都城歴史資料館で5月20日から、<食とくらしと縄文人>という特別展示が催されているというので見学に出かけた。
その特別展示の目玉は、何と言っても都城市山之口町の「相原第1遺跡」から大量に出土した縄文時代早期前葉の「前平式土器」である。
相原第1遺跡は山之口町と三股町との境に近く、令和2年から3年に掛けて行われた農地整備自事業に伴う発掘調査によって発見された。
資料館でもらったパンフによると次の特徴がある。
【(タイトル)11000年前の縄文村発見!
相原第1遺跡では令和2~3年に調査を実施した結果、約11000年前の集落跡が発見されました。
竪穴建物跡の中には、建物内で火を焚いていた跡(炉)が確認されたものもありました。南九州の早期前葉の竪穴建物跡から炉が発見される例は少なく、貴重な発見といえます。
また、ツルマメとアキノエノコログサの圧痕土器も見つかっており、当時の植物利用が分かる遺跡です。】
パンフの説明通り、この遺跡は11000年前の当時の山之口町一帯の(広く言えば古日向一帯の)人が生活していた跡の基本的な条件を示している貴重な遺跡だ。竪穴式の住居跡の中に「炉」があったらしく、明治以前の日本家屋には必ず「囲炉裏」があったことにもつながって来るから不思議だ。
また土器に付いた「圧痕」にツルマメとエノコログサが見られたことは、当時の食糧事情の一端を示しており、これも重要な発見である。
特別展示室の真ん中に展示の「前平式土器」。二つの土器には大きさの違いがあるが、口縁の刻み方などは同じである。
左手のはやや小ぶりで高さ20センチくらい、平底で細長い円筒形(バケツ型)。右のは高さ30センチほどで、直径が2倍くらいあり、こっちは寸胴タイプだ。
錦江町田代の鶴園で発見された岩本式土器群は、この前平式と同じ時代で、同じく平底だがもっと図体の大きな物ばかりだった。(※他に最古級の土器としては吉田式というのがあるが、吉田式の方が貝殻文様がはっきりしているようだ。)
相原第1遺跡から発掘された土器は縄文早期前葉の前平式土器だけというから、ここの集落は前平式土器の起源地と言っていいのではないだろうか。
その一方でこの集落は他のデザインの土器を生み出す前か、もしくはよそからの土器型式を導入する時間を持たないうちになくなったようなのだ。いったい何があったのだろうか?
火山災害による拡散か、はたまた疫病による死滅か。
いずれにしても東日本の縄文文化よりはるかに早熟だった南の縄文(貝殻文)文化は、7300年前に起きた「鬼界カルデラ大噴火」の前になす術もなく、壊滅した。
ただし、逃げおおせた者たちがいたことは明らかで、7000年前以降に本格化する東日本の縄文文化に影響を与えたことは間違いないだろう。
中部から信越地方に見られる「火焔型土器」のデコレーションはまさしく「火焔」であり、そのモチーフは南九州をしばしば襲った巨大噴火だったのではないかと思われないこともないのである。
その特別展示の目玉は、何と言っても都城市山之口町の「相原第1遺跡」から大量に出土した縄文時代早期前葉の「前平式土器」である。
相原第1遺跡は山之口町と三股町との境に近く、令和2年から3年に掛けて行われた農地整備自事業に伴う発掘調査によって発見された。
資料館でもらったパンフによると次の特徴がある。
【(タイトル)11000年前の縄文村発見!
相原第1遺跡では令和2~3年に調査を実施した結果、約11000年前の集落跡が発見されました。
竪穴建物跡の中には、建物内で火を焚いていた跡(炉)が確認されたものもありました。南九州の早期前葉の竪穴建物跡から炉が発見される例は少なく、貴重な発見といえます。
また、ツルマメとアキノエノコログサの圧痕土器も見つかっており、当時の植物利用が分かる遺跡です。】
パンフの説明通り、この遺跡は11000年前の当時の山之口町一帯の(広く言えば古日向一帯の)人が生活していた跡の基本的な条件を示している貴重な遺跡だ。竪穴式の住居跡の中に「炉」があったらしく、明治以前の日本家屋には必ず「囲炉裏」があったことにもつながって来るから不思議だ。
また土器に付いた「圧痕」にツルマメとエノコログサが見られたことは、当時の食糧事情の一端を示しており、これも重要な発見である。
特別展示室の真ん中に展示の「前平式土器」。二つの土器には大きさの違いがあるが、口縁の刻み方などは同じである。
左手のはやや小ぶりで高さ20センチくらい、平底で細長い円筒形(バケツ型)。右のは高さ30センチほどで、直径が2倍くらいあり、こっちは寸胴タイプだ。
錦江町田代の鶴園で発見された岩本式土器群は、この前平式と同じ時代で、同じく平底だがもっと図体の大きな物ばかりだった。(※他に最古級の土器としては吉田式というのがあるが、吉田式の方が貝殻文様がはっきりしているようだ。)
相原第1遺跡から発掘された土器は縄文早期前葉の前平式土器だけというから、ここの集落は前平式土器の起源地と言っていいのではないだろうか。
その一方でこの集落は他のデザインの土器を生み出す前か、もしくはよそからの土器型式を導入する時間を持たないうちになくなったようなのだ。いったい何があったのだろうか?
火山災害による拡散か、はたまた疫病による死滅か。
いずれにしても東日本の縄文文化よりはるかに早熟だった南の縄文(貝殻文)文化は、7300年前に起きた「鬼界カルデラ大噴火」の前になす術もなく、壊滅した。
ただし、逃げおおせた者たちがいたことは明らかで、7000年前以降に本格化する東日本の縄文文化に影響を与えたことは間違いないだろう。
中部から信越地方に見られる「火焔型土器」のデコレーションはまさしく「火焔」であり、そのモチーフは南九州をしばしば襲った巨大噴火だったのではないかと思われないこともないのである。