鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

初めての田植え交流

2022-06-19 20:05:48 | おおすみの風景
今日は早朝からどんよりした曇り空で、愛犬ウメと散歩に出た6時10分前頃には霧雨が降り始めた。

散歩を早目に切り上げて家に帰り、スマホの天気予報に目を通すと、90パーセントの確率で降る予報だった。特に夕方から夜中には大雨になるという。

それでもまだ本降りにはならず、午前10時からの集落の田植え交流会に参加することができた。

池園町集落センター(公民館)のすぐ近くの田んぼには6、70人の集落の人たちが集まっており、田んぼの中に田植え機が一台入っているのが目に止まった。6条植えの大型田植え機だった。

集まった人たちでは家族連れも多く、特に小学校の低学年以下の子どもが多かった。

町内会の会長の挨拶の後、まず例の大きな田植え機が一枚の田んぼに植え付けを開始し、約30分後には一部を残して植え付けが終了した。その残りの空いた部分を集まった人たちで手植えしようという試みである。



家族全部で参加した一家もいた。聞けば一番小さい子は4歳だという。泥田の中に裸足で入って苗を植えているが、全く気にする様子はない。

ぽつりぽつりと雨が落ちていたが、濡れそぼるほどではなく、カンカン照りだったらかえって汗まみれで大変だったろう。

ここの田んぼの水は近くを流れる大姶良川から引いたもので、古くからの水田だと思われる。今でこそ田植え機を導入するために田んぼの形が長方形になっているが、手植えの頃は千枚田というほどではないが、「百枚田」くらいに田の大きさが細かく分かれていたのだろう。

平安時代の10世紀初めに記された『倭名類聚抄』の中の「諸国郡郷一覧」に、大隅国肝属郡大阿郷とあるのがこの地区で、当時から大姶良川沿いには田んぼが拓かれていたはずである。

当時の区画のまま今に残っているということはあり得ないが、田の形や用水路の姿は変わっても、1100年前の平安時代からここで米作りが行われていたことは間違いない。おそらく大隅国が設置された713年(和銅6年)には作られていただろう。古い話である。

思えば米作りの歴史は長い。特に水田による米作りは湛水であるために、連作障害が起こらないので、毎年同じ田で作ることが可能となったことが大きい。

極端な言い方をすれば、米作りの歴史は弥生時代以降の日本の歴史と言ってもよい。

日向風土記によると天孫ニニギノミコトが地上に降り立つ時、地上が余りに暗いのでモミを蒔いたら明るくなったそうだが、ニニギノミコトは皇室の祖先であるから、皇室の歴史も米作りの歴史と大いに重なって来る。

昨年の自民党総裁選の時に、立候補した某議員が言っていたのを思い出す。曰く「日本で大切なのは皇室と日本語だ」と。

私はこれに水田(米作り)をプラスする。曰く「日本で大切なのは皇室と日本語と水田だ」と。