスミミ」で、キスミミの方は投馬国(古日向)の大隅半島に残って統治を引き継いだと思う。そしてその子孫に生まれたのがハヤト呼称の時代(7世紀後期~8世紀前期)では肝衝難波(きもつきのなにわ)という豪族であったろうとも考えている。
<朝鮮半島とクマソ>
クマソが史料の上で登場するのは、景行天皇の時代から神功皇后の時代まで、西暦で言うと320年頃から370年頃までのわずか50年くらいであった。
実はこの時代、朝鮮半島南部ではそれまでの「馬韓」「弁韓」「辰韓」の小国家群から、百済、任那、新羅という三つの集合国家へと大きく変貌していたのである。
仲哀天皇のクマソ征伐の時に、神が「討つなら金銀財宝の豊かな新羅を討て。クマソなど何も無い国であるぞ」といさめたというが、このことは新羅とクマソに何かしら繋がりがあったことを示唆している。交易か人的交流(婚姻関係を含む)か、そのどちらもか、いずれにしても仲哀天皇王権にとっては新羅こそが本当の敵だという認識があったのかもしれない。
<クマソ③(最終回)終わり>
さらに熊の原義である「火を能くする」の「火」は、南九州においては文字通り火山活動の「火」であり、そういう環境の中で果敢に住み続ける畏怖すべき南九州人(曽人=そびと)に熊を冠して「熊襲(曽)」としたのであり、蛮族としての「熊襲」は誤りであるとした。
以上のように、私見では従来のクマソ解釈とは全く正反対の結論になったが、私の説にやや被さるような解釈を示した先人に、早稲田大学教授だった日本史学の水野裕がいるので紹介しておきたい。
水野裕はかって一世を風靡した「祟神天皇騎馬民族説」(江上波夫東大教授)の応神天皇版、俗に「ネオ騎馬民族説」を提唱している。記紀では第10代とされる祟神天皇が朝鮮半島を経由して日本列島に乗り込んで王朝を樹立したのが江上説なら、第15代とされる応神天皇が南九州から東征して王朝を樹立したのが水野説である。
水野はやはり神功皇后が応神天皇を出産するのと入れ違うかのように「熊襲」が史料上から消えてしまうのに目を付け、さらに魏志倭人伝の時代の倭国内の状況を勘案して次のような説を立てている。
<水野学説による応神東征>
水野によると、クマソは魏志倭人伝上の「狗奴国」であり、かって後漢に貢献して光武帝から金印をもらった九州北部の奴国が南部九州に移動して発展した国である。しかも九州島において騎馬で大いに駆け巡っていた。力を蓄えた熊襲勢力が南九州から中央へ進出し、新しく王朝を樹立した。
九州島における騎馬の証拠および史料は明らかではないが、推古女帝が蘇我氏に言ったという「馬なら日向(古日向)の駒」と、『肥前風土記逸文』の値賀嶋(ちかのしま)条に見える「隼人に似た白水郎が牛馬を大量に飼育し、騎射を好んいる」などの記事を参考にしたようである。
九州北部の奴国がなぜどのようにして九州南部に移ったのかの詳しい考察はないが、水野自身が九州南部の日向(古日向)から東征が行われたという史実はあったとみているから生まれた説である。「九州南部の遅れた地域からの東征によって大和の初代王権が樹立された、など金輪際あり得ない」とする現代の定説からすれば驚くほど大胆である。
さらに有名な学説が「三王朝交代説」だ。江上説では北部九州から東征して最初の王朝を打ちたてたのは祟神天皇であった。水野の説では東征の主人公は応神天皇で南九州から畿内へ入り、古来から大和に王朝を開いていた祟神天皇を打破して新しく王朝を樹立したのであった。
水野説では祟神王朝は大和土着の王朝であり、これを「古王朝」、応神天皇と時代の仁徳天皇の王朝を「中王朝」、継体天皇の王朝を「新王朝」と名付け、この王朝変遷を「三王朝交代説」として世に問うたのである。
この学説は江上波夫の「祟神天皇騎馬民族説」ほどセンセーショナルではなかったが、日本古代史学に大きな一石を投じ、今日でもよく引き合いに出されている。
だが残念ながら応神・仁徳天皇辺りまでは「史実の裏付けが乏しい」との理由で、実在をいぶかる立場をとる学者が多い。勢い、「神武東征は勿論だが応神東征もあり得ない」という結論になっている。
<魏志倭人伝とクマソ>
私見では魏志倭人伝上の「狗奴国」は今日のおおむね熊本県域(肥後)、その南部には「投馬国」があった。「投馬国」の領域は今日の鹿児島県と宮崎県を含む広大な領域(日向=古日向)で、戸数は5万戸もあり、当時としては大国であった。
古事記の国生み神話上の「熊曽国(別名:建日別)」は、魏志倭人伝上の「狗奴国」と「投馬国」とを併せた領域であり、どちらにも共通した地理的特殊性は巨大なカルデラ火山を有するということで括られる。
こういう地理的環境の中で暮らす南九州人は当然農地としては生産性が著しく低く、野山の幸を謳歌するよりも海路に道を見出した。漁労、海運に活路を見出したのである。この状況を反映した神話が「海幸・山幸」、つまり天孫二代目のホオリ・ホスセリの争い説話であった。
(※これはのちのハヤトの生い立ちにも関わってくるが、ハヤトについてはクマソの後に考察したい。)
さて私見では熊曽国のうちの狗奴国を除いた投馬国(日向=古日向)から2世紀代に大和へ東遷したと考えており(この意味ではクマソ東遷だが)、記紀が描く「神武東征」のような勇ましい物語ではなく、むしろ移住に近い大移動だったと見ている。
東遷の主導者は記紀の言う「神武天皇」ではなく、神武の息子とされる「タギシミミ」ではなかったかと考えている。神武東征後に向こうで新しく王妃をめとるが、その間に生まれた子たちにも「カムヤイミミ」「カムヌマカワミミ」と「ミミ」の付く名だが、「投馬国」の王名が「ミミ」であり、女王名が「ミミナリ」というのと完全に符合しているからである。
また古事記では神武にもう一人の皇子がおり、その名は「キスミミ」で、キスミミの方は投馬国(古日向)の大隅半島に残って統治を引き継いだと思う。そしてその子孫に生まれたのがハヤト呼称の時代(7世紀後期~8世紀前期)では肝衝難波(きもつきのなにわ)という豪族であったろうとも考えている。
<朝鮮半島とクマソ>
クマソが史料の上で登場するのは、景行天皇の時代から神功皇后の時代まで、西暦で言うと320年頃から370年頃までのわずか50年くらいであった。
実はこの時代、朝鮮半島南部ではそれまでの「馬韓」「弁韓」「辰韓」の小国家群から、百済、任那、新羅という三つの集合国家へと大きく変貌していたのである。
仲哀天皇のクマソ征伐の時に、神が「討つなら金銀財宝の豊かな新羅を討て。クマソなど何も無い国であるぞ」といさめたというが、このことは新羅とクマソに何かしら繋がりがあったことを示唆している。交易か人的交流(婚姻関係を含む)か、そのどちらもか、いずれにしても仲哀天皇王権にとっては新羅こそが本当の敵だという認識があったのかもしれない。
<クマソ③(最終回)終わり>