最後に投馬国はなぜ「東征」したのかについて考えたい。
ⅰ.投馬国「東征」の真相
④で論じたように、神武東征説話の真実は「神武天皇」を「タギシミミ」に置き換えることによって現実のものとなる。
南九州(古日向)投馬国王のタギシミミが、海路船団を組んで東へ向かったのは事実であったが、この「東征の理由」について、日本書紀は次のように記している(必要な個所を現代語訳している)。
「はるか遠くの地はいまだに王化に潤っておらず、互いに相争っている。塩土老翁(しおつちのおじ=潮路をよく知る熟練の航海者)に聞くと、東方に素晴らしい土地があるそうだ。そこなら天の教えを広めることができる。(倭の)国の中心だろうから、行って都を造ろう。」
王化に潤っていない遥かな土地というのがどこを指すのか不明で、最初この下りを読んだ時、はるかな土地は畿内大和で、そこでは豪族同士が互いに争っているので、割って入って征伐しよう――そういう意気込みかと思った。
しかしそれだと塩土老翁の言う「東方の素晴らしい土地」が倭人同士が相争う血なまぐさい土地だということになってしまう。そんな土地を「素晴らしい土地」とは言わないだろう。
そこで視点を変え、中国史書で「倭人の乱」があったとしてある倭人伝や後漢を参照すると、その大きな乱は「桓霊の間」に勃発したとある。
「桓霊の間」というのは後漢の「桓帝」と「霊帝」の治世年代の中間ということで、具体的には桓帝の治世がAD147年からであり、次の霊帝の治世の終焉は188年であるから、倭人の大きな乱は西暦147年から188年の約40年の間に起こったことになる。
この倭人の乱は、結果として邪馬台国に卑弥呼を女王として擁立させたのだが、主な戦場は北部九州だったと考えている。そしてまた、この倭人の乱こそが上述の東征の理由を描いた書紀の記載の中の「はるか遠くの土地では王化に潤わず、互いに相争っている」が示す争乱だったと思われる。
南九州投馬国はそんな争乱を尻目に自分たちは東方への移動を開始した。その本当の理由は大災害からの避難ではなかったかと思うのである。
大隅半島ではいま、東九州自動車道の建設が急ピッチで行われているが、ここ10年ほどの間で半島の高所部(シラス台地)を通すための道路工事に掛かる前の遺跡の発掘調査がかなりの数実施されている。
弥生時代の出土品に限って概観すると、弥生前期(BC600年~BC300年)は盛況を極め、弥生時代中期(BC300年~AD0年)はやや少なくなり、弥生時代後期(AD0年~300年)となるとごく少数かまたはほぼ皆無という結果である。
弥生時代後期に南九州人は活動を停止していたかのようである。活動が極めて緩慢になったと言っても必要最小限の土器や生活痕(主に住居跡)は残すのが通常であるが、これらさえほぼ出土しないのである。
これはどういうことか? 簡単に言えば「人がいなくなった」ということに他ならない。
ではどうしていなくなったのだろうか。――「避難した」というのが私の結論である。
非常に大きな災害が発生して住むことが適わなくなり、新たな土地を求めて南九州を離れざるを得なくなったのではないかと思う。
南九州人は古代の一時期「クマソ」と呼ばれたが、この「クマソ」の「熊」は原義から「火の盛んなこと、火をうまく扱うこと」の意味だった、そして南九州で火と言えば火山活動のことで、熊曽はその激しい火山活動の中を果敢に生きている様を表し、一種の畏敬を含んだ佳字でもある――と古代の南九州人「クマソ」で指摘した。
しかし今度という今度は想定外な火山活動の大きさに、さしもの南九州人も生活の基盤が失われたのだろう。弥生時代後期と言えば水田稲作がほぼ全土に普及していたので、南九州もその例外ではなかったはずだ。
水稲でも陸稲でもとにかく米に依存し始めた農業生活であったから、その営農基盤を奪う火山の活動(降灰や火砕流)があった可能性は高い。
また大地震に因る大津波という可能性も捨てきれない。最近とみにその発生が囁かれている南海トラフ起因の大地震が発生したのかもしれない。
とにかく、南九州人の生存を脅かすような災害が人々を襲い、生活の基盤そのものが失われれば当然避難するだろう。その避難も一時的なもので済めばよいが、レベルをはるかに超えた災害であれば恒久的な避難、すなわち「移住」ということになる。
私は「神武東征」の真実は「投馬国の東遷」であろうと考え、かつその「東遷」も真相は国を挙げての「移住」だったのではないかと思うのである。
東征の途中で安芸のタケリの宮には7年間、さらに吉備の高島の宮では8年も過ごしているが、東征の言葉通り「武力征伐」ならば、一箇所に7年も8年も駐留するのは長過ぎる。
しかし東征を「移住」と考えればその土地土地で定住しようとしたことも考えられよう。或いは一部の人たちは実際に安芸なり吉備なりに定住したのかもしれない。
ⅱ.タギシミミが殺害された理由
かくて投馬国王タギシミミ一行は、すでに南九州から移住していたカモタケツヌミ(ヤタガラス)とニギハヤヒの協力を得て大和最大の豪族ナガスネヒコはじめ多くの小首長を打ち破り、橿原に王朝を築いた。
南九州を発って紀州に上陸するまでに約16年、大和中原に入るまでに約4年、都合およそ20年を掛け、ついに「東征」は成就した。
ところがこの初代天皇タギシミミは殺害されてしまう。しかも大和で生まれた皇子に・・・。
この殺害の理由は古事記によれば不義、書紀によれば「禍(まが)つ心を持ち、ほしいまま」の不忠であったが、しかし一方ではタギシミミは「年長じて、朝機(朝のハタラキ=朝廷)を歴ていた」とも書くので、天皇であったと暗示している。
つまり本当は天皇位にいた人物なのだが、何しろ南九州は書紀編纂当時の700年代初期に、①国覓ぎの使いに乱暴を働き(700年)、②薩摩国設立の時に反抗し(702年)、③大隅国設立の時にも反抗し(713年)、④大隅国司を殺害して叛乱し(720年)たりと、4回も大和王権に牙をむいているので、「そんな叛逆野卑な南九州から東征して大和に橿原王朝を樹立した」と正直に書くことには相当な抵抗があったに違いない。
しかし史実は史実であったので「東征説話」を記録せざるを得なかったのだが、せめて南九州の直系が天皇位に就任した史実を打ち消すために、実質天皇であったタギシミミを「天皇」とは見せずにぼかし、さらに大和で生まれた皇子に殺害させ、南九州直系の血を排除したのだ。
しかしまさに「頭隠して、尻隠さず」のことわざ通り、大和で生まれた三皇子には南九州投馬国ゆづりの「ミミ」名を名付けたままにしている。片手落ちもいいところだ。
三皇子には他の名、例えば大和生まれなのだから「〇〇大和彦」など、いくらでもそれらしき名を好きなように付けられたはず。
それなのに、南九州投馬国特有の「ミミ」名を付けたということは、そうせざるを得なかったからだ。つまり橿原王朝が南九州投馬国由来の王権であったことが史実だったと記紀は言っているのである。
(「神武東征」の真実⑤ 終わり)
ⅰ.投馬国「東征」の真相
④で論じたように、神武東征説話の真実は「神武天皇」を「タギシミミ」に置き換えることによって現実のものとなる。
南九州(古日向)投馬国王のタギシミミが、海路船団を組んで東へ向かったのは事実であったが、この「東征の理由」について、日本書紀は次のように記している(必要な個所を現代語訳している)。
「はるか遠くの地はいまだに王化に潤っておらず、互いに相争っている。塩土老翁(しおつちのおじ=潮路をよく知る熟練の航海者)に聞くと、東方に素晴らしい土地があるそうだ。そこなら天の教えを広めることができる。(倭の)国の中心だろうから、行って都を造ろう。」
王化に潤っていない遥かな土地というのがどこを指すのか不明で、最初この下りを読んだ時、はるかな土地は畿内大和で、そこでは豪族同士が互いに争っているので、割って入って征伐しよう――そういう意気込みかと思った。
しかしそれだと塩土老翁の言う「東方の素晴らしい土地」が倭人同士が相争う血なまぐさい土地だということになってしまう。そんな土地を「素晴らしい土地」とは言わないだろう。
そこで視点を変え、中国史書で「倭人の乱」があったとしてある倭人伝や後漢を参照すると、その大きな乱は「桓霊の間」に勃発したとある。
「桓霊の間」というのは後漢の「桓帝」と「霊帝」の治世年代の中間ということで、具体的には桓帝の治世がAD147年からであり、次の霊帝の治世の終焉は188年であるから、倭人の大きな乱は西暦147年から188年の約40年の間に起こったことになる。
この倭人の乱は、結果として邪馬台国に卑弥呼を女王として擁立させたのだが、主な戦場は北部九州だったと考えている。そしてまた、この倭人の乱こそが上述の東征の理由を描いた書紀の記載の中の「はるか遠くの土地では王化に潤わず、互いに相争っている」が示す争乱だったと思われる。
南九州投馬国はそんな争乱を尻目に自分たちは東方への移動を開始した。その本当の理由は大災害からの避難ではなかったかと思うのである。
大隅半島ではいま、東九州自動車道の建設が急ピッチで行われているが、ここ10年ほどの間で半島の高所部(シラス台地)を通すための道路工事に掛かる前の遺跡の発掘調査がかなりの数実施されている。
弥生時代の出土品に限って概観すると、弥生前期(BC600年~BC300年)は盛況を極め、弥生時代中期(BC300年~AD0年)はやや少なくなり、弥生時代後期(AD0年~300年)となるとごく少数かまたはほぼ皆無という結果である。
弥生時代後期に南九州人は活動を停止していたかのようである。活動が極めて緩慢になったと言っても必要最小限の土器や生活痕(主に住居跡)は残すのが通常であるが、これらさえほぼ出土しないのである。
これはどういうことか? 簡単に言えば「人がいなくなった」ということに他ならない。
ではどうしていなくなったのだろうか。――「避難した」というのが私の結論である。
非常に大きな災害が発生して住むことが適わなくなり、新たな土地を求めて南九州を離れざるを得なくなったのではないかと思う。
南九州人は古代の一時期「クマソ」と呼ばれたが、この「クマソ」の「熊」は原義から「火の盛んなこと、火をうまく扱うこと」の意味だった、そして南九州で火と言えば火山活動のことで、熊曽はその激しい火山活動の中を果敢に生きている様を表し、一種の畏敬を含んだ佳字でもある――と古代の南九州人「クマソ」で指摘した。
しかし今度という今度は想定外な火山活動の大きさに、さしもの南九州人も生活の基盤が失われたのだろう。弥生時代後期と言えば水田稲作がほぼ全土に普及していたので、南九州もその例外ではなかったはずだ。
水稲でも陸稲でもとにかく米に依存し始めた農業生活であったから、その営農基盤を奪う火山の活動(降灰や火砕流)があった可能性は高い。
また大地震に因る大津波という可能性も捨てきれない。最近とみにその発生が囁かれている南海トラフ起因の大地震が発生したのかもしれない。
とにかく、南九州人の生存を脅かすような災害が人々を襲い、生活の基盤そのものが失われれば当然避難するだろう。その避難も一時的なもので済めばよいが、レベルをはるかに超えた災害であれば恒久的な避難、すなわち「移住」ということになる。
私は「神武東征」の真実は「投馬国の東遷」であろうと考え、かつその「東遷」も真相は国を挙げての「移住」だったのではないかと思うのである。
東征の途中で安芸のタケリの宮には7年間、さらに吉備の高島の宮では8年も過ごしているが、東征の言葉通り「武力征伐」ならば、一箇所に7年も8年も駐留するのは長過ぎる。
しかし東征を「移住」と考えればその土地土地で定住しようとしたことも考えられよう。或いは一部の人たちは実際に安芸なり吉備なりに定住したのかもしれない。
ⅱ.タギシミミが殺害された理由
かくて投馬国王タギシミミ一行は、すでに南九州から移住していたカモタケツヌミ(ヤタガラス)とニギハヤヒの協力を得て大和最大の豪族ナガスネヒコはじめ多くの小首長を打ち破り、橿原に王朝を築いた。
南九州を発って紀州に上陸するまでに約16年、大和中原に入るまでに約4年、都合およそ20年を掛け、ついに「東征」は成就した。
ところがこの初代天皇タギシミミは殺害されてしまう。しかも大和で生まれた皇子に・・・。
この殺害の理由は古事記によれば不義、書紀によれば「禍(まが)つ心を持ち、ほしいまま」の不忠であったが、しかし一方ではタギシミミは「年長じて、朝機(朝のハタラキ=朝廷)を歴ていた」とも書くので、天皇であったと暗示している。
つまり本当は天皇位にいた人物なのだが、何しろ南九州は書紀編纂当時の700年代初期に、①国覓ぎの使いに乱暴を働き(700年)、②薩摩国設立の時に反抗し(702年)、③大隅国設立の時にも反抗し(713年)、④大隅国司を殺害して叛乱し(720年)たりと、4回も大和王権に牙をむいているので、「そんな叛逆野卑な南九州から東征して大和に橿原王朝を樹立した」と正直に書くことには相当な抵抗があったに違いない。
しかし史実は史実であったので「東征説話」を記録せざるを得なかったのだが、せめて南九州の直系が天皇位に就任した史実を打ち消すために、実質天皇であったタギシミミを「天皇」とは見せずにぼかし、さらに大和で生まれた皇子に殺害させ、南九州直系の血を排除したのだ。
しかしまさに「頭隠して、尻隠さず」のことわざ通り、大和で生まれた三皇子には南九州投馬国ゆづりの「ミミ」名を名付けたままにしている。片手落ちもいいところだ。
三皇子には他の名、例えば大和生まれなのだから「〇〇大和彦」など、いくらでもそれらしき名を好きなように付けられたはず。
それなのに、南九州投馬国特有の「ミミ」名を付けたということは、そうせざるを得なかったからだ。つまり橿原王朝が南九州投馬国由来の王権であったことが史実だったと記紀は言っているのである。
(「神武東征」の真実⑤ 終わり)