鴨着く島

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持統女帝の「甥殺し」(記紀点描㊾)

2022-03-02 10:19:43 | 記紀点描
【はじめに】

「甥殺し」とはおどろおどろしいタイトルだが、天武天皇(第40代・在位673~686年)と皇后の持統天皇(第41代・在位687~697年)は揃って「甥」を亡き者にしている。

天武は壬申の乱(672年6月~7月)を起こし、その結果、兄天智天皇(第38代・在位662~671年)の皇子大友の近江王朝軍を破り、大友皇子は自害している。(※大友皇子は弘文天皇として天皇系譜の第39代になっている。)

また持統は夫の天武崩御(686年9月9日)後、まだひと月も経たない10月3日に甥の大津皇子(母は持統の同父母の姉・太田皇女)を自害に追い込んだ(享年24歳)。

大友皇子が自害した時、持統は天武側の吉野軍の戦陣にいたから、持統は大友皇子および大津皇子二人が自害して果てた渦中に身を置いていたことになり、女性天皇のイメージからすれば驚くほかない。

ここでは詳しくは取り上げないが、同じように「甥」を殺害に追い込んだ女帝がいる。それは天智天皇の母・斉明天皇(第37代・在位655~661年)である。

斉明天皇は弟の孝徳天皇(第36代・在位645~654年)の子の甥・有間皇子が、斉明の統治上の問題点(特に「狂心の渠」=無駄な水路工事)を指摘したことを重臣の蘇我赤兄から聞き及び、ついに丹比国襲を遣わして殺害させている(斉明紀4=658年11月条)。

(※この暗殺の前の同年5月に最愛の孫の建皇子が8歳で亡くなっており、あるいはこのショックが余計に女帝の心情を混乱させ、ヒステリックになっていた可能性がある。)

【大津皇子の自死の経緯】

大津皇子は持統とは同父母の大田皇女の子である。父は天智、母は遠智娘(蘇我倉山田石川麻呂の娘)であった。(※上に上記の8歳で亡くなった兄・建皇子がいる。)

この甥の大津皇子が「謀反の心あり」として追及され自死に至った経緯は次のようである。

<朱鳥元年(686年)9月9日に天武天皇が崩御し、その直後に大津皇子の謀反心が発覚した。>と持統天皇の「即位前紀」は記す。さらに10月2日になって

<大津皇子はじめ32人が一味として捕らえられた。そして翌日には大津に死を賜った。行年24歳。この時、妃の山辺皇女は半狂乱になり、ともに死んだ。>

<大津の人となりは、才気があり、文筆に長けていた。「詩賦(漢詩・文)は大津より始まる」と言われたほどであった。>

<10月29日になって持統は詔勅を出し、大津以外は大津の側近だった帳内(舎人)一人を伊豆に流し、また同じく一味とされた新羅僧の行心については「皇子の謀反に関与したが、罪するには忍びないので飛騨の寺に移す」とした。>

クーデターの一味32人を捕縛し、そのうち首謀者とされた大津皇子は即刻自死へ追いやり、残りのうち2名だけに罪状を嫁したが、拍子抜けするくらい甘い裁定であった。

側近の舎人は遠流だから口封じだろう。また行心という新羅出身の僧は『懐風藻』という詩賦によれば、どうやら大津皇子に謀反をそそのかせた張本人のようなのだ。

要するに「内通者」(スパイ)という奴である。斉明天皇への謀反を企てようとした有間皇子が重臣の蘇我赤兄によってそそのかされ、内通されてしまったのとほぼ同じ手口といっていいだろう。(※旧ソ連のKGBもどきのやり方である。それも女帝が使っているのだから、なかなか開いた口が塞がらない。)

では、なぜ、今日では血縁関係でよく言われる「かわいい甥っ子」のはずの大津皇子を殺してしまったのか。

それは今日にも有りがちな「わが子可愛さ」だろう。

持統には同じ天武の血を引く皇子の草壁がいた。年齢は大津皇子より一つ上だったが、大津の非凡さに全く歯が立たなかったようなのだ。

上で触れたように姉の子の大津皇子は才気煥発であり、かつ容姿も格別に優れていたらしい。

我が子は愚か者でもかわいいのだろうが、しかし周囲が可愛いといってくれなければ役に立たない。父の天智は同じ孫でもことのほか大津の方を寵愛したようで、そのことも持統の嫉妬を買うに十分だったのだろう。

とにかく天武後の後継レースでは衆目の一致するのが大津皇子であった。持統はそれをでっち上げの「謀反劇」に仕立てたてて阻止したわけである。げに女の執念の恐ろしさ・・・か。

【草壁皇子の死】

天武天皇の崩御(686年)後、草壁皇子に即位させれば何のことはなかったのに、持統はそうせず、異常に長い殯(もがり)を継続し、687年10月には天武の御陵である「大内陵」を築き、翌688年(持統称制2年)の11月にようやく天皇を大内陵に葬っている。

そしてやれやれ翌年には草壁皇子が即位して天皇になるはずであったが、あに図らんや、肝心の草壁は689年の4月13日に死んでしまうのである。大津皇子が不慮の死を遂げてから2年半後のことであった。ここに大津の執念ならぬ怨念を感じるのは私だけか。

結果論だが、持統はいったい何のために大津を排除したのか。その意味は全く薄れてしまったのである。大津皇子の死は全くの無駄死にであったことになろう。

この草壁皇子の死後1か月して新羅から天武天皇への弔問使いが来日しているが、その時に興味あるトラブルが発生した。その内容をかいつまんで書くと次のようである。

<天武崩御への弔問使いの金道那が、新羅の官位で「級飡(キュウサン)」という17階ある官位の上から数えて9番目だったということで、持統は「孝徳天皇の時は翳飡(エイサン)という2番目で、天智天皇の時は一吉飡(イチキッサン)という7番目、今度は9番目の低い位の者がやって来たが、これはどういうわけか!」と怒り、結局、金道那を追い返してしまった。>

約30年前の孝徳天皇の時の官位2番目というのに比べ、天智は7番目、天武は9番目なのはどう考えたらよいだろうか。新羅が孝徳天皇の時に翳飡(エイサン)という2番目の位の使いを送ったことは当然承知のはずである。

とすると新羅はそれを分かっていながら天智に7番目を、天武に9番目を充てたことになる。それは結局新羅の天智なり天武なりへの評価なのではないか。

まず天智は中大兄皇子時代に新羅・唐連合軍と白村江で戦った倭軍の最高指導者であり、唐・新羅にすれば敗軍(旧敵)の将であった。したがって孝徳天皇より著しく落ちる7番目と値踏みしたに違いない。これはこれで理解できる。

しかし天武の9番目というのはどうだろうか? 天武は白村江戦役に直接タッチはしていないのである。それがなぜ天智よりも低い位の者が派遣されてきたのだろうか。

そのことは実は私見の「天武天皇=定恵」説を採用すると、容易に説明ができる。というのは天武は皇族ではなく、重臣の家系「中臣氏」(のちの藤原氏)の出身者だったからだろう。(※天武の幼名「大海人皇子」の名が母の斉明紀にも兄の天智紀にも、家系上の説明以外ではほぼ登場しないことから推定される。)

このことは内密にされてはいたのだろうが、先の大津皇子謀反事件をリークしたと思われる新羅僧の行心などは知っていたかもしれない。

【持統天皇の時代】

次期天皇になるべき我が子・草壁皇子が若死にした翌年の690年1月1日に持統天皇が即位した。

即位の際に神祇伯の中臣大嶋が「天神寿詞(あまつかみのよごと)」を読み上げているが、これは新規の儀式である。また忌部宿祢色夫知が「神璽」「剣」「鏡」を皇后に捧げて即位が完了しており、この伝統は今に繋がるものとして注目に値する。

この年には藤原宮を造営する土地を下見しており、4年後の694年(持統8年)12月に竣工し、大規模な都城「藤原京」が開かれた。

天武時代に引き続き、中央集権化つまり律令制への整備はたゆまずに進められており、その体現する場所としての藤原京であった。

また南九州関連として、6年(692年)には法師が派遣され、大隅・阿多に仏教を伝えたという。695年には種子島へ覓国使の文忌寸博勢が遣わされたとあり、南九州から離島にかけても集権化を進めていた様子がうかがえる。(※同じ695年に大隅から隼人が上京している。)

696年(持統10年)の10月に藤原不比等など高級官僚たちに資人(使用人)を与えたという記事が見える。

中でも藤原不比等は、この後も王権の枢要を任され、11年後の慶雲4年(707年)4月15日には文武天皇の「宣命」により、「食封(へびと)」実に5千戸が与えられるという大出世を果たしている。(※さらに13年後の720年8月に不比等は62歳で逝去するが、時あたかも王府軍が南九州の「隼人の叛乱」を鎮圧すべく戦っている時であった。征隼人持節大将軍だった大伴旅人は弔問のため都に返されている。)

持統天皇の吉野宮への行幸は32回にも及んでおり、よほど天武挙兵の揺籃の地を好んだようである。

また年2回、4月の夏の初めには竜田の水の神を祭り、7月の秋の初めには広瀬の物忌みの神(風鎮め)を祭ることを欠かしたことはなかった。

かくて治世11年目の697年8月、まだ元気なうちに、次代の天皇として草壁皇子の子の軽皇子に禅譲(生前退位)したのは賢明であった。持統天皇は引退後の文武天皇の大宝2年(702年)に58歳で崩御している。

(※軽皇子こと文武天皇(第42代・在位697~707年)は、持統にとって子の草壁の子であるから孫に当たるのだが、実は母(草壁の妻)は持統の腹違いの妹の阿閉皇女であったから、そっちから見れば持統の甥に当たる。)