鴨着く島

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南九州の古代人(2)ハヤト②-【二】

2020-06-12 11:31:55 | 古日向の謎
【二】C 元正天皇の時代

元正天皇は文武天皇の姉で諱は氷高皇女。第44代天皇。この時代に「隼人の叛乱」と呼ばれる大きな戦乱があった。

ⅰ.元正天皇霊亀2年(716年)5月16日
「太宰府言(もう)す。薩摩・大隅二国の貢隼人は、すでに8歳を経たり。道路をはるかに隔て、去来便ならず。或いは父母老疫し、或いは妻子ひとえに貧ならん。請う、6年を限りに相替えせしめんことを。 並びて許す。」

貢上された隼人とは、702年の薩摩国建国時と713年の大隅国建国の時の反乱で捕虜となり、連行されて来たハヤトを中心に上京させられたハヤトたちであろう。

8年の労役を課せられていたわけだが、ハヤトの中でも青壮年が中心だったろうから郷里に残された父母や妻子は働き手を失い、貧苦に陥っていたに違いない。

太宰府は薩摩・大隅両国からの訴えを都に伝えたのである。そうしたら8年を2年短縮して6年で帰れるようになった(ただし、交代要員と引き換えに)。わずかながらも困苦の緩和がなされたわけである。

ⅱ.元正3年(養老元年=717年)4月25日
「天皇、西の朝に御す。大隅・薩摩二国の隼人等、風俗歌舞す。位を授け、禄を賜うこと各々差有り。」

捕虜として連行されたハヤトのほかに6年交代で定期的に貢上されるハヤトがいた。「番上隼人」というが、彼らの中にいわゆる「隼人舞」のたぐいを演奏したり舞ったりできる者たちがいたであろうことは想像に難くない。志賀剛という人は『日本芸能史』の中で、隼人舞こそが芸能の原点だったという説を出している。首肯できる説である。

ⅲ.元正6年(養老4年=420年)2月29日
「太宰府言(もう)す。隼人反し、大隅国守・陽候史麻呂(やこのふひと・まろ)を殺す、と。」
ⅳ.同年          3月4日
「中納言正四位下・大伴宿祢旅人を以て征隼人持節大将軍と為す。授刀の助に従五位下・笠朝臣御室、民部少輔従五位下・巨勢朝臣真人を副将軍とす。」
ⅴ.同年          8月12日
「勅すらく、隼人を征する持節大将軍・大伴旅人は宜しく入京すべし。ただし副将軍以下は隼人いまだ平らげず、宜しく留まりて駐屯すべし。」
ⅵ.元正7年(養老5年=721年)7月7日
「征隼人副将軍・笠朝臣御室、巨勢朝臣真人等、還帰せり。斬首・獲虜あわせて1400余人なり。」

番上隼人の制度が軌道に乗り始めた矢先のことであった。養老4年(720年)2月の太宰府からの急使は驚くべきことを告げた。大隅国司である陽候史麻呂がハヤトに殺害されたというのである。

国司・陽候史麻呂(やこのふひと・まろ)の「陽候史氏」は『新選姓氏禄』には隋の煬帝の後裔とある。古典に通じ仏教にも造詣があったようで、『国分市史』などによると養老4年の正月の仏教による祭式に出かける途中、隼人の襲撃に遭い落命したらしい。

当時の政府は律令制度のほかに仏教の普及を中央集権の柱にしていた。しかし古来からの信仰を守っているハヤトにとって、仏教の浸透は魂の揺らぎに繋がったのだろう。

政府は出来たばかりの大宝律令に基づき、征隼人軍を送った。その総大将は大伴旅人(家持の父。後の太宰帥)であった。

3月4日に命令を受けて出発し、航路を南九州に取った。斉明天皇は百済支援のため九州の朝倉宮に到るのだが、その途中、難波から伊予の熟田津港まで14日を要したことから類推するとおよそ難波津から南九州までおよそ40日ほどの航海ではなかったかと思われる。

ハヤトと一戦を交えていた夏8月に、総大将の旅人は突然都に戻される。そのわけは右大臣藤原不比等の死にあった。政府高官(中納言)として葬儀に参列するためである。

翌養老5年(721年)7月7日、旅人を除く副将軍二名が政府軍を引き連れて戻って来た。ハヤトの戦死(斬首)と捕虜併せて1400人余りという戦果であった。

「隼人の叛乱」と称される戦いは政府側の勝利に終わった。律令制下の中央集権の基本である「班田収授」「租庸調の上納制度」「仏教の国教化」を押し付けてくる政府へのハヤト側の反発は空しくなったのである。

ⅶ.元正8年(養老6年=722年)4月16日
「陸奥の蝦夷、大隅・薩摩の隼人を征討せし将軍以下、及び有功の蝦夷ならびに訳語人(おさ=通訳)に勲位を授けるに各々差有り。」

蝦夷の叛乱(720年9月~721年4月)と、隼人の叛乱を征討した将士に今ごろになって勲位を授けているが、遅れたのは721年12月に太上天皇(前代の元明天皇)が崩御したからである。

面白いのは「有功な蝦夷」がいたことだ。おそらく政府軍に戦わずして帰順した蝦夷で、すすんで仲間に帰順を呼びかけたのだろう。ハヤトが揃って最後まで戦い抜いたのとはだいぶ違うようだ。

ⅷ.元正9年(養老7年=723年)4月8日
「太宰府言(もう)す。日向・大隅・薩摩三国の士卒は隼賊を征討してしきりに軍役に遭い、兼ねて年穀登らず。こもごも飢寒に迫れり。謹みて故事を案ずるに、兵役以後は時に飢疫あり。望むらくは天恩を降し、また3年を給わんことを。これを許す。」
ⅸ.同年        5月17日
「大隅・薩摩二国の隼人等624人朝貢す。」
ⅹ.同年        5月20日
「隼人に饗(みあえ)を賜。賜う各々その風俗歌舞を奏す。酋帥(ひとこのかみ)34人に位を叙し、禄を賜うこと各々差有り。」
ⅺ.同年        6月7日 
「隼人、郷に帰る。」

隼人の叛乱が終結した2年後、これも薩摩・大隅・日向の国府から太宰府に訴えられたのだろう、戦乱による損耗が激しく、租庸調の上納などできそうもないので、あと三年先送りさせて欲しいという請願が出され、許されている。

その答礼と思われるのが、624人にも上るハヤトの大使節団である。その中には34名の酋帥(ひとこのかみ)がいるが、多くは薩摩・大隅・日向の各郡のトップクラスだろう。それぞれが禄と勲位を授かっている。

そしてまたもや風俗歌舞の披露である。624名の中に女は含まれていないだろうから、これらはすべて男舞である。

ハヤトの神話的祖先であるホデリ(ホスソリ)が釣り針をめぐって争い、弟の皇室の祖であるホホデミに降参した時に舞い踊った(手を広げてゆらゆらさせた)のが起源のようだが、それならば確かに男舞でなければなるまい。

皇室にあらがったハヤトの姿は、皇室の祖のホホデミと争ったホデリ(ホスソリ)と重なり合うのである。


  D 聖武天皇の時代

ⅰ.天平元年(729年)6月21日
「薩摩隼人等、調物を貢ず。」
ⅱ.同年      同月24日
「天皇、大極殿に御す。閤門の隼人等、風俗歌舞を奏す。」
「隼人等に位を授け、禄を賜うこと各々差有り。」
ⅲ.同年      7月20日
「大隅隼人等、調物を貢ず。」
ⅳ.同年      同月22日
「大隅隼人の姶良郡少領・加志君和多利(かしのきみわたり)、佐須岐君夜麻等久久売(さすきのきみやまとくくめ)並びに外従五位下を授く。自余、位を叙し、禄を賜うこと各々差有り。」

聖武天皇の天平元年(729年)、夏の終わりから初秋にかけて、まず薩摩隼人が朝貢し、少し遅れて大隅隼人が朝貢にやって来た。

薩摩隼人については個人名は記されないのだが、大隅隼人については二人の個人名が記されている。ひとりは「加志君和多利(かしのきみわたり)」であり、もう一人は「佐須岐君夜麻等久久売(さすきのきみやまとくくめ)」である。どちらも「君姓」であるから、地元の豪族に違いはないが、前者が「姶良郡少領」という官職に就いているのに対し、ヤマトククメのほうは不明である。

ワタリは姶良郡に居住する豪族であることは間違いないが、ヤマトククメのは分からない。しかし「佐須岐(さすき)」は肝属郡南大隅町の佐多地区の中心地「伊座敷」(いざしき)に通じるので、あるいは佐多(合併前の佐多町)の女首長であったかもしれない。

西暦700年に、中央からの国覔ぎの使い(調査団)を脅迫したハヤト首長の中に、薩摩ヒメ・クメ・ハヅという女首長がいたが、これに類するものだろう。

ⅳ.天平2年(730年)3月7日
「太宰府言(もう)す。大隅・薩摩両国の百姓、建国以来いまだかって班田せず。その有する所の田は悉くこれ墾田なり。相承(うけ)て田を作ることを為し、改めて動かすことを願わず。もし班(田収)授に従わば、おそらく喧訴多からんか。ここに於いて旧(もと)に従いて動かさず、各々自ら田を作らしめん。」

薩摩国の建国は702年、大隅国の建国は713年、どちらもこの時点で班田収授の法は適用されていなかった。というのはもともと自力による墾田が多く、もしそれを無視して口分田を造成したりしたら、大変なことになるだろうから、太宰府としてはそのままの形で穏便に済まそうというのである。政府もこれを許した。

その後も班田収授は行われず、70年後の西暦800年(延暦19年)になってようやく条里制らしきものが施行されるようになった(『類聚国史』による)。


以上、南九州人がクマソ・ハヤトと呼ばれた時代の様子を『日本書紀』『続日本紀』から垣間見て来た。

大雑把にまとめると、クマソについては

・クマソはクマソの「熊」という漢字の原義から見るとこれは「火を能くする、コントロールする」で、決して「獰猛・暗愚」の意味ではない。
・クマソタケル(川上建)が、暗殺に来た小碓命に自分の称号である「タケル(建)」を授けている。
・クマソは景行天皇紀から登場し、神功皇后紀を最後に消息がなくなる。
・年代観では320年から370年位の50年ばかりの期間しか出てこない。
・この時代朝鮮半島南部では、それまでの馬韓・辰韓・弁韓の小国家群から、百済・新羅・任那の三つのまとまった国家になった。

・・・というクマソ及びその時代の属性を考えなければならないだろう。


次に、ハヤトについては、

・日向神話では皇孫二代目のホホデミの兄として描かれ、海に関した生業を持っていた。
・700年代には律令制の普及によって中央集権国家を作ろうとする王府と数々の軋轢を生み、ついに何度かの干戈を交えたが故に「隼賊」などという汚名を蒙ったが、史書に登場する430年代から600年代までは「天皇家の皇子の側近ハヤト」「天皇への殉死ハヤト」「殯(もがり)するハヤト」「誄(しのびごと)するハヤト」など、宮廷に近しいハヤトの群像があった。

・・・という点では、いわゆる蛮族ハヤトの面影はない。

となると、やはりハヤトは南九州から「東征」した神武天皇系の子孫であったから、側近として、また後には「舎人」「采女」として宮中に伺候し得たのではなかろうか。

その謎を解き明かしたのが私見の「投馬国東征(東遷)論」である。次にそのことを紹介していこう。

(南九州の古代人・クマソとハヤト 終わり)