【はじめに】
『魏志』(正確には『三国志巻30・魏書30・烏丸鮮卑東夷伝』)に記された倭人。その一国であり中国にその存在を知られた邪馬台女王国は、西暦170年から180年頃にあった倭国の争乱の後に立てられた女王ヒミコを盟主とする国であり、その所在地をめぐって江戸時代から喧々諤々の争論が続いている。
私見では疾うに結論が出ており、女王国の所在地は福岡県八女市なのだが、倭人伝に記載のある朝鮮半島中部の帯方郡から九州までの行程の解釈において、著しい改変を加えるのが畿内説であり、末盧国(佐賀県唐津市)から東南へ歩くというところを、東北の糸島市へ歩かせていることである。こんな恣意的な解釈を許していれば、邪馬台国の所在地に関しては永遠に解けぬ謎に終わる。
末盧国(唐津)から東南陸行500里なら特定できる場所(町)がある。そこは佐賀県相知郡厳木町である。厳木は「きうらぎ」と読んでいるが、「いつき」とも読める。万葉仮名で書くと「伊都城」で、「伊都(いつ)国の城」すなわち伊都国の王宮を表している。伊都(いつ)国は決して糸島市ではない。
ここから陸路を倭人伝の記述通りに進むと、佐賀平野を横断し、筑後川を渡り、久留米から南へほど近い八女市に至る。ここが邪馬台女王国の中心である。
日本書紀の「景行天皇紀」には南九州のクマソが背いたので天皇自らが「親征」をしたという記事があるが、クマソを征伐した後に九州を巡狩している中で、八女に至った時にはるか東の山々を眺め、「麗しい山々だが、そこには誰かいるのか?」と臣下に尋ねる場面がある。
すると臣下の水沼君が「あの山々には八女津媛という神がおります」と答えたというが、この場面はかつて存在した邪馬台国とその女王ヒミコを彷彿とさせるに十分である。
以上のことはこれまで何度も述べてきたことであり、また拙著『邪馬台国真論』で詳述してあるのでそちらに譲るが、今回からはタイトルの「邪馬台国時代の朝鮮半島の国々」についてこれから書いて行こうと思う。
同じ魏書の「烏丸鮮卑東夷伝」に記載された東夷の国々には最北部の「夫余(フヨ)」から始まって「高句麗」「東沃沮(東ヨクソ)」「挹婁(ユウロウ)」「濊(ワイ)」「韓(カン)」「倭人」の7か国がある。
このうち「韓」と「倭人」は「邪馬台国関連シリーズ」で述べているので、ここでは「夫余」「高句麗」「東沃沮」「挹婁」「濊」について東夷伝の記すところを解釈していきたいと思っている。基本的には箇条書きだが、肝要な個所は逐語訳をし、分かりやすい表現を心掛けるつもりである。
【夫余】
・地理…玄菟郡から東へ千里。秦の始皇帝の築いた長城の北側で、ほぼ南満州を指している。シェンヤン、フーシュンを含む一帯の2千里四方である。
・戸数は8万戸
・東夷の諸国の中では最も平原が多い。
・「君主あり」と記すが、具体的な王の名はない。
・官に馬加・牛加・猪加・狗加・大使・大使者・使者の7ランクがある。
・漢代には漢王朝に対して朝貢し、玉璧などを賜与されていた。ただ、印には「濊(ワイ)王之印」があり、また国内に「濊(ワイ)城」と名付けられた城もあるから、夫余王はもともとは濊に居たようだ。このことと、古老が伝えている「我々は昔、この地に亡命して来た」という伝承とは整合する。・・・①
・白衣を尊ぶ。
・跪拝し、手を地面に突いて、ものを述べる。
・古老は「昔、ここへ亡命して来た」と言う。・・・②
夫余は俗にいう「万里の長城」の北側に位置し、広い平原に戸数8万戸があり、東夷伝の中では最も戸数が多い。この戸数は韓伝に記された馬韓10万戸、弁韓と辰韓の合計約5万戸より多い。また九州の邪馬台国連盟の戸数7万戸より大きい。
夫余伝では「五穀に宜しい」とあるから、7万戸を養うに足る穀物類が採れたのであろう。
注目すべきは①と②で、両者は同じことを言っているのだが、古老の語るところでは亡命して来た人々が多いようである。王庫にある王印に「濊(ワイ)王之印」があり、また「濊(ワイ)城」と名付けられた城があることからして、どうやらその亡命者が元居たところは濊国だった。
その濊国は今日の北朝鮮域にあり、当時の戸数は2万戸であった。夫余への亡命者がどのくらいあったかは不明だが、万を越える数であった可能性が高い。亡命せざるを得なかった理由は、漢王朝が紀元前108年に朝鮮半島に「玄菟・楽浪・臨屯・真番」の4郡(直轄地=植民地)を置いたためである。濊国は北朝鮮域にあったが、楽浪郡が置かれ、国土の西半分が割かれ、戸数は半減したと言って良いかもしれない(後述)。
【高句麗】
・地理…遼東半島の東千里にある。鴨緑江中流から上流の山岳地帯に属する2千里四方が領域である。
・戸数は3万戸
・大山と渓谷が多く、良田はない。
・「王あり」と記すが、夫余と同じく具体的な王名はない。
・官に相加・対盧・沛者・古雛加・主簿・優台丞・使者・宗衣・先人の9ランクがある。
・後漢の光武帝8(西暦32)年の時、初めて「高句麗王」を名乗って朝貢した。遼東を独立国にしようとした公孫氏と手を組み、たびたび楽浪郡治に反抗したが、魏の明帝の景初2(238)年に、公孫氏が司馬懿将軍に討たれると、帰順した。
・涓奴部・絶奴部・順奴部・灌奴部・桂婁部の五族がある。
・伝承では「夫余の別種」という。
・10月に天を祭り、「東盟」という大会を開く。
・国の東に洞窟があり、そこに「隧神」がいるとする。
高句麗は鴨緑江沿い山間部の河岸段丘地帯に開けた国である。2千里四方と、夫余と同じほどの面積を持つ大国だが、まとまった良田はなく、戸数は3万戸と、夫余の半分以下である。
後漢の光武帝の8年(32年)に高句麗王として朝貢しているので、その時期には国として纏まったようである。
伝承では夫余の別種というが、夫余には多くの濊人が流れ込み「濊王」の存在さえあったのだが、この高句麗は多数の亡命者を受け入れるほどの食糧が確保できなかったため、濊人の流入は少なかった。それで同一種族ではないとしたのだろう。
10月に天を祭るのを「東盟」と言ったとあるが、東と言えば日の出の方向であるから、結局、太陽神を祭ったのだろうか。しかも国の東には洞窟があって、そこには「穴の神」(穴に入ってる神)がいるというが、これは冬至の時期の太陽の衰えを意味しているのか、はたまた倭人の伝承のアマテラスオオカミの「岩戸こもり」に匹敵するのか、興味が持たれるところである。
【東沃沮(ヒガシヨクソ)】
地理…高句麗の東で、東海に面している。現在の北朝鮮、咸鏡南道の一帯である。
・戸数は5千戸
・大君主はいない。
・邑落ごとに長帥がいる。
・漢が朝鮮に4郡を置いた時(前108年)、沃沮は玄菟郡に属した。後漢時代には、はじめ濊に属していたが、のちに高句麗に臣属した。
【挹婁(ユウロウ)】
地理…夫余の東北千余里、東沃沮の北の海岸地帯にある。
・戸数の記載なし。
・大君長なし。
・邑ごとに大人がいる。
・夫余に属していたが、黄初年間(220~226年)に叛乱を起こした。夫余人に似ている。
・寒さがはげしいため、穴居生活をしている。
・操船が上手で、時に近隣を襲うことがある。
以上が夫余から挹婁(ユウロウ)までの4か国だが、東沃沮も挹婁も国というには余りにも小国であり、どちらにも君主と呼べる者はいない。
先の2か国、夫余と高句麗は民族的には近縁であることが分かり、しかも夫余には「濊(ワイ)王之印」や「濊城」があるという。その由来の出所はもちろん北朝鮮域にあった濊である。この濊については「朝鮮半島の国々②」として項を改めることにする。
『魏志』(正確には『三国志巻30・魏書30・烏丸鮮卑東夷伝』)に記された倭人。その一国であり中国にその存在を知られた邪馬台女王国は、西暦170年から180年頃にあった倭国の争乱の後に立てられた女王ヒミコを盟主とする国であり、その所在地をめぐって江戸時代から喧々諤々の争論が続いている。
私見では疾うに結論が出ており、女王国の所在地は福岡県八女市なのだが、倭人伝に記載のある朝鮮半島中部の帯方郡から九州までの行程の解釈において、著しい改変を加えるのが畿内説であり、末盧国(佐賀県唐津市)から東南へ歩くというところを、東北の糸島市へ歩かせていることである。こんな恣意的な解釈を許していれば、邪馬台国の所在地に関しては永遠に解けぬ謎に終わる。
末盧国(唐津)から東南陸行500里なら特定できる場所(町)がある。そこは佐賀県相知郡厳木町である。厳木は「きうらぎ」と読んでいるが、「いつき」とも読める。万葉仮名で書くと「伊都城」で、「伊都(いつ)国の城」すなわち伊都国の王宮を表している。伊都(いつ)国は決して糸島市ではない。
ここから陸路を倭人伝の記述通りに進むと、佐賀平野を横断し、筑後川を渡り、久留米から南へほど近い八女市に至る。ここが邪馬台女王国の中心である。
日本書紀の「景行天皇紀」には南九州のクマソが背いたので天皇自らが「親征」をしたという記事があるが、クマソを征伐した後に九州を巡狩している中で、八女に至った時にはるか東の山々を眺め、「麗しい山々だが、そこには誰かいるのか?」と臣下に尋ねる場面がある。
すると臣下の水沼君が「あの山々には八女津媛という神がおります」と答えたというが、この場面はかつて存在した邪馬台国とその女王ヒミコを彷彿とさせるに十分である。
以上のことはこれまで何度も述べてきたことであり、また拙著『邪馬台国真論』で詳述してあるのでそちらに譲るが、今回からはタイトルの「邪馬台国時代の朝鮮半島の国々」についてこれから書いて行こうと思う。
同じ魏書の「烏丸鮮卑東夷伝」に記載された東夷の国々には最北部の「夫余(フヨ)」から始まって「高句麗」「東沃沮(東ヨクソ)」「挹婁(ユウロウ)」「濊(ワイ)」「韓(カン)」「倭人」の7か国がある。
このうち「韓」と「倭人」は「邪馬台国関連シリーズ」で述べているので、ここでは「夫余」「高句麗」「東沃沮」「挹婁」「濊」について東夷伝の記すところを解釈していきたいと思っている。基本的には箇条書きだが、肝要な個所は逐語訳をし、分かりやすい表現を心掛けるつもりである。
【夫余】
・地理…玄菟郡から東へ千里。秦の始皇帝の築いた長城の北側で、ほぼ南満州を指している。シェンヤン、フーシュンを含む一帯の2千里四方である。
・戸数は8万戸
・東夷の諸国の中では最も平原が多い。
・「君主あり」と記すが、具体的な王の名はない。
・官に馬加・牛加・猪加・狗加・大使・大使者・使者の7ランクがある。
・漢代には漢王朝に対して朝貢し、玉璧などを賜与されていた。ただ、印には「濊(ワイ)王之印」があり、また国内に「濊(ワイ)城」と名付けられた城もあるから、夫余王はもともとは濊に居たようだ。このことと、古老が伝えている「我々は昔、この地に亡命して来た」という伝承とは整合する。・・・①
・白衣を尊ぶ。
・跪拝し、手を地面に突いて、ものを述べる。
・古老は「昔、ここへ亡命して来た」と言う。・・・②
夫余は俗にいう「万里の長城」の北側に位置し、広い平原に戸数8万戸があり、東夷伝の中では最も戸数が多い。この戸数は韓伝に記された馬韓10万戸、弁韓と辰韓の合計約5万戸より多い。また九州の邪馬台国連盟の戸数7万戸より大きい。
夫余伝では「五穀に宜しい」とあるから、7万戸を養うに足る穀物類が採れたのであろう。
注目すべきは①と②で、両者は同じことを言っているのだが、古老の語るところでは亡命して来た人々が多いようである。王庫にある王印に「濊(ワイ)王之印」があり、また「濊(ワイ)城」と名付けられた城があることからして、どうやらその亡命者が元居たところは濊国だった。
その濊国は今日の北朝鮮域にあり、当時の戸数は2万戸であった。夫余への亡命者がどのくらいあったかは不明だが、万を越える数であった可能性が高い。亡命せざるを得なかった理由は、漢王朝が紀元前108年に朝鮮半島に「玄菟・楽浪・臨屯・真番」の4郡(直轄地=植民地)を置いたためである。濊国は北朝鮮域にあったが、楽浪郡が置かれ、国土の西半分が割かれ、戸数は半減したと言って良いかもしれない(後述)。
【高句麗】
・地理…遼東半島の東千里にある。鴨緑江中流から上流の山岳地帯に属する2千里四方が領域である。
・戸数は3万戸
・大山と渓谷が多く、良田はない。
・「王あり」と記すが、夫余と同じく具体的な王名はない。
・官に相加・対盧・沛者・古雛加・主簿・優台丞・使者・宗衣・先人の9ランクがある。
・後漢の光武帝8(西暦32)年の時、初めて「高句麗王」を名乗って朝貢した。遼東を独立国にしようとした公孫氏と手を組み、たびたび楽浪郡治に反抗したが、魏の明帝の景初2(238)年に、公孫氏が司馬懿将軍に討たれると、帰順した。
・涓奴部・絶奴部・順奴部・灌奴部・桂婁部の五族がある。
・伝承では「夫余の別種」という。
・10月に天を祭り、「東盟」という大会を開く。
・国の東に洞窟があり、そこに「隧神」がいるとする。
高句麗は鴨緑江沿い山間部の河岸段丘地帯に開けた国である。2千里四方と、夫余と同じほどの面積を持つ大国だが、まとまった良田はなく、戸数は3万戸と、夫余の半分以下である。
後漢の光武帝の8年(32年)に高句麗王として朝貢しているので、その時期には国として纏まったようである。
伝承では夫余の別種というが、夫余には多くの濊人が流れ込み「濊王」の存在さえあったのだが、この高句麗は多数の亡命者を受け入れるほどの食糧が確保できなかったため、濊人の流入は少なかった。それで同一種族ではないとしたのだろう。
10月に天を祭るのを「東盟」と言ったとあるが、東と言えば日の出の方向であるから、結局、太陽神を祭ったのだろうか。しかも国の東には洞窟があって、そこには「穴の神」(穴に入ってる神)がいるというが、これは冬至の時期の太陽の衰えを意味しているのか、はたまた倭人の伝承のアマテラスオオカミの「岩戸こもり」に匹敵するのか、興味が持たれるところである。
【東沃沮(ヒガシヨクソ)】
地理…高句麗の東で、東海に面している。現在の北朝鮮、咸鏡南道の一帯である。
・戸数は5千戸
・大君主はいない。
・邑落ごとに長帥がいる。
・漢が朝鮮に4郡を置いた時(前108年)、沃沮は玄菟郡に属した。後漢時代には、はじめ濊に属していたが、のちに高句麗に臣属した。
【挹婁(ユウロウ)】
地理…夫余の東北千余里、東沃沮の北の海岸地帯にある。
・戸数の記載なし。
・大君長なし。
・邑ごとに大人がいる。
・夫余に属していたが、黄初年間(220~226年)に叛乱を起こした。夫余人に似ている。
・寒さがはげしいため、穴居生活をしている。
・操船が上手で、時に近隣を襲うことがある。
以上が夫余から挹婁(ユウロウ)までの4か国だが、東沃沮も挹婁も国というには余りにも小国であり、どちらにも君主と呼べる者はいない。
先の2か国、夫余と高句麗は民族的には近縁であることが分かり、しかも夫余には「濊(ワイ)王之印」や「濊城」があるという。その由来の出所はもちろん北朝鮮域にあった濊である。この濊については「朝鮮半島の国々②」として項を改めることにする。